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ブライダル
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美那子と格闘した翌々日の水曜日。彩子は目の下にクマを発見した。
会社の手洗い場の鏡に映った顔は、いくつも年を取ったようにくたびれ果てている。仕事の忙しさによる疲れが原因だ。
「ううっ、これはひどい……」
コレーで美那子と和解したあと、原田に会いたいと思い続けている彩子だが、こんな顔はとても見せられない。
おまけに今日は、仕事が最悪の事態となった。
夕方、久しぶりに早く帰れそうだと思った矢先、ミスに気が付いた。新しいソフトに半日かけて設定した計算表や各種データを、手違いで消去してしまったのだ。
「バックアップは!?」
新井主任の悲鳴が事務所中に響く。
「取ってません……」
蚊の鳴くような声で、彩子は答えた。
忙しかったから――は、言い訳である。彩子は残業して、失敗したぶんを取り返すことになった。
新井は家族の用事でどうしても帰宅しなければならず、午後7時に退社した。
彩子は9時までかかって計算表を設定し直し、全データを入力し終えた。
「やっと、終わった……」
現場には工場長はじめ従業員が何人か残っているが、事務所は自分ひとりである。彩子は炎症を起こしそうな手首をさすりながらお茶を淹れ、ようやく一息ついた。
「ああ、疲れた。またクマが濃くなりそう」
目の下を押さえつつデスクの引き出しからバッグを取り出すと……
「あれっ、誰からだろ?」
スマートフォンが震えている。バッグのポケットに入れっぱなしなのを、すっかり忘れていた。
原田からの電話とわかり、彩子は慌てて応答する。
「もしもし」
『彩子、今どこにいる』
唐突に原田が訊いた。
「今、まだ会社なんです。ごめんなさい、カバンにスマホを入れっぱなしで……」
『いや、無事ならいいんだ。さっき自宅にも電話したけど、まだ帰ってないって言われて。こんな時間にどうしたのかなって、心配したよ』
心から安堵する声を聞き、彩子は温かい気持ちになる。だけど、まだ9時を回ったばかりなのに、原田は案外心配性なんだなと、認識を新たにした。
『ところで、今度の土曜日は大丈夫?』
「式場めぐりですね。ええ、もちろんです」
『そうか、よかった。それで、どうだった? 希望の式場は決まったかな』
彩子はぽりぽりと頭を掻く。
「それがまだなんです。パンフレットをしっかり見れてなくて、ごめんなさい」
『ああ、いいよ。焦らず、ゆっくり決めてくれ。そうだなあ……できれば会って話したいけど、明日も遅くなりそう?』
「えっ、明日ですか」
彩子は指先で、目の下のクマに触れる。
「今、あまり会いたくないんですけど」
『えっ、どうして?』
原田が怪訝そうに訊いた。
「顔が……」
『顔?』
「顔が老けてるんです。最近忙しくて、疲れてて、目の下にクマができて」
『……』
電話の向こうで絶句する気配があり、そして数秒後……
『アッハハハ』
原田の大笑いが聞こえてきた。
「ひどいですね。本当に大変なんですよ、顔が」
『うん、大丈夫。全然気にしないよ、俺は……くくっ……』
どうやら原田は笑い上戸らしい。彩子の発言に、いつまでもウケている。
「あの、まじめに聞きますけど、顔を見ても笑いませんか?」
『笑わない、笑わない。でも、そういうことなら式場めぐりは延期してもいいし、まずは二人で相談しようか』
原田は体調を考慮してくれた。
とりあえず式場めぐりは延期して、来週会って相談することに決まる。
「原田さん、クマが残ってても笑わないで下さいよ」
『了解。笑わないよ』
念を押す彩子に、原田はまじめに返事した。
『それじゃ、またな。早く帰ってよく眠りなよ、おやすみ』
「おやすみなさい」
電話を切ると、彩子はすっかり元気になっていた。
「家に帰って、式場のパンフレットを見て……あっ、それより早く寝なきゃ」
鼻歌を歌いながら、帰り支度を始めた。
会社の手洗い場の鏡に映った顔は、いくつも年を取ったようにくたびれ果てている。仕事の忙しさによる疲れが原因だ。
「ううっ、これはひどい……」
コレーで美那子と和解したあと、原田に会いたいと思い続けている彩子だが、こんな顔はとても見せられない。
おまけに今日は、仕事が最悪の事態となった。
夕方、久しぶりに早く帰れそうだと思った矢先、ミスに気が付いた。新しいソフトに半日かけて設定した計算表や各種データを、手違いで消去してしまったのだ。
「バックアップは!?」
新井主任の悲鳴が事務所中に響く。
「取ってません……」
蚊の鳴くような声で、彩子は答えた。
忙しかったから――は、言い訳である。彩子は残業して、失敗したぶんを取り返すことになった。
新井は家族の用事でどうしても帰宅しなければならず、午後7時に退社した。
彩子は9時までかかって計算表を設定し直し、全データを入力し終えた。
「やっと、終わった……」
現場には工場長はじめ従業員が何人か残っているが、事務所は自分ひとりである。彩子は炎症を起こしそうな手首をさすりながらお茶を淹れ、ようやく一息ついた。
「ああ、疲れた。またクマが濃くなりそう」
目の下を押さえつつデスクの引き出しからバッグを取り出すと……
「あれっ、誰からだろ?」
スマートフォンが震えている。バッグのポケットに入れっぱなしなのを、すっかり忘れていた。
原田からの電話とわかり、彩子は慌てて応答する。
「もしもし」
『彩子、今どこにいる』
唐突に原田が訊いた。
「今、まだ会社なんです。ごめんなさい、カバンにスマホを入れっぱなしで……」
『いや、無事ならいいんだ。さっき自宅にも電話したけど、まだ帰ってないって言われて。こんな時間にどうしたのかなって、心配したよ』
心から安堵する声を聞き、彩子は温かい気持ちになる。だけど、まだ9時を回ったばかりなのに、原田は案外心配性なんだなと、認識を新たにした。
『ところで、今度の土曜日は大丈夫?』
「式場めぐりですね。ええ、もちろんです」
『そうか、よかった。それで、どうだった? 希望の式場は決まったかな』
彩子はぽりぽりと頭を掻く。
「それがまだなんです。パンフレットをしっかり見れてなくて、ごめんなさい」
『ああ、いいよ。焦らず、ゆっくり決めてくれ。そうだなあ……できれば会って話したいけど、明日も遅くなりそう?』
「えっ、明日ですか」
彩子は指先で、目の下のクマに触れる。
「今、あまり会いたくないんですけど」
『えっ、どうして?』
原田が怪訝そうに訊いた。
「顔が……」
『顔?』
「顔が老けてるんです。最近忙しくて、疲れてて、目の下にクマができて」
『……』
電話の向こうで絶句する気配があり、そして数秒後……
『アッハハハ』
原田の大笑いが聞こえてきた。
「ひどいですね。本当に大変なんですよ、顔が」
『うん、大丈夫。全然気にしないよ、俺は……くくっ……』
どうやら原田は笑い上戸らしい。彩子の発言に、いつまでもウケている。
「あの、まじめに聞きますけど、顔を見ても笑いませんか?」
『笑わない、笑わない。でも、そういうことなら式場めぐりは延期してもいいし、まずは二人で相談しようか』
原田は体調を考慮してくれた。
とりあえず式場めぐりは延期して、来週会って相談することに決まる。
「原田さん、クマが残ってても笑わないで下さいよ」
『了解。笑わないよ』
念を押す彩子に、原田はまじめに返事した。
『それじゃ、またな。早く帰ってよく眠りなよ、おやすみ』
「おやすみなさい」
電話を切ると、彩子はすっかり元気になっていた。
「家に帰って、式場のパンフレットを見て……あっ、それより早く寝なきゃ」
鼻歌を歌いながら、帰り支度を始めた。
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