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美男と野獣
男の色気
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ムトは乾パンを握ったまま、思わず口を開けて凍りついた。
指先に伝わる乾いた感触だけが、現実だと主張するように残っている。
「こ、これは……美男子……」
言葉が零れ落ちた瞬間、ムト自身が一番驚いていた。
隣を見ると、アミもまた無言で立ち尽くしている。
普段の冷静沈着さは影を潜め、見開かれた瞳は水面の反射を映し、頬にははっきりと朱が差していた。
美男子は川辺に膝をつき、澄んだ水を両手ですくう。
指の隙間から零れ落ちる水滴が、きらきらと陽を弾き、彼の白い手首を伝って川へ戻っていく。
ゆっくりと口元へ運ばれるその仕草は、あまりにも自然で、まるで森そのものが人の形を取ったかのようだった。
二人は思わず息を呑む。
風の音すら、遠慮がちに後ずさったように感じられた。
「森の奥で、迷子ですか?」
低く、しかし柔らかな声。
問いかけでありながら、責める色は一切なく、警戒心さえ溶かすような穏やかさがあった。
「え、あ、ええ……その……」
ムトは言葉を探そうとして、すべてを落としてしまった。
乾パンを握る手がぷるぷると震え、情けないほど正直に緊張を訴えている。
「……きれいな人……」
アミもまた、かすれた声で呟き、視線をそらす。
その仕草が、動揺を隠そうとしていることを逆に際立たせていた。
男は小さく微笑み、川辺の石に腰を下ろした。
布が擦れる音すら静かで、その動きひとつひとつが森の空気を整えるような、不思議な存在感を放っている。
ムトは心の中で深く、深く絶望した。
(よりにもよって……こんなタイミングで、美男子とか……
俺、完全にお笑い担当じゃん……)
ちらりと隣を見ると、アミは水筒を抱きしめるようにして目を逸らしている。
だが、その指先は力が入りすぎて白くなっており、胸の内で何かが忙しなく跳ねているのが、痛いほど伝わってきた。
川のせせらぎ。
美男子の静かな気配。
森の空気は一瞬、張り詰めた糸のように静まり返り、二人の心拍だけがやけに大きく響いている気がした。
「……む。よく見ると、あなた……」
男は何かに引っかかったように言葉を切り、静かに立ち上がった。
次の瞬間、ムトの顎に、指先がそっと触れる。
抗う暇はなかった。
軽く、だが逆らえない力で顔を上げさせられ、距離が一気に縮まる。
視界いっぱいに整いすぎた顔立ち。
近すぎて、まつげの影すら見える。
彼の呼吸が、かすかに頬をかすめ、ムトは反射的に息を止めた。
「はいぃぃぃ……な、何でしょうかあ……」
裏返った声が、自分のものとは思えない。
えも言われぬ緊張が、背骨を伝って一気に駆け上がり、肩から首筋まで硬直する。
森の空気が、重い。
まるで木々も草も、息を潜めてこちらを見ているかのようだった。
ムトは無意識に背筋を伸ばす。
――伸ばさずにはいられなかった。
(ヘルプ! アミ!)
助けを求めるように視線を投げる。
だが、その肝心のアミは――
まるで時間そのものが止まったかのように、じっとこちらを見つめていた。
いや、正確には。
ムトを見ているのか、リエルを見ているのか。
その判断をするのが、怖くてたまらない。
その様子が、ムトの胸に小さな、しかし確かなモヤモヤを生み出す。
理由はわからない。
だが、妙に落ち着かない。
その感情が功を奏したのか、ムトはわずかに我に返った。
「……すみません。離してください」
声は震えていたが、言葉だけははっきりしていた。
ムトはリエルの胸に両手を当て、軽く押す。
――硬い。
想像以上に、厚く、しっかりとした感触。
布越しでもわかるほど鍛えられた胸板に、思わず押した手が止まりかける。
「ああ……急に申し訳ない」
リエルはすぐに手を離し、一歩距離を取った。
その動きは静かで、速く、そして何より――警戒心を煽らない。
敵意はない。
それが、はっきりと伝わってくる。
「実は……あなたについて、ひとつだけお聞きしたいことがありまして」
「何ですか?」
問い返した瞬間、胸の奥がざわりと嫌な予感に揺れる。
「あなたは――あの英雄、ムト殿でしょうか」
その名を聞いた瞬間、ムトの心臓が大きく跳ねた。
どう返せばいいのか分からない。
知られている理由も、確信も、何一つ持っていない。
二人のあいだに、言葉にならない沈黙だけが落ちる。
「――はい」
突然、凛とした声が割り込んだ。
アミだった。
さっきまでの、見惚れたような、どこか浮ついた表情は消えている。
背筋を伸ばし、視線をまっすぐリエルに向ける、いつもの彼女。
「あなたと私の認識に相違がなければ、彼はあのムトで間違いありません」
その言葉を聞いた直後、リエルの瞳が、ほんの一瞬だけ――
川面の反射とは違う色を帯びた気がした。
「ですが、今は事情がありまして。この体たらくです」
彼女はちらりとムトを見る。
その視線には、呆れと、ほんの少しの皮肉が混じっていた。
「信じられないでしょう?」
紹介されている本人は、ただただ居心地が悪い。
リエルは一度だけ視線を外し、無意識のように握っていた手を、ゆっくりとほどいた。
「……ええ、確かに」
静かな声で、しかしはっきりと言う。
「以前にお会いした時は、こんなに無防備で、まぬけそうな人間ではなかった」
「待て待て待て」
ムトが割り込む。
「あなたは、知らない者に近づかれた瞬間、相手の死角に回り込み、手刀で意識を――」
「いやおかしい、おかしいって!」
ムトは思わず声を張り上げた。
「てか昔の俺、やばすぎだろ!
何それ、完全にシリアルキラーじゃん!!」
思わぬ方向への評価に、ツッコミが止まらない。
リエルは一瞬きょとんとした後、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……いえ、手刀まではしてませんでしたが。」
「しないってことは、できはしたのかよ!」
即座に突っ込むムト。
アミは小さくため息をつき、こめかみを押さえた。
森の空気は、いつの間にか張り詰めた緊張を解き、
代わりに、どこか拍子抜けしたような静けさに包まれていた。
指先に伝わる乾いた感触だけが、現実だと主張するように残っている。
「こ、これは……美男子……」
言葉が零れ落ちた瞬間、ムト自身が一番驚いていた。
隣を見ると、アミもまた無言で立ち尽くしている。
普段の冷静沈着さは影を潜め、見開かれた瞳は水面の反射を映し、頬にははっきりと朱が差していた。
美男子は川辺に膝をつき、澄んだ水を両手ですくう。
指の隙間から零れ落ちる水滴が、きらきらと陽を弾き、彼の白い手首を伝って川へ戻っていく。
ゆっくりと口元へ運ばれるその仕草は、あまりにも自然で、まるで森そのものが人の形を取ったかのようだった。
二人は思わず息を呑む。
風の音すら、遠慮がちに後ずさったように感じられた。
「森の奥で、迷子ですか?」
低く、しかし柔らかな声。
問いかけでありながら、責める色は一切なく、警戒心さえ溶かすような穏やかさがあった。
「え、あ、ええ……その……」
ムトは言葉を探そうとして、すべてを落としてしまった。
乾パンを握る手がぷるぷると震え、情けないほど正直に緊張を訴えている。
「……きれいな人……」
アミもまた、かすれた声で呟き、視線をそらす。
その仕草が、動揺を隠そうとしていることを逆に際立たせていた。
男は小さく微笑み、川辺の石に腰を下ろした。
布が擦れる音すら静かで、その動きひとつひとつが森の空気を整えるような、不思議な存在感を放っている。
ムトは心の中で深く、深く絶望した。
(よりにもよって……こんなタイミングで、美男子とか……
俺、完全にお笑い担当じゃん……)
ちらりと隣を見ると、アミは水筒を抱きしめるようにして目を逸らしている。
だが、その指先は力が入りすぎて白くなっており、胸の内で何かが忙しなく跳ねているのが、痛いほど伝わってきた。
川のせせらぎ。
美男子の静かな気配。
森の空気は一瞬、張り詰めた糸のように静まり返り、二人の心拍だけがやけに大きく響いている気がした。
「……む。よく見ると、あなた……」
男は何かに引っかかったように言葉を切り、静かに立ち上がった。
次の瞬間、ムトの顎に、指先がそっと触れる。
抗う暇はなかった。
軽く、だが逆らえない力で顔を上げさせられ、距離が一気に縮まる。
視界いっぱいに整いすぎた顔立ち。
近すぎて、まつげの影すら見える。
彼の呼吸が、かすかに頬をかすめ、ムトは反射的に息を止めた。
「はいぃぃぃ……な、何でしょうかあ……」
裏返った声が、自分のものとは思えない。
えも言われぬ緊張が、背骨を伝って一気に駆け上がり、肩から首筋まで硬直する。
森の空気が、重い。
まるで木々も草も、息を潜めてこちらを見ているかのようだった。
ムトは無意識に背筋を伸ばす。
――伸ばさずにはいられなかった。
(ヘルプ! アミ!)
助けを求めるように視線を投げる。
だが、その肝心のアミは――
まるで時間そのものが止まったかのように、じっとこちらを見つめていた。
いや、正確には。
ムトを見ているのか、リエルを見ているのか。
その判断をするのが、怖くてたまらない。
その様子が、ムトの胸に小さな、しかし確かなモヤモヤを生み出す。
理由はわからない。
だが、妙に落ち着かない。
その感情が功を奏したのか、ムトはわずかに我に返った。
「……すみません。離してください」
声は震えていたが、言葉だけははっきりしていた。
ムトはリエルの胸に両手を当て、軽く押す。
――硬い。
想像以上に、厚く、しっかりとした感触。
布越しでもわかるほど鍛えられた胸板に、思わず押した手が止まりかける。
「ああ……急に申し訳ない」
リエルはすぐに手を離し、一歩距離を取った。
その動きは静かで、速く、そして何より――警戒心を煽らない。
敵意はない。
それが、はっきりと伝わってくる。
「実は……あなたについて、ひとつだけお聞きしたいことがありまして」
「何ですか?」
問い返した瞬間、胸の奥がざわりと嫌な予感に揺れる。
「あなたは――あの英雄、ムト殿でしょうか」
その名を聞いた瞬間、ムトの心臓が大きく跳ねた。
どう返せばいいのか分からない。
知られている理由も、確信も、何一つ持っていない。
二人のあいだに、言葉にならない沈黙だけが落ちる。
「――はい」
突然、凛とした声が割り込んだ。
アミだった。
さっきまでの、見惚れたような、どこか浮ついた表情は消えている。
背筋を伸ばし、視線をまっすぐリエルに向ける、いつもの彼女。
「あなたと私の認識に相違がなければ、彼はあのムトで間違いありません」
その言葉を聞いた直後、リエルの瞳が、ほんの一瞬だけ――
川面の反射とは違う色を帯びた気がした。
「ですが、今は事情がありまして。この体たらくです」
彼女はちらりとムトを見る。
その視線には、呆れと、ほんの少しの皮肉が混じっていた。
「信じられないでしょう?」
紹介されている本人は、ただただ居心地が悪い。
リエルは一度だけ視線を外し、無意識のように握っていた手を、ゆっくりとほどいた。
「……ええ、確かに」
静かな声で、しかしはっきりと言う。
「以前にお会いした時は、こんなに無防備で、まぬけそうな人間ではなかった」
「待て待て待て」
ムトが割り込む。
「あなたは、知らない者に近づかれた瞬間、相手の死角に回り込み、手刀で意識を――」
「いやおかしい、おかしいって!」
ムトは思わず声を張り上げた。
「てか昔の俺、やばすぎだろ!
何それ、完全にシリアルキラーじゃん!!」
思わぬ方向への評価に、ツッコミが止まらない。
リエルは一瞬きょとんとした後、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……いえ、手刀まではしてませんでしたが。」
「しないってことは、できはしたのかよ!」
即座に突っ込むムト。
アミは小さくため息をつき、こめかみを押さえた。
森の空気は、いつの間にか張り詰めた緊張を解き、
代わりに、どこか拍子抜けしたような静けさに包まれていた。
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