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ロアルド、王都学院の受験を言いつかる プレセア暦三〇四八年 コーネル邸
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春の暖かい陽射しを浴びて赤や黄、薄紫にきらめく花ばな。その芳香が鼻腔をくすぐり、何とも言えない心地好さをもたらす。
その背後には新芽が吹きつつある木々が整然とならび広がり、石畳で形作られた小径がさながら迷路のように小さな森の中へと繋がっていた。
「こっちよ、お兄さま」駆ける妹。
「そっちか!」追う兄。
コーネル家ののどかな日常だった。
兄は息が切れていた。妹の足は速い。何らかのスキルを用いて加速しているのは間違いなかった。そうでなければ十歳の妹が十二歳の兄から容易に逃げ切れるものではない。
兄は何のスキルも使えず、ただ自力で走るだけだった。
広い庭での追いかけっこ、逃げるのは妹、追うのはいつも兄だった。
「そこにいたか」兄は深緑の木々の間に妹の真っ白なフレアスカートの裾を見た。「つかまえたぞ!」
やっとの思いで追いかけっこに終止符を打ったつもりだった。しかしその白い影は突如として大きくなり、兄の体に覆い被さった。
妹かと思ったその白い影は家で飼っているペットのムーア犬だった。
「やられた! ロージー、また幻術を使ったな」
白く毛むくじゃらなムーア犬が兄の顔をなめ回す。尻尾が大きく速く振られている。妹の制止がなければ兄はいつまでも組み敷かれたままだ。
「同じ手にひっかかるなんて、兄さまくらいよ」妹はいたずらっ子のように笑った。
「魔法を使われたらかなわない」解放された兄は頭を掻いた。
「お兄さまも使えば良いのに。とっておきのがあるでしょ?」
「あれは父上や姉上たちから禁じられている。最低最悪のスキルだから」
「そうね」妹は笑った。「でも楽しい。ずっとロアルドお兄さまと遊んでいたい」
「ロージー、お前は優しいな。姉上たちとは違う」
「そんなこと聞かれたら大変なことになるわ。口は災いのもとよ」
「おっと、そうだった」
使用人が呼びに来たため兄妹の戯れはそれでしまいとなった。
その日の夕食の席、長期休暇を利用して帰ってきていた三女ジェシカが久しぶりに家族と顔を合わせた。
ジェシカはロアルドの二つ上、ロージーの四つ上、十四歳だった。
父、母、姉、妹ととる夕食。ロアルドは末席にいた。それがコーネル家の序列だった。
国の慣習では家を継ぐのは男子。ロアルドは女系家族のコーネル家では久しぶりに生まれた男子だったから彼が家を継ぐのは当然と周囲は思ったはずだ。
しかしロアルドには家を継ぐにふさわしい特性がなかった。
「ロアルドはローゼンタール王都学院に進学させる」晩餐の席で当主である父エドワードが言った。
それは三人の姉が通うバングレア王国においてグレード最上位の名門校だった。
「そんなの無理に決まってるじゃない」声をあらげたのは姉のジェシカだった。「何科に入れるつもりなの? 魔法もない、剣もふるえない、教典もそらんじられない。お父様なら無理矢理にでもこの子を学園に入れることはできるでしょうけれど、恥をかくのは本人なのよ。その挙句、コーネル家の嫡男が無能だと恥をさらすのだわ」
姉上たちは恥をかきたくないのだとロアルドは思った。
「僕は地元の学校に進学して役所に勤められるよう努力するよ」ロアルドは殊勝な態度で言った。
「それが良いわ」
「お前たちはいつも世間体を気にしているが、もし世間体を気にするなら、なおのこと王都学院に通う方が良い。コーネル家の跡取りが地方の公立校出身という方が笑われる」
「跡取りはロアルドでなくても、グレースお姉さまかマチルダお姉さまが婿をとれば良いのよ」
「グレースは神官志望だ。この家には戻ってこない。マチルダも家を継ぐ気はないだろう。ジェシカ、お前が婿をとるか?」
「そ、そんなの考えたこともないわ」
「結局のところ、ロアルドが一番だ」
片田舎の領主には息子がもっともふさわしい。父は息子をかばうように言ったのかもしれないが、ロアルドにはそれがこの家の序列を如実に物語っているように聞こえた。
「仕官科に入れ。そこで地道に努力して宮廷に仕え、貴族の嫁を娶るのだ」
「仕官科なんて名前だけで、事務方養成所じゃない」ジェシカは辛辣に言った。「実際、宮廷の仕官は魔法科や騎士科を出た者の方が良いポストについているし。仕官科を出たってただの宮仕えにしかなれないわ。しかも裏方。清掃部門に配属されてゴミまみれになるのがオチよ。それで数年で里帰りして落伍者として見られるのよ」
まあ確かにそうだろうな、とロアルドも思った。こればかりは抗えない運命だ。優秀な姉妹たちと暮らしてきて自分の限界はいやというほど思い知らされている。
「話はもう決めてある」父は言った。「ひと月ほどしたら新学期だ。お前もジェシカたちと同じように寮に入りなさい」
「ええ!?」
「わかりました、父上」
呆れる姉をよそにロアルドは父の言いつけに従った。
「ああ、なんてこと!」ジェシカが嘆いた。「マチルダお姉さまが何て言うかしら。生徒会長の弟がこんな役立たずだと知られたら、私たちの面目も丸つぶれじゃない」
「僕はおとなしくしているよ。目立たないようにして、お姉さまたちの弟だとは名乗らない」
「当然よ。それからあの変な特性、封印しなさいね。恥ずかしくって口に出して言えないわよ」
「そうするよ」
「ステータスは個人情報だから簡単には見られないがな」父は言った。「見たところで、それが何なのかわかる者もおるまい」
「『スナッチ』なんていう特性やスキル、誰も聞いたことはないわよ。ただそれが何なのか興味を示す人もいるでしょうね。『引ったくり』とか『かっぱらい』とか『どろぼう』を意味する特性。絶対に言うんじゃないわよ。あなたは無特性のスキルなし。それで通しなさい」
「わかったよ、姉さま」ロアルドは苦笑いを返した。
「この世で一人しか持たないレアスキルなんだがな」父はふと洩らしていた。
その背後には新芽が吹きつつある木々が整然とならび広がり、石畳で形作られた小径がさながら迷路のように小さな森の中へと繋がっていた。
「こっちよ、お兄さま」駆ける妹。
「そっちか!」追う兄。
コーネル家ののどかな日常だった。
兄は息が切れていた。妹の足は速い。何らかのスキルを用いて加速しているのは間違いなかった。そうでなければ十歳の妹が十二歳の兄から容易に逃げ切れるものではない。
兄は何のスキルも使えず、ただ自力で走るだけだった。
広い庭での追いかけっこ、逃げるのは妹、追うのはいつも兄だった。
「そこにいたか」兄は深緑の木々の間に妹の真っ白なフレアスカートの裾を見た。「つかまえたぞ!」
やっとの思いで追いかけっこに終止符を打ったつもりだった。しかしその白い影は突如として大きくなり、兄の体に覆い被さった。
妹かと思ったその白い影は家で飼っているペットのムーア犬だった。
「やられた! ロージー、また幻術を使ったな」
白く毛むくじゃらなムーア犬が兄の顔をなめ回す。尻尾が大きく速く振られている。妹の制止がなければ兄はいつまでも組み敷かれたままだ。
「同じ手にひっかかるなんて、兄さまくらいよ」妹はいたずらっ子のように笑った。
「魔法を使われたらかなわない」解放された兄は頭を掻いた。
「お兄さまも使えば良いのに。とっておきのがあるでしょ?」
「あれは父上や姉上たちから禁じられている。最低最悪のスキルだから」
「そうね」妹は笑った。「でも楽しい。ずっとロアルドお兄さまと遊んでいたい」
「ロージー、お前は優しいな。姉上たちとは違う」
「そんなこと聞かれたら大変なことになるわ。口は災いのもとよ」
「おっと、そうだった」
使用人が呼びに来たため兄妹の戯れはそれでしまいとなった。
その日の夕食の席、長期休暇を利用して帰ってきていた三女ジェシカが久しぶりに家族と顔を合わせた。
ジェシカはロアルドの二つ上、ロージーの四つ上、十四歳だった。
父、母、姉、妹ととる夕食。ロアルドは末席にいた。それがコーネル家の序列だった。
国の慣習では家を継ぐのは男子。ロアルドは女系家族のコーネル家では久しぶりに生まれた男子だったから彼が家を継ぐのは当然と周囲は思ったはずだ。
しかしロアルドには家を継ぐにふさわしい特性がなかった。
「ロアルドはローゼンタール王都学院に進学させる」晩餐の席で当主である父エドワードが言った。
それは三人の姉が通うバングレア王国においてグレード最上位の名門校だった。
「そんなの無理に決まってるじゃない」声をあらげたのは姉のジェシカだった。「何科に入れるつもりなの? 魔法もない、剣もふるえない、教典もそらんじられない。お父様なら無理矢理にでもこの子を学園に入れることはできるでしょうけれど、恥をかくのは本人なのよ。その挙句、コーネル家の嫡男が無能だと恥をさらすのだわ」
姉上たちは恥をかきたくないのだとロアルドは思った。
「僕は地元の学校に進学して役所に勤められるよう努力するよ」ロアルドは殊勝な態度で言った。
「それが良いわ」
「お前たちはいつも世間体を気にしているが、もし世間体を気にするなら、なおのこと王都学院に通う方が良い。コーネル家の跡取りが地方の公立校出身という方が笑われる」
「跡取りはロアルドでなくても、グレースお姉さまかマチルダお姉さまが婿をとれば良いのよ」
「グレースは神官志望だ。この家には戻ってこない。マチルダも家を継ぐ気はないだろう。ジェシカ、お前が婿をとるか?」
「そ、そんなの考えたこともないわ」
「結局のところ、ロアルドが一番だ」
片田舎の領主には息子がもっともふさわしい。父は息子をかばうように言ったのかもしれないが、ロアルドにはそれがこの家の序列を如実に物語っているように聞こえた。
「仕官科に入れ。そこで地道に努力して宮廷に仕え、貴族の嫁を娶るのだ」
「仕官科なんて名前だけで、事務方養成所じゃない」ジェシカは辛辣に言った。「実際、宮廷の仕官は魔法科や騎士科を出た者の方が良いポストについているし。仕官科を出たってただの宮仕えにしかなれないわ。しかも裏方。清掃部門に配属されてゴミまみれになるのがオチよ。それで数年で里帰りして落伍者として見られるのよ」
まあ確かにそうだろうな、とロアルドも思った。こればかりは抗えない運命だ。優秀な姉妹たちと暮らしてきて自分の限界はいやというほど思い知らされている。
「話はもう決めてある」父は言った。「ひと月ほどしたら新学期だ。お前もジェシカたちと同じように寮に入りなさい」
「ええ!?」
「わかりました、父上」
呆れる姉をよそにロアルドは父の言いつけに従った。
「ああ、なんてこと!」ジェシカが嘆いた。「マチルダお姉さまが何て言うかしら。生徒会長の弟がこんな役立たずだと知られたら、私たちの面目も丸つぶれじゃない」
「僕はおとなしくしているよ。目立たないようにして、お姉さまたちの弟だとは名乗らない」
「当然よ。それからあの変な特性、封印しなさいね。恥ずかしくって口に出して言えないわよ」
「そうするよ」
「ステータスは個人情報だから簡単には見られないがな」父は言った。「見たところで、それが何なのかわかる者もおるまい」
「『スナッチ』なんていう特性やスキル、誰も聞いたことはないわよ。ただそれが何なのか興味を示す人もいるでしょうね。『引ったくり』とか『かっぱらい』とか『どろぼう』を意味する特性。絶対に言うんじゃないわよ。あなたは無特性のスキルなし。それで通しなさい」
「わかったよ、姉さま」ロアルドは苦笑いを返した。
「この世で一人しか持たないレアスキルなんだがな」父はふと洩らしていた。
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