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神官グレースと文献検索 プレセア暦三〇四八年 ローゼンタール王都学院図書館

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 学園に通うようになって半月ほど経ち、ロアルドは寮と学園とを行き来する生活に慣れてきた。
 学園生活は退屈だった。仕官科は宮廷業務をこなすための基礎学力をつける勉学に励むのだが、幼少期からひたすら地味な勉強にいそしんできたロアルドはすでに仕官科三年分に相当する学力をつけていた。
 授業に目新しいものはない。かといって仕官科に飛び級制度はなく、ロアルドはつまらない授業を受けて、簡単な試験を目立たない程度に平凡な成績でクリアしていくしかなかった。
 図書館で書物をあさるのがロアルドの唯一の楽しみだった。
 王都学院図書館には国内に現存する全ての書物が保管されていた。とはいっても概ね二百年程度の期間に発行された書物だ。
 暦は三千年を超えていても、度重なる大戦により書物は焼失した。仮に焼失を免れたとしても戦の敗者の歴史は完全に消去される。そこには勝者の価値観による勝者のためだけの歴史しか残らないのだ。
 紙媒体の書物はたかだか二百年の歴史しか語らなかった。それ以前の歴史は書物ではなく人によって語られる。それが神官の存在理由の一つだった。
 神官になる人間には恐ろしいほどの記憶力があった。彼らは先達が記憶している情報を受け継ぐ。その情報量は本にして数万冊にも及ぶといわれる。
 コーネル家長女グレースの脳内にも数万冊の書物がまるごと格納されていた。そこにはもう現存しない三千年前のものもあるという。ただし王国にとって不都合な情報はグレース本人にも引き出せないように魔法による鍵がかけられ封印されていた。
 グレースら神官はだけで、鍵がかけられた情報に関しては、その中身を取り出して閲覧することはできないのだ。
 そのグレースは図書館にいた。
 学園七年生のグレースはすでに神官になっていてマスター一年生でもあった。彼女のここでの役割の一つは文献検索の手伝いだ。今もどこかの教授が来館していてグレースを通じて文献検索を行っていた。
 書庫にない本は神官の頭の中にある。グレースと教授の間で合意の上での精神感応をすることによって、教授はグレースの脳内に格納された文献を検索し、読むことができるのだった。
 ただし鍵がかけられた文献を読むことはできない。その場合、グレースよりさらに高位の神官に頼ることになる。最終的に王都の全神官の協力が得られたとしても引き出せない情報もあるのだった。

 ロアルドはグレースを遠目で見ただけで通りすぎた。学園内では姉弟としてコンタクトしないことが暗黙の了解となっていたからだ。
 そういえばロアルドの特性「スナッチ」についてグレースを頼ったことがあったとロアルドは思い出した。
 「スナッチ」は確かにグレースの脳内にある「全世界魔法大全」のインデックスに載っていた。しかし閲覧することはできなかったのだ。
 父親のコネを使い、より高位の神官からそれとなく得た情報も簡単なものだった。「その時代においてただ一人が持ちうる特性」「失われたスキル」という情報以外何も得られなかった。

 一人で館内をうろついていると、魔法科のオスカーの姿を認めた。彼もまた一人だった。女性として生を受けても全く差し支えないほどの美貌。しかも一年生にしては落ち着いていて十五歳以上に見える。身の丈でようやくローティーンと認識できるのだ。
 それはロアルドも同様で、実年齢以上に見られるが、単におとなしい性格だからだとロアルドは思っている。
「何か調ベものをしているのかい?」自分でも驚いたがロアルドはオスカーに話しかけていた。
「ああ、君か」
 オスカーは、声をかけられて初めて気づいたように装ったが、かなり前から存在を認識していたのだとロアルドは思った。
 オスカーには隙がない。常に探知系の魔法を網の目のように張り巡らせている。たとえ魔法を持たないロアルドのような人間であっても、自分のゾーンに入った者に気づかぬはずがなかった。
「君のお姉さまは神官だったのだね?」
 それはふだんの寮内の会話(アーサーがロアルドに話しかけたりする日常会話)で当然知り得た情報のはずだが、オスカーは改めて確認するかのように訊いた。
「そうだよ。でも僕は魔法が使えない凡人だからコーネル家三姉妹(実際には妹ロージーを入れて四姉妹)の弟であることは敢えて公表はしていないんだ。特にジェシカ姉さまは僕がこの学園に通うことをよく思ってはいなかったからね」
「余計なことを言って悪かったね。許してくれたまえ」
「いや、そんな、君が謝るようなことではないよ」
「君の姉君は本当に忙しいんだね。毎日文献検索の手伝いをしていらっしゃる。他にも司書をしている神官が何人もいるのに」
「グレース姉さまは優しい人だから」
「そして、とても美しい」
「君がそれを言うか?」
 確かにグレースは羨むばかりの美貌をもっている。しかしそれ以上に目立つ美貌をもっているのはオスカーの方なのだ。
「今、君の姉君が相手をしている教授、毎日姿を現すよ。そしていつも君の姉君に検索の手伝いを依頼するのだ」
「頼みやすいからかな?」
 単純な理由であって欲しかった。おそらくは四十代と思われる教授が自分の娘くらいの神官を相手に何か下心をもって接触しているとは思いたくなかった。
「文献検索をするための精神感応にはいくつかリスクがある。本来それは両者の信頼関係が大前提でなされるべきものだ。他者の意識が頭の中に入ってくるんだ。気づかぬうちに精神支配系の魔法が送り込まれる可能性がある。そう思わないか?」
 確かにその通りだ。だから精神感応を用いた文献検索には詳細な記録が残される。検索時間、検索内容。そしてまた検索者の情報。
 学園の教官ともなればそれなりの地位がある者ばかりだ。悪意がない人間であることは学園が保証している。
 しかしそれは確かなのか? 完璧なのか?
「君は怪しいと睨んでいるんだね?」ロアルドはオスカーに訊いた。
「確証はないよ。僕にはわからない」
「僕にもわからないよ」
「血が繋がった姉弟だからわかるかもと思ったのだが」
 いや、わからないこともない。スナッチならば見えるのだ。
「ちょっと様子を見てくる」ロアルドは言った。
 何をどのように見るのか、普通なら訊くだろうが、オスカーは当然知っているかのように聞き流した。
 グレースとその教授は閲覧室の端にある文献検索室の一つにいた。それは外から視覚的に見えるが、話し声は一切聞こえてこない特殊な結界が張られたエリアとなっていて、人が二人向き合って腰掛ける程度のスペースごとに区切られていた。
 その一つに二人はいた。他に文献検索をしている教官はいなかった。
 なるほど、確かに、他にも検索を手伝う神官がたくさんいるのにわざわざグレースを選んで依頼するというのも意図があるとみるのが妥当だろう。それが若い男なら求愛活動の一つとグレースも考えたかもしれないが四十代の妻子持ち教官ではそのような発想には至らなかったのかもしれない。
 ロアルドは何気なさを装って彼ら二人がいる場所から十メートル以内に近寄った。
 両者合意のもとの精神感応系の魔法はこのような術式で行われるのかとロアルドは感心して視たが、同時に、教授がわずかな魔力でもって別の魔法を展開しているのがわかった。
 それは本当に警戒していないと気づかない程度の微細な魔法で、動物の雌が雄に向かって本能的に放つフェロモンのような効果を放っていた。しかもその量が絶妙なのだ。
 魔法を持たない人間の中にもそうした目に見えない催淫効果をもたらすものを無意識的に発している者がいるが、それに少しさじ加減を加えた程度の量なのだ。魔法を警戒していないと気づかないだろう。
 しかし明らかにその教授はグレースに対してそれを使っていた。一度や二度では何の効果もない量だが度重なると蓄積され、いずれは目に見える効果となるに違いない。
 これまで何回この教授がグレースと文献検索を行ったかは知らないがロアルドが看過できるはずもなかった。
 しかしロアルドにはどうにもできない。せいぜい短時間スナッチして邪魔をする程度のことしかできなかった。
 やはりグレースに直接注意を促すしかないだろう。ロアルドはその場を離れた。
「何かわかったかい?」オスカーが訊いた。
 ぐるりと一回りする感じでオスカーがいるところにロアルドは戻ってきたのだ。
「いや、何も。あんな風にして文献検索を手伝っているのかと見てきただけだよ」
 その誤魔化しが通じているとは思えなかったが、オスカーは「そうか」と頷いた。
 オスカーは何もかも見抜いていて黙っているのかもしれないとロアルドは思った。
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