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1巻
1-3
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「すみません、すみません」
ぺこぺこと頭を下げながら、上目遣いで表情を窺う。
いつもながら、アポロン様とそっくりな端整な顔立ち。すらりとしたプロポーション。
三次元のオトコと知りながら、萌花は興奮してしまう。フロアはライトが抑えられ、海の底にいるかのよう。そして、その青みがかかった薄暗い空間が、湖東部長の姿を幻想的に見せているのだ。
「ん、それは?」
エレベーターに乗ると、部長は萌花が脇に抱えたものに注目する。梅雨に入って以来手放したことのない、愛用の合羽だ。〝レインコート〟ではなく、あくまでも〝合羽〟と呼びたくなるヒヨコのように明るい黄色が、目に付いたのだろう。
「へえ、自転車通勤?」
「そうなんです。はは……」
「ふうん」
珍しそうに見回してくる。自転車通勤の女性社員は他にもいるが、雨の日に合羽を着てまで乗ってくるのは萌花くらいだ。他の女性は、お洒落なレインコートを羽織り、バスか電車を利用して通勤する。
「今朝なんて土砂降りだったぜ。根性あるなあ」
ますます興味深そうに見下ろしてきた。いつもは部長が観察対象なのに、逆にじろじろと見られて居心地が悪い。勝手な心理だが、実に困ってしまう。
早く一階に着かないかなとそわそわし、目をキョロつかせる。
「なあ、美園。俺、車なんだが送ってやろうか」
「へ、はい?」
――送ってやろうか。
唐突な申し出に、しばしぼんやりとする。
送る、というと、それはつまり……
雨の中、自転車を漕いで帰るのは大変だから車で家まで送ってやる。と、部長は言っているのだ。
「ええー? いやいや、そんなこと。とんでもないです!」
萌花は全力で頭を勢いよく横に振る。
部長という上の立場の人間に対する、反射的な遠慮だった。
「そうか。君には今日、迷惑をかけたからな。こんなに遅くなったのも、俺のせいじゃないのか」
「違います。遅くなったのは他の仕事があるからで、予定どおりですから」
それに、部長に頼まれた仕事はそもそも堀内のフォローである。部長はちっとも悪くない。迷惑だとか、そんなふうに考えているとは意外だった。
「しかし、ひどい降りだぞ」
エレベーターのガラス窓を、大粒の雨が叩いている。遠くに光るのは雷だろう。いつの間にか荒れた天気になっていた。
「ほ、ほんとですね」
曖昧に頷きながら、萌花は合羽を握りしめた。実は、さっきから別の意思がむくむくと立ち上がっている。
かつて、こんなチャンスがあっただろうか。部長に接近するため仕事上のチャンスを狙っていたが、そこに拘る必要はない。この際、なんでもいいではないか。
――部長ってオタクに偏見のない人なんでしょ。言うだけ言ってみたら。
舞子の声が萌花を後押しする。
でもそれは、あまりにも唐突で、突拍子もない提案だ。
「どうする? 遠慮しなくてもいいんだぞ」
エレベーターで二人きり。子供に話しかけるように、上体をかがめて覗きこんでくる。理想的な顔や身体を目の当たりにして、萌花は頭がぼーっとしてきた。
いつの間にか、オタクモードが発動していた。湖東部長は願望成就のため必要な生モデルだ。
そして、萌花の感性に『期待している』と言ってくれた。
突拍子もないことだけど……もしかしたら、ひょっとして。
「ぶ、部長」
「ん?」
「ぜ……ぜん」
「なに?」
さらに顔を近付けてきた。睫の先が額に触れそうだ。
「どうした、はっきり言え」
「ぜっ、全裸モデルになってくれませんか?」
翌日の土曜日。本日会社は休みで、萌花は舞子と池袋で遊ぶ約束をしていた。
腐女子の聖地、乙女ロードを散策し、東急ハンズで画材を買い、その後ランチを楽しみながら同人イベントの話題などで盛り上がる――という幸福な休日を過ごすはずだったのに。
「ええーっ? 言っちゃったのお!」
舞子の絶叫が、手狭な1Kの部屋にびんと響いた。
「うん、やってしまった……」
布団の中で頷く萌花に、舞子が頭を抱える。
「だから熱が出たの?」
「それもある」
萌花は自分の額に手を当てた。湯気が出そうに熱い。
「頑丈な萌花が風邪引いたって言うから心配して見にきたら、そういうわけだったのね。ああ、なんてこと。あんたがクビになったら、私は誰と萌え語りすればいいのよおおお」
天井を仰いで嘆く彼女に、萌花は掛け布団に隠れるようにして言い訳する。
「だって、舞子が『言うだけ言ってみたら』って提案したから」
「あんなの冗談に決まってるでしょ。もうっ、信じらんない」
プンプン怒っている。それはそうだろう。あれは冗談だったと、萌花だってわかっている。ただ、自分のしたことがあまりにも恥ずかしくて、責任を連帯してほしかっただけ。
「ごめん、舞子。でも、大丈夫な気もするんだ」
「……へ?」
萌花はぼそぼそと打ち明けた。この話には、まだ続きがあるのだ。
部長に告げた直後、萌花は即座に後悔した。
ああ、これでクビだ。せっかく入った会社なのに、よりによって社長令息に逆セクハラしてしまったのだ。明日からプータローだ。兄達からは説教されるだろう。実家に連れ戻されるかもしれない。理想の男性像に限りなく近い、部長の全裸を拝みたい! という、どうしようもない願望の強さに負けてしまったのだ。本当にどうかしていたとしか思えない。
でも――
あの時、部長は確かに驚いていた。
薄茶色の瞳に動揺が走ったのを、萌花は間違いなく見とめている。
しかし、それはほんの数秒のことで、彼はすぐに微笑を浮かべた。面白そうに、嬉しそうに、わくわくした様子で萌花を覗きこみ、そして、こう言ったのだ。
『わかった。考えておく』
萌花は混乱した。
(考えておくって、私の処分? クビにするかどうか? ……ですよね~。そうに決まってる!)
『とにかく、今夜は送っていくよ。家はどの辺?』
だが、萌花はもう何も聞いていなかった。後悔と恥ずかしさでパニック状態だ。
エレベーターが一階に着くと脱兎のごとく逃げ出した。ロビーを横切り突っ走る。部長が何か言いながら追いかけてきたが、全速力で通用口を駆け抜け、振り切った。
そしてそのまま、合羽も着ずに自転車で帰ったのだ。嵐のような雨の中を……
アパートの部屋に逃げこんだ萌花は、しばらく暗い中でうずくまっていた。寒さと怖さで、がたがたと震えが続く。もうお終いだという絶望感に苛まれて。
だが、かなりの時間が過ぎて、ようやく落ち着いてきたところで思い至ったのだ。
『考えておく』というのは、『全裸モデルになってくれませんか』という要望に対する答えではないか、と。流れ的に、そう受け取ることができる――
「でもさ、あり得なくない?」
ジンジャーティーを運んできた舞子が、萌花が起きるのを手伝い、背中にクッションをあてがってくれた。萌花は女友達のありがたさを感じつつ、温かいカップを両手で包む。
「うん、ほんと、あり得ないんだけど」
部長は怒りもせず、ドン引きもしなかった。それどころか、微笑んでくれたのだ。
――なぜあの人は微笑んだのだろう。
「かえって面白そうな感じだったよ。嬉しそうっていうか」
「うーん。でもさ、やっぱないわー」
舞子は断定的に言った。
「あまりにも突拍子もないことだから、無難に答えたのよ。ほら、大人って子供の空想話をうんうんって聞いてくれるけど、結局は流すでしょ。それと同じで、とりあえず『考えておく』って言っとけばいいだろ、みたいな」
「そ、そうかなあ」
そう言われてみればそんな気もしてくる。
(確かに部長は、私のことを子供扱いしているような。ということは……あの微笑みは、小さな子供の言動を面白がるみたいな感じ?)
「本気にしてないってことかな」
「うん」
迷わず頷く舞子を見て、萌花は熱が急速に冷めていくのを感じた。
月曜日。今日は梅雨の晴れ間で、青空が広がっている。
すっかり平熱に戻った萌花は、自転車に乗って会社に向かった。
湖東部長の『考えておく』という返事について、ペダルを漕ぎながらぐるぐると考えた。やはり、どうしても、舞子の説が正しく思われてくる。
(そうか、そうだよね)
クビは免れたかもしれないが、この結果は別の意味で絶望的だ。〝子供の空想話〟を、部長のように立派な大人が真剣に考えてくれるわけがない。
(あうう……どちらにしろ、もうダメだ。部長の全裸は永遠に遠のいてしまった)
混み合うエレベーターの隅に乗り、降りると廊下をのろのろと移動する。オフィスに着いたのは始業時刻ぎりぎりだった。
落胆しながらもパソコンの電源を入れると、アポロン様の壁紙が現れた。半裸でベッドに横たわり、憐れみの目で萌花を見てきた……ような気がして、余計に落ちこむ。
(壁紙の設定を変えよう)
コトーの人気キャラクター、アニーのイラストを使うことにする。アニーは可愛くて元気で、ちょっとおしゃまなリスの女の子だ。制作部ではほとんどの社員が彼女を壁紙に設定している。萌花もそれに倣い、アポロン様はしばらく封印することにした。
「おはよう、美園ちゃーん。金曜日はフォローありがとうね。助かったよー」
堀内が軽い調子で声をかけてきた。部長会議用の資料の件だ。
萌花は力なく振り向くと、「どういたしまして」と事務的に答える。金曜日のことは思い出したくない。いっそ、あの日をなかったことにしてほしい。
「やっぱり美園ちゃんは役立つよね。蒲生さんじゃなくて、僕専用の補助係になってくんない?」
「ヒッ」
反射的に顔をパソコンに戻す。冗談ではない。それでは、補助係ならぬ尻拭い係になってしまう。
「馬鹿っ! 何言ってるのよ」
「そうだぞ、堀内。美園さんをいいように使いすぎだ、お前は!」
いきなり堀内を怒鳴りつける声がして、萌花はビクッとする。堀内の上役であるプランナーが二人、いつの間にか背後に立っていた。金曜日の夜、『堀内には、きつく言っておくからね』と萌花に詫びた先輩社員である。
「ええっ、なんですかいきなり。皆さんだって美園ちゃんに雑用頼みまくってますよね?」
「いいから、自分のことは自分でやれ。ごめんね、美園さん。これから大変だけど頑張ってね」
「は、はあ」
堀内は二人に捕らえられ、ずるずると引きずられていった。
「ど、どうしたんだろ」
尋常ではない勢いに、萌花は動揺する。堀内が言っていたように、あの二人も萌花にあれこれと雑用を頼んできていたはず。一体、何があったのだろう。
「美園、おはよう」
蒲生が横に来て、萌花の肩を叩いた。
「あ、おはようございます」
「……」
蒲生はデスクの前に立ち、大きくため息をついた。そして、なぜかジッと見つめてくる。
「え? な、なんですか?」
「あんたも大変ね」
「へ?」
萌花はあらためて蒲生を見返し、気がついた。彼女の眼差しには、アポロン様のそれと同じ憐れみがこもっている。
(どうして、なぜそんな目で私を?)
蒲生は鼻をすすった。しかも、うるうると瞳を揺らめかせている。
(なっ、泣いてる? 蒲生さんが、どど、どうして)
蒲生は萌花から視線を逸らすと、ハンカチで瞼を押さえた。涙ぐむ先輩を前にオロオロしていると、オフィスのドアが勢いよく開いた。
湖東部長の登場だ。
萌花はどきーんとして、気をつけの姿勢になる。
今日の部長はクールビズスタイルだ。梅雨晴れの陽射しが眩しいオフィスを、堂々と進んでいく。部長がデスクの前まで辿り着きこちらを向くと、職場はピリッとしたムードになった。
「おはよう。今日もよろしく」
挨拶に続き、月曜の全体ミーティングに入る。
萌花は、隣で涙ぐんでいる蒲生を気にしながらも、部長の姿に注目する。彼を前に様々な感情が押し寄せてくるが、就業時間となれば脱・オタクである。仕事はきちんとしなければいけない。
「最後にひとつ知らせておくことがある。私の助手を一名、企画制作部の社員から選ばせてもらった」
オフィスにざわめきが起こった。
湖東部長の助手。それは、鬼のように仕事をこなす彼の雑務担当者である。
彼が企画制作部長に就任してこれまで、その役割は石橋課長が兼任していたが、とうとう耐えられなくなったのだろう。課長はもともと薄毛で悩んでいたが、この頃は抜け毛がさらに進行していた。制作部社員はみな、課長のつるりとした頭頂部に、助手役の激務を見ていた。
「制作部から一名?」
「誰を? まさか俺じゃないよな」
不穏な空気が流れる中、萌花はハッと顔を上げる。
蒲生が、そしてプランナーの先輩二人が、同情と憐れみの目で萌花を見ている。
(ま、まさか)
湖東部長はオフィスをゆっくりと見回し、萌花の上でピタリと視線を止めた。萌花の心臓も止まりそうになる。
「美園萌花。本日付で企画制作部長助手の任を命ずる。役割の重要性を理解し、よりいっそう職務に励むよう。以上」
ミーティングが終わるや否や、部長席の隣に、助手用のデスクが設置された。萌花はそこへ移動するため、荷物を台車に載せている。
堀内の上役であるプランナー二人と蒲生には、前もって知らされていたらしい。今朝、早く出社するようにと呼び出され、『美園は俺が引き取ることにする』と、急な人事を告げられたそうだ。
原因は先週末の出来事。堀内の代わりに萌花が資料作りをした一件である。
三課の社員が、入社二年目の後輩に仕事を丸投げし、雑用係としてこきつかっている。その実態を目の当たりにした部長が怒ったのだ。
『自分の仕事は自分でやれ』
鶴の一声で決定となり、先輩三人はただ頷いていたという。
幸運か不運か、希望か絶望か、混乱する萌花の頭では判断できない。
だけど、大変なことになったという現実は理解できる。
――これから大変だけど頑張ってね。
――あんたも大変ね。
つまり、こういうことだったのだ。
「えっと……三課の皆さん、今までお世話になりました。それでは、私はこれで失礼いたします」
突然のことで、萌花はどう挨拶すればいいのかわからず、別れの言葉も単純なものになった。実際のところ、数メートル離れた場所に移るだけであるし、同じ部なのは変わらないので三課を出るという実感がない。
「ごめんな、美園ちゃん。こんなことになるなんて」
お気楽キャラの堀内までもが悲壮な顔でいる。蒲生や他の先輩社員達も沈痛な面持ちで、まるでお通夜のような雰囲気だ。
「さあさあ、早速移動しましょうかねえ、美園さん」
引継ぎのため萌花に付き添う石橋課長だけが、やたらと明るい。つるりとした頭頂部にライトが反射して、それも眩しい。
(部長の助手って、どんだけ酷使されるの?)
恐怖に慄く萌花だが、会社が決めたことなら仕方ない。会社員としては辞令に従うほかない。いや、クビになるよりマシだ。そう思えばいいと自分に言い聞かせた。
「よし、来たな」
新しい席に台車を押していくと、湖東部長に待ちかねたというジェスチャーで迎えられた。窓からの光を背景に両腕を広げた姿は、アポロン様のように神々しい。
しかし、今日ばかりは萌花のオタクモードも発動しない。仕事に対する不安が大きすぎて、萌える余裕がなかった。
デスクは三課で使っていた大きさの半分ほどしかなく、パソコンを設置するとほとんどのスペースが埋まってしまう。
ここで、どんな仕事をするというのだろう。
「では石橋課長。早速ですが美園への引継ぎをお願いします」
「承知いたしました。美園さんは働き者ですから、すぐ覚えてくれることでしょう」
部長と課長の会話に萌花は目を白黒させる。彼らは自分を即戦力として使う気らしい。
「あ、あのう、私は別に、それほど働き者というわけでは……」
「グダグダ言わない。ほら、仕事だ!」
部長に背中を押され、つんのめりそうになった。顔を上げれば、満面の笑みを浮かべる石橋課長。
「マニュアルなんてないからね。ひとつひとつ、しっかりと覚えてね」
「は、はい」
三課のスペースをちらりと見やれば、蒲生も先輩達も忙しそうに働いている。萌花は小さなデスクに目を戻し、自分の居場所はここしかないのだと覚悟を決めた。
石橋課長の説明によると、湖東部長の助手というのは要するに、秘書的な役割りをこなすことだった。
スケジュール管理から書類の整理整頓、電話の取次ぎまで、とにかくやることが多いと言う。もちろん企画デザインにかかわる作業が主であり、彼の手足となって働くので休む間もないとのこと。
また、部長の指示で社内を飛び回ることも多く、自席に腰を落ち着けるのは、パソコンを操作する間のみ。デスクが小さくても大丈夫なわけだと、萌花は納得した。
「ひと通り引継ぎは済んだ? よろしくな、美園」
「はいっ、よろしくお願いします」
萌花は元気に挨拶しながら、ふと、あのことはどうなったのかと考える。全裸モデルの件は、部長の中でどう処理されたのか。忘れてしまったのか、気にも留めていないのか。
「どうした?」
「えっ? あ、いえいえ、別になんでもありません、ハイ」
「ふうん。それじゃ、始めるぞ」
そんなこんなで、肝心なことを切り出せないまま、助手としての日々がスタートした。
一週間、二週間と日々は過ぎていく。部長のハイペースについていくのは大変だが、萌花は必死で働いた。そして、この役割に自分の能力を最大限に生かすことを覚えていった。
「美園、製品番号№3982と№3522の仕様書を開発部に返却してくれ。それから、糸田工業の本宮社長の来社が明後日に延びたと営業二課の沢口に伝えておくように。メールと口頭の両方で頼む。俺のスケジュールも調整しておいてくれ」
「はいっ」
「ほう、いい返事だな。空返事じゃないだろうな」
「いえ、きちんと記憶しました。ばっちりです」
萌花は記憶力が良く、固有名詞も数字も一度で覚えられる。多くの指示に対応できるのは、複数の仕事を同時にこなした雑用係の経験が生きているからだ。
また、デザインの種類と担当者の名前も直結するよう暗記していた。
「商品開発部から上がった海獣シリーズの新案だが、アイテムは五種類だったな?」
部長の早口での確認に、萌花もぱっと答える。
「いいえ、三種類です」
「担当は蒲生か」
「違います。西村さんです。今年度から彼がメインデザイナーになりました」
部長はニヤリとした。
「合格」
わざとミスを誘い、萌花を試すのだ。部長はたびたび、こういったテストをしてくる。
しかし、どんなに試されても萌花は引っ掛からない。コトーに入社して一年、多くの先輩について仕事をしてきた萌花は、ベテラン社員でも勘違いやミスをすると知っている。
また、自分の記憶や判断力は信じるに足るものだと何度も学習済みだ。相手が偉い立場の人であろうと、盲目的に信じることはない。
そんな萌花を部長はますます信頼し、仕事を任せてくれた。そして厳しさの中にも、ふと柔らかな表情を見せるようになる。
(おお、アポロン様の微笑みだ)
そんな時、萌花の理性は激しく揺さぶられるが、それでもオタクモードが発動することはなかった。
仕事をこなすのに精一杯で、部長をじっくり観察したり、萌えたりする余裕がないのだ。
ゆえに、以前のように彼を頭の中でデッサンし、アパートに帰ってから必死でスケッチブックに描き写すということもない。
疲れ果てて部屋に帰ると、すぐに寝てしまう毎日。体力精神力ともに消耗が激しく、欲望も湧いてこなかった。
(一日中部長の傍にいるというのに、もったいない。でも、今は無理……)
舞子などは、『それって、クビより過酷な罰かも』と同情してくる。そうかもしれないと、萌花は思う。萌える余力を奪われてしまうとは、オタク生命が終わったも同然。
(ほんの少しでも余裕ができれば……てか、あのことを部長から言ってくれたらなあ。忘れちゃったのかも)
萌花は悶々としながらも身動きが取れない状態で、激務の日々を送った。
今は七月の半ば。
関東地方は梅雨明けし、日中の気温が急カーブで上昇していく。季節はすっかり夏になっていた。
「どうだ、美園。仕事は面白いか?」
「はいっ。正直、大変は大変ですけど」
元気よく答えると、湖東部長は声を出して笑った。何がおかしいのかよくわからないが、萌花も釣られて笑う。誰もいない夜のオフィスに、二人の明るい声が響いた。
部長の助手を命じられて一か月が過ぎた。萌花は禿げ上がることもなく、なんとか五回目の週末を迎えることができた。
「君を助手にして正解だった。よく動いてくれるから俺も助かるし、三課の連中も各々責任を持って、いい仕事をするようになった。あの堀内までもが、資料一つ作るのに必死の形相だよ」
部長は、してやったりの表情になる。
実は萌花を助手に据えた際、部長は彼らに『この体制に不満があるなら、いつでも美園と交代させてやる』と脅しをかけていた。部長は提案だと言うが、明らかに脅しである。
部長の助手になるくらいなら、雑用でもなんでも自分でやったほうがマシだ。三課の社員は、どんな小さな仕事でも懸命に取り組むようになった。
萌花としては複雑だった。これまでは自分が雑用を頑張りすぎて、先輩のやる気や、引いては責任感を奪っていたのではないか。
「結果よければすべてよし。いらんことは考えるな」
「は、はいっ」
心を見透かしたような部長の励ましだった。
(なんだか、部長ってすごいな。外見はお洒落なイケメンで、女の人にモテモテのリア充。ところが中身は全然硬派だし、大人の男って感じがする)
萌花はこの頃、仕事に慣れてきた。最初は辛くて、切実にやめたいと思った時もあったけれど、今は充実していると感じる。目が回るほど忙しくても、得るものがあるからだ。
萌花はいまや企画制作部全体の仕事を把握している。三課で雑用をこなした時もいろいろ勉強になったけれど、今は視野の広さが違う。
部長の傍にいることで、アイテムの企画からデザイン、実際の商品化までの流れを直に見ることができる。他の管理職がどうかわからないが、湖東部長の場合は部長席でどっしり構えているだけでなく、積極的に現場に入っていくので状況がよく見えるのだ。
仕事が面白いというのは、萌花の心からの感想だった。
ぺこぺこと頭を下げながら、上目遣いで表情を窺う。
いつもながら、アポロン様とそっくりな端整な顔立ち。すらりとしたプロポーション。
三次元のオトコと知りながら、萌花は興奮してしまう。フロアはライトが抑えられ、海の底にいるかのよう。そして、その青みがかかった薄暗い空間が、湖東部長の姿を幻想的に見せているのだ。
「ん、それは?」
エレベーターに乗ると、部長は萌花が脇に抱えたものに注目する。梅雨に入って以来手放したことのない、愛用の合羽だ。〝レインコート〟ではなく、あくまでも〝合羽〟と呼びたくなるヒヨコのように明るい黄色が、目に付いたのだろう。
「へえ、自転車通勤?」
「そうなんです。はは……」
「ふうん」
珍しそうに見回してくる。自転車通勤の女性社員は他にもいるが、雨の日に合羽を着てまで乗ってくるのは萌花くらいだ。他の女性は、お洒落なレインコートを羽織り、バスか電車を利用して通勤する。
「今朝なんて土砂降りだったぜ。根性あるなあ」
ますます興味深そうに見下ろしてきた。いつもは部長が観察対象なのに、逆にじろじろと見られて居心地が悪い。勝手な心理だが、実に困ってしまう。
早く一階に着かないかなとそわそわし、目をキョロつかせる。
「なあ、美園。俺、車なんだが送ってやろうか」
「へ、はい?」
――送ってやろうか。
唐突な申し出に、しばしぼんやりとする。
送る、というと、それはつまり……
雨の中、自転車を漕いで帰るのは大変だから車で家まで送ってやる。と、部長は言っているのだ。
「ええー? いやいや、そんなこと。とんでもないです!」
萌花は全力で頭を勢いよく横に振る。
部長という上の立場の人間に対する、反射的な遠慮だった。
「そうか。君には今日、迷惑をかけたからな。こんなに遅くなったのも、俺のせいじゃないのか」
「違います。遅くなったのは他の仕事があるからで、予定どおりですから」
それに、部長に頼まれた仕事はそもそも堀内のフォローである。部長はちっとも悪くない。迷惑だとか、そんなふうに考えているとは意外だった。
「しかし、ひどい降りだぞ」
エレベーターのガラス窓を、大粒の雨が叩いている。遠くに光るのは雷だろう。いつの間にか荒れた天気になっていた。
「ほ、ほんとですね」
曖昧に頷きながら、萌花は合羽を握りしめた。実は、さっきから別の意思がむくむくと立ち上がっている。
かつて、こんなチャンスがあっただろうか。部長に接近するため仕事上のチャンスを狙っていたが、そこに拘る必要はない。この際、なんでもいいではないか。
――部長ってオタクに偏見のない人なんでしょ。言うだけ言ってみたら。
舞子の声が萌花を後押しする。
でもそれは、あまりにも唐突で、突拍子もない提案だ。
「どうする? 遠慮しなくてもいいんだぞ」
エレベーターで二人きり。子供に話しかけるように、上体をかがめて覗きこんでくる。理想的な顔や身体を目の当たりにして、萌花は頭がぼーっとしてきた。
いつの間にか、オタクモードが発動していた。湖東部長は願望成就のため必要な生モデルだ。
そして、萌花の感性に『期待している』と言ってくれた。
突拍子もないことだけど……もしかしたら、ひょっとして。
「ぶ、部長」
「ん?」
「ぜ……ぜん」
「なに?」
さらに顔を近付けてきた。睫の先が額に触れそうだ。
「どうした、はっきり言え」
「ぜっ、全裸モデルになってくれませんか?」
翌日の土曜日。本日会社は休みで、萌花は舞子と池袋で遊ぶ約束をしていた。
腐女子の聖地、乙女ロードを散策し、東急ハンズで画材を買い、その後ランチを楽しみながら同人イベントの話題などで盛り上がる――という幸福な休日を過ごすはずだったのに。
「ええーっ? 言っちゃったのお!」
舞子の絶叫が、手狭な1Kの部屋にびんと響いた。
「うん、やってしまった……」
布団の中で頷く萌花に、舞子が頭を抱える。
「だから熱が出たの?」
「それもある」
萌花は自分の額に手を当てた。湯気が出そうに熱い。
「頑丈な萌花が風邪引いたって言うから心配して見にきたら、そういうわけだったのね。ああ、なんてこと。あんたがクビになったら、私は誰と萌え語りすればいいのよおおお」
天井を仰いで嘆く彼女に、萌花は掛け布団に隠れるようにして言い訳する。
「だって、舞子が『言うだけ言ってみたら』って提案したから」
「あんなの冗談に決まってるでしょ。もうっ、信じらんない」
プンプン怒っている。それはそうだろう。あれは冗談だったと、萌花だってわかっている。ただ、自分のしたことがあまりにも恥ずかしくて、責任を連帯してほしかっただけ。
「ごめん、舞子。でも、大丈夫な気もするんだ」
「……へ?」
萌花はぼそぼそと打ち明けた。この話には、まだ続きがあるのだ。
部長に告げた直後、萌花は即座に後悔した。
ああ、これでクビだ。せっかく入った会社なのに、よりによって社長令息に逆セクハラしてしまったのだ。明日からプータローだ。兄達からは説教されるだろう。実家に連れ戻されるかもしれない。理想の男性像に限りなく近い、部長の全裸を拝みたい! という、どうしようもない願望の強さに負けてしまったのだ。本当にどうかしていたとしか思えない。
でも――
あの時、部長は確かに驚いていた。
薄茶色の瞳に動揺が走ったのを、萌花は間違いなく見とめている。
しかし、それはほんの数秒のことで、彼はすぐに微笑を浮かべた。面白そうに、嬉しそうに、わくわくした様子で萌花を覗きこみ、そして、こう言ったのだ。
『わかった。考えておく』
萌花は混乱した。
(考えておくって、私の処分? クビにするかどうか? ……ですよね~。そうに決まってる!)
『とにかく、今夜は送っていくよ。家はどの辺?』
だが、萌花はもう何も聞いていなかった。後悔と恥ずかしさでパニック状態だ。
エレベーターが一階に着くと脱兎のごとく逃げ出した。ロビーを横切り突っ走る。部長が何か言いながら追いかけてきたが、全速力で通用口を駆け抜け、振り切った。
そしてそのまま、合羽も着ずに自転車で帰ったのだ。嵐のような雨の中を……
アパートの部屋に逃げこんだ萌花は、しばらく暗い中でうずくまっていた。寒さと怖さで、がたがたと震えが続く。もうお終いだという絶望感に苛まれて。
だが、かなりの時間が過ぎて、ようやく落ち着いてきたところで思い至ったのだ。
『考えておく』というのは、『全裸モデルになってくれませんか』という要望に対する答えではないか、と。流れ的に、そう受け取ることができる――
「でもさ、あり得なくない?」
ジンジャーティーを運んできた舞子が、萌花が起きるのを手伝い、背中にクッションをあてがってくれた。萌花は女友達のありがたさを感じつつ、温かいカップを両手で包む。
「うん、ほんと、あり得ないんだけど」
部長は怒りもせず、ドン引きもしなかった。それどころか、微笑んでくれたのだ。
――なぜあの人は微笑んだのだろう。
「かえって面白そうな感じだったよ。嬉しそうっていうか」
「うーん。でもさ、やっぱないわー」
舞子は断定的に言った。
「あまりにも突拍子もないことだから、無難に答えたのよ。ほら、大人って子供の空想話をうんうんって聞いてくれるけど、結局は流すでしょ。それと同じで、とりあえず『考えておく』って言っとけばいいだろ、みたいな」
「そ、そうかなあ」
そう言われてみればそんな気もしてくる。
(確かに部長は、私のことを子供扱いしているような。ということは……あの微笑みは、小さな子供の言動を面白がるみたいな感じ?)
「本気にしてないってことかな」
「うん」
迷わず頷く舞子を見て、萌花は熱が急速に冷めていくのを感じた。
月曜日。今日は梅雨の晴れ間で、青空が広がっている。
すっかり平熱に戻った萌花は、自転車に乗って会社に向かった。
湖東部長の『考えておく』という返事について、ペダルを漕ぎながらぐるぐると考えた。やはり、どうしても、舞子の説が正しく思われてくる。
(そうか、そうだよね)
クビは免れたかもしれないが、この結果は別の意味で絶望的だ。〝子供の空想話〟を、部長のように立派な大人が真剣に考えてくれるわけがない。
(あうう……どちらにしろ、もうダメだ。部長の全裸は永遠に遠のいてしまった)
混み合うエレベーターの隅に乗り、降りると廊下をのろのろと移動する。オフィスに着いたのは始業時刻ぎりぎりだった。
落胆しながらもパソコンの電源を入れると、アポロン様の壁紙が現れた。半裸でベッドに横たわり、憐れみの目で萌花を見てきた……ような気がして、余計に落ちこむ。
(壁紙の設定を変えよう)
コトーの人気キャラクター、アニーのイラストを使うことにする。アニーは可愛くて元気で、ちょっとおしゃまなリスの女の子だ。制作部ではほとんどの社員が彼女を壁紙に設定している。萌花もそれに倣い、アポロン様はしばらく封印することにした。
「おはよう、美園ちゃーん。金曜日はフォローありがとうね。助かったよー」
堀内が軽い調子で声をかけてきた。部長会議用の資料の件だ。
萌花は力なく振り向くと、「どういたしまして」と事務的に答える。金曜日のことは思い出したくない。いっそ、あの日をなかったことにしてほしい。
「やっぱり美園ちゃんは役立つよね。蒲生さんじゃなくて、僕専用の補助係になってくんない?」
「ヒッ」
反射的に顔をパソコンに戻す。冗談ではない。それでは、補助係ならぬ尻拭い係になってしまう。
「馬鹿っ! 何言ってるのよ」
「そうだぞ、堀内。美園さんをいいように使いすぎだ、お前は!」
いきなり堀内を怒鳴りつける声がして、萌花はビクッとする。堀内の上役であるプランナーが二人、いつの間にか背後に立っていた。金曜日の夜、『堀内には、きつく言っておくからね』と萌花に詫びた先輩社員である。
「ええっ、なんですかいきなり。皆さんだって美園ちゃんに雑用頼みまくってますよね?」
「いいから、自分のことは自分でやれ。ごめんね、美園さん。これから大変だけど頑張ってね」
「は、はあ」
堀内は二人に捕らえられ、ずるずると引きずられていった。
「ど、どうしたんだろ」
尋常ではない勢いに、萌花は動揺する。堀内が言っていたように、あの二人も萌花にあれこれと雑用を頼んできていたはず。一体、何があったのだろう。
「美園、おはよう」
蒲生が横に来て、萌花の肩を叩いた。
「あ、おはようございます」
「……」
蒲生はデスクの前に立ち、大きくため息をついた。そして、なぜかジッと見つめてくる。
「え? な、なんですか?」
「あんたも大変ね」
「へ?」
萌花はあらためて蒲生を見返し、気がついた。彼女の眼差しには、アポロン様のそれと同じ憐れみがこもっている。
(どうして、なぜそんな目で私を?)
蒲生は鼻をすすった。しかも、うるうると瞳を揺らめかせている。
(なっ、泣いてる? 蒲生さんが、どど、どうして)
蒲生は萌花から視線を逸らすと、ハンカチで瞼を押さえた。涙ぐむ先輩を前にオロオロしていると、オフィスのドアが勢いよく開いた。
湖東部長の登場だ。
萌花はどきーんとして、気をつけの姿勢になる。
今日の部長はクールビズスタイルだ。梅雨晴れの陽射しが眩しいオフィスを、堂々と進んでいく。部長がデスクの前まで辿り着きこちらを向くと、職場はピリッとしたムードになった。
「おはよう。今日もよろしく」
挨拶に続き、月曜の全体ミーティングに入る。
萌花は、隣で涙ぐんでいる蒲生を気にしながらも、部長の姿に注目する。彼を前に様々な感情が押し寄せてくるが、就業時間となれば脱・オタクである。仕事はきちんとしなければいけない。
「最後にひとつ知らせておくことがある。私の助手を一名、企画制作部の社員から選ばせてもらった」
オフィスにざわめきが起こった。
湖東部長の助手。それは、鬼のように仕事をこなす彼の雑務担当者である。
彼が企画制作部長に就任してこれまで、その役割は石橋課長が兼任していたが、とうとう耐えられなくなったのだろう。課長はもともと薄毛で悩んでいたが、この頃は抜け毛がさらに進行していた。制作部社員はみな、課長のつるりとした頭頂部に、助手役の激務を見ていた。
「制作部から一名?」
「誰を? まさか俺じゃないよな」
不穏な空気が流れる中、萌花はハッと顔を上げる。
蒲生が、そしてプランナーの先輩二人が、同情と憐れみの目で萌花を見ている。
(ま、まさか)
湖東部長はオフィスをゆっくりと見回し、萌花の上でピタリと視線を止めた。萌花の心臓も止まりそうになる。
「美園萌花。本日付で企画制作部長助手の任を命ずる。役割の重要性を理解し、よりいっそう職務に励むよう。以上」
ミーティングが終わるや否や、部長席の隣に、助手用のデスクが設置された。萌花はそこへ移動するため、荷物を台車に載せている。
堀内の上役であるプランナー二人と蒲生には、前もって知らされていたらしい。今朝、早く出社するようにと呼び出され、『美園は俺が引き取ることにする』と、急な人事を告げられたそうだ。
原因は先週末の出来事。堀内の代わりに萌花が資料作りをした一件である。
三課の社員が、入社二年目の後輩に仕事を丸投げし、雑用係としてこきつかっている。その実態を目の当たりにした部長が怒ったのだ。
『自分の仕事は自分でやれ』
鶴の一声で決定となり、先輩三人はただ頷いていたという。
幸運か不運か、希望か絶望か、混乱する萌花の頭では判断できない。
だけど、大変なことになったという現実は理解できる。
――これから大変だけど頑張ってね。
――あんたも大変ね。
つまり、こういうことだったのだ。
「えっと……三課の皆さん、今までお世話になりました。それでは、私はこれで失礼いたします」
突然のことで、萌花はどう挨拶すればいいのかわからず、別れの言葉も単純なものになった。実際のところ、数メートル離れた場所に移るだけであるし、同じ部なのは変わらないので三課を出るという実感がない。
「ごめんな、美園ちゃん。こんなことになるなんて」
お気楽キャラの堀内までもが悲壮な顔でいる。蒲生や他の先輩社員達も沈痛な面持ちで、まるでお通夜のような雰囲気だ。
「さあさあ、早速移動しましょうかねえ、美園さん」
引継ぎのため萌花に付き添う石橋課長だけが、やたらと明るい。つるりとした頭頂部にライトが反射して、それも眩しい。
(部長の助手って、どんだけ酷使されるの?)
恐怖に慄く萌花だが、会社が決めたことなら仕方ない。会社員としては辞令に従うほかない。いや、クビになるよりマシだ。そう思えばいいと自分に言い聞かせた。
「よし、来たな」
新しい席に台車を押していくと、湖東部長に待ちかねたというジェスチャーで迎えられた。窓からの光を背景に両腕を広げた姿は、アポロン様のように神々しい。
しかし、今日ばかりは萌花のオタクモードも発動しない。仕事に対する不安が大きすぎて、萌える余裕がなかった。
デスクは三課で使っていた大きさの半分ほどしかなく、パソコンを設置するとほとんどのスペースが埋まってしまう。
ここで、どんな仕事をするというのだろう。
「では石橋課長。早速ですが美園への引継ぎをお願いします」
「承知いたしました。美園さんは働き者ですから、すぐ覚えてくれることでしょう」
部長と課長の会話に萌花は目を白黒させる。彼らは自分を即戦力として使う気らしい。
「あ、あのう、私は別に、それほど働き者というわけでは……」
「グダグダ言わない。ほら、仕事だ!」
部長に背中を押され、つんのめりそうになった。顔を上げれば、満面の笑みを浮かべる石橋課長。
「マニュアルなんてないからね。ひとつひとつ、しっかりと覚えてね」
「は、はい」
三課のスペースをちらりと見やれば、蒲生も先輩達も忙しそうに働いている。萌花は小さなデスクに目を戻し、自分の居場所はここしかないのだと覚悟を決めた。
石橋課長の説明によると、湖東部長の助手というのは要するに、秘書的な役割りをこなすことだった。
スケジュール管理から書類の整理整頓、電話の取次ぎまで、とにかくやることが多いと言う。もちろん企画デザインにかかわる作業が主であり、彼の手足となって働くので休む間もないとのこと。
また、部長の指示で社内を飛び回ることも多く、自席に腰を落ち着けるのは、パソコンを操作する間のみ。デスクが小さくても大丈夫なわけだと、萌花は納得した。
「ひと通り引継ぎは済んだ? よろしくな、美園」
「はいっ、よろしくお願いします」
萌花は元気に挨拶しながら、ふと、あのことはどうなったのかと考える。全裸モデルの件は、部長の中でどう処理されたのか。忘れてしまったのか、気にも留めていないのか。
「どうした?」
「えっ? あ、いえいえ、別になんでもありません、ハイ」
「ふうん。それじゃ、始めるぞ」
そんなこんなで、肝心なことを切り出せないまま、助手としての日々がスタートした。
一週間、二週間と日々は過ぎていく。部長のハイペースについていくのは大変だが、萌花は必死で働いた。そして、この役割に自分の能力を最大限に生かすことを覚えていった。
「美園、製品番号№3982と№3522の仕様書を開発部に返却してくれ。それから、糸田工業の本宮社長の来社が明後日に延びたと営業二課の沢口に伝えておくように。メールと口頭の両方で頼む。俺のスケジュールも調整しておいてくれ」
「はいっ」
「ほう、いい返事だな。空返事じゃないだろうな」
「いえ、きちんと記憶しました。ばっちりです」
萌花は記憶力が良く、固有名詞も数字も一度で覚えられる。多くの指示に対応できるのは、複数の仕事を同時にこなした雑用係の経験が生きているからだ。
また、デザインの種類と担当者の名前も直結するよう暗記していた。
「商品開発部から上がった海獣シリーズの新案だが、アイテムは五種類だったな?」
部長の早口での確認に、萌花もぱっと答える。
「いいえ、三種類です」
「担当は蒲生か」
「違います。西村さんです。今年度から彼がメインデザイナーになりました」
部長はニヤリとした。
「合格」
わざとミスを誘い、萌花を試すのだ。部長はたびたび、こういったテストをしてくる。
しかし、どんなに試されても萌花は引っ掛からない。コトーに入社して一年、多くの先輩について仕事をしてきた萌花は、ベテラン社員でも勘違いやミスをすると知っている。
また、自分の記憶や判断力は信じるに足るものだと何度も学習済みだ。相手が偉い立場の人であろうと、盲目的に信じることはない。
そんな萌花を部長はますます信頼し、仕事を任せてくれた。そして厳しさの中にも、ふと柔らかな表情を見せるようになる。
(おお、アポロン様の微笑みだ)
そんな時、萌花の理性は激しく揺さぶられるが、それでもオタクモードが発動することはなかった。
仕事をこなすのに精一杯で、部長をじっくり観察したり、萌えたりする余裕がないのだ。
ゆえに、以前のように彼を頭の中でデッサンし、アパートに帰ってから必死でスケッチブックに描き写すということもない。
疲れ果てて部屋に帰ると、すぐに寝てしまう毎日。体力精神力ともに消耗が激しく、欲望も湧いてこなかった。
(一日中部長の傍にいるというのに、もったいない。でも、今は無理……)
舞子などは、『それって、クビより過酷な罰かも』と同情してくる。そうかもしれないと、萌花は思う。萌える余力を奪われてしまうとは、オタク生命が終わったも同然。
(ほんの少しでも余裕ができれば……てか、あのことを部長から言ってくれたらなあ。忘れちゃったのかも)
萌花は悶々としながらも身動きが取れない状態で、激務の日々を送った。
今は七月の半ば。
関東地方は梅雨明けし、日中の気温が急カーブで上昇していく。季節はすっかり夏になっていた。
「どうだ、美園。仕事は面白いか?」
「はいっ。正直、大変は大変ですけど」
元気よく答えると、湖東部長は声を出して笑った。何がおかしいのかよくわからないが、萌花も釣られて笑う。誰もいない夜のオフィスに、二人の明るい声が響いた。
部長の助手を命じられて一か月が過ぎた。萌花は禿げ上がることもなく、なんとか五回目の週末を迎えることができた。
「君を助手にして正解だった。よく動いてくれるから俺も助かるし、三課の連中も各々責任を持って、いい仕事をするようになった。あの堀内までもが、資料一つ作るのに必死の形相だよ」
部長は、してやったりの表情になる。
実は萌花を助手に据えた際、部長は彼らに『この体制に不満があるなら、いつでも美園と交代させてやる』と脅しをかけていた。部長は提案だと言うが、明らかに脅しである。
部長の助手になるくらいなら、雑用でもなんでも自分でやったほうがマシだ。三課の社員は、どんな小さな仕事でも懸命に取り組むようになった。
萌花としては複雑だった。これまでは自分が雑用を頑張りすぎて、先輩のやる気や、引いては責任感を奪っていたのではないか。
「結果よければすべてよし。いらんことは考えるな」
「は、はいっ」
心を見透かしたような部長の励ましだった。
(なんだか、部長ってすごいな。外見はお洒落なイケメンで、女の人にモテモテのリア充。ところが中身は全然硬派だし、大人の男って感じがする)
萌花はこの頃、仕事に慣れてきた。最初は辛くて、切実にやめたいと思った時もあったけれど、今は充実していると感じる。目が回るほど忙しくても、得るものがあるからだ。
萌花はいまや企画制作部全体の仕事を把握している。三課で雑用をこなした時もいろいろ勉強になったけれど、今は視野の広さが違う。
部長の傍にいることで、アイテムの企画からデザイン、実際の商品化までの流れを直に見ることができる。他の管理職がどうかわからないが、湖東部長の場合は部長席でどっしり構えているだけでなく、積極的に現場に入っていくので状況がよく見えるのだ。
仕事が面白いというのは、萌花の心からの感想だった。
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