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初日はおとなしく
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始業式が終了し、それぞれの教室へと移動した。
担任が水沢だったのが意外だ。担任団は中等部から持ち上がりなのだが、水沢はずっとA組担当だった。それが今年はどうしたことかD組の担任だ。明音にとっては五年連続で水沢が担任になる。馴染みの生徒がクラスにいない代わりに担任が馴染みとは不思議なめぐり合わせだった。
ホームルームで学級委員や各種委員を決めることとなった。
ここが肝心だと明音は思った。家の事情で自宅にはできるだけ早く帰りたい。役職には一切つきたくなかった。だから目立たないようにおとなしくしていた。
ふだんかけない眼鏡をかけ、セミロングの髪は学園公式行事向けのお下げにしてある。黙っていればA組にいた「浅倉明音」の姿はなく、地味な「小早川明音」がいるだけだ。中等部上がりの生徒もいるようだが気配を消している明音のことに気づく者はなかった。
明音の思惑は当たり、役職が割り当てられることはなかった。
担任の水沢は明音の方を何度かチラリと見遣っていたが、明音が気配を消しているのを察して何も言わなかった。親の離婚で名字が変わったことや学費減額のための特待生制度を申請したことも考慮して何も言わないでくれたのだと明音は思った。
席替えが行われた。はじめは出席番号順に着席していたが席替えで明音は窓際の最後列になった。
教室を見渡せる特等席。しかし意外に教師からもよく見えるので内職や昼寝は困難な席だった。とはいえ外の景色が見えるのは気持ちが良い。明音は幸先の良さを感じた。
午前でその日の行事は終了した。帰ろうと立ち上がった明音は教室を出たところで水沢に呼び止められた。
「小早川さん、ちょっと良いかしら?」
「はい?」
担任に呼ばれたら仕方がない。明音は水沢に従い、話をすることになった。
階段そばでの立ち話。通りかかる生徒がいたとしても、立ち止まらない限り話が聞かれることはない。
「おとなしかったわね」水沢が言った。「『S組』の番長がおとなしいと調子が狂うわ」
「名前も変わったし、別の人生を歩もうかと」明音は笑ってごまかす。
「学級委員くらいはやってくれるかと思ったんだけど」
「それが、私生活の方が忙しくなりそうで、下の子も小学二年生でして、母の帰りも遅くて」
「双子だったかしら」
「はい、二卵性で、弟と妹です」
「大変ね」
「親の離婚については理解しているみたいですけど、母が仕事人間になったことは戸惑っているみたいです」
「そう……」
言いたいことはそれではないでしょう、と明音は思った。
「ところで先生は……」と切り返した。「名字は変わらないのですね?」
「あ、そ、それは……」水沢はうろたえた。「教員免許の姓を変更していない、し……、実は一部の先生にしか話していないのよ」
「どうしてですか? おめでたいことだと思います」
「あまり冷やかされたくないのよ、先生方にも、その……、生徒たちにも」
「ラブラブでしたものね」明音がニヤッと笑うと水沢の顔は真っ赤になった。
「まさか、あなたと同じマンションになるとは思わなかったわ」
母の離婚を機に高層マンションに引っ越した。弟妹たちが転校しなくてすむように近くの新築マンションだ。
先日その自宅マンションのエレベーターに乗った際、上の階から乗ってきたらしい若い夫婦と出くわした。
手を繋いでベタベタする夫婦。入居してきた新婚夫婦らしい。夫は二階に開業しているデンタルクリニックの院長だとすぐにわかった。最近弟をそこへ連れていったからだ。
妻がどんな人物か観察してやろうと見ると、デレデレする美貌の妻はよく知る人物だった。中等部の頃から世話になっている担任の水沢光咲だったのだ。
水沢は、明音がじっと見つめていてもなかなか明音に気付かなかった。
だから明音は意地悪く声をかけたのだ。「先生」と。
「あのときは顔から火が出るくらい恥ずかしかったわ」
「こっちも恥ずかしかったですよ、あんなにデレてる先生を見たのは初めてだったので」
「お願いだから、それは言わないで……」
「大丈夫です。プライベートは大事ですから」だから自分にも目をつぶって、という思いを明音は込めた。
「あのマンション、実は学校関係者が結構いるわよ」
「一階ベーカリーの子はうちの一年生ですよ。小学校が一緒でしたからよく知ってます」
「他にもいるから。まあそのうちわかるでしょうけれど」
「そうですね」
「とにかく」と水沢は咳払いをしてつけ加えた。「家も近いし、何か困ったことがあったら遠慮なく言うのよ」
「ありがとうございます」明音はペコリと頭を下げた。
誰にだって秘密というほど大げさではないが内緒にしていることがある。水沢が結婚したことをオープンにできないのは恥ずかしいだけではなく、何か他にも理由があるのだろう。
あの学園は若い女性教師の結婚退職を嫌って何かと制限を設けているようだから水沢も大変なのだと明音は思った。
自宅マンションに帰ってきた。双子の弟妹はテレビゲームで遊んでいた。けんかもするが仲は良い。それだけでも助かる。
専業主婦をしていた母親は有閑マダムから仕事人間に戻った。よくあれだけ切り替えられると思う。弁護士資格を持っているから、無収入の扶養家族から一気に高所得者になるだろう。
学費免除の特待生は二年生限りで終わりだ。親の所得が上がると来年度の免除は受けられなくなる。
明音は夕食の支度を始めた。幸いなことに今日はバイトのシフトは入っていない。もしバイトがあると双子は彼らだけで食事をとることになる。それでも明音は自分の小遣いくらいバイトで得たかった。月に四十時間以内、土日祝のみと学校には届けているが、それを越えてしまっていることは内緒だった。
「今日は一緒に食べるぞ」明音は明るく声をかけた。双子は大喜びだった。
担任が水沢だったのが意外だ。担任団は中等部から持ち上がりなのだが、水沢はずっとA組担当だった。それが今年はどうしたことかD組の担任だ。明音にとっては五年連続で水沢が担任になる。馴染みの生徒がクラスにいない代わりに担任が馴染みとは不思議なめぐり合わせだった。
ホームルームで学級委員や各種委員を決めることとなった。
ここが肝心だと明音は思った。家の事情で自宅にはできるだけ早く帰りたい。役職には一切つきたくなかった。だから目立たないようにおとなしくしていた。
ふだんかけない眼鏡をかけ、セミロングの髪は学園公式行事向けのお下げにしてある。黙っていればA組にいた「浅倉明音」の姿はなく、地味な「小早川明音」がいるだけだ。中等部上がりの生徒もいるようだが気配を消している明音のことに気づく者はなかった。
明音の思惑は当たり、役職が割り当てられることはなかった。
担任の水沢は明音の方を何度かチラリと見遣っていたが、明音が気配を消しているのを察して何も言わなかった。親の離婚で名字が変わったことや学費減額のための特待生制度を申請したことも考慮して何も言わないでくれたのだと明音は思った。
席替えが行われた。はじめは出席番号順に着席していたが席替えで明音は窓際の最後列になった。
教室を見渡せる特等席。しかし意外に教師からもよく見えるので内職や昼寝は困難な席だった。とはいえ外の景色が見えるのは気持ちが良い。明音は幸先の良さを感じた。
午前でその日の行事は終了した。帰ろうと立ち上がった明音は教室を出たところで水沢に呼び止められた。
「小早川さん、ちょっと良いかしら?」
「はい?」
担任に呼ばれたら仕方がない。明音は水沢に従い、話をすることになった。
階段そばでの立ち話。通りかかる生徒がいたとしても、立ち止まらない限り話が聞かれることはない。
「おとなしかったわね」水沢が言った。「『S組』の番長がおとなしいと調子が狂うわ」
「名前も変わったし、別の人生を歩もうかと」明音は笑ってごまかす。
「学級委員くらいはやってくれるかと思ったんだけど」
「それが、私生活の方が忙しくなりそうで、下の子も小学二年生でして、母の帰りも遅くて」
「双子だったかしら」
「はい、二卵性で、弟と妹です」
「大変ね」
「親の離婚については理解しているみたいですけど、母が仕事人間になったことは戸惑っているみたいです」
「そう……」
言いたいことはそれではないでしょう、と明音は思った。
「ところで先生は……」と切り返した。「名字は変わらないのですね?」
「あ、そ、それは……」水沢はうろたえた。「教員免許の姓を変更していない、し……、実は一部の先生にしか話していないのよ」
「どうしてですか? おめでたいことだと思います」
「あまり冷やかされたくないのよ、先生方にも、その……、生徒たちにも」
「ラブラブでしたものね」明音がニヤッと笑うと水沢の顔は真っ赤になった。
「まさか、あなたと同じマンションになるとは思わなかったわ」
母の離婚を機に高層マンションに引っ越した。弟妹たちが転校しなくてすむように近くの新築マンションだ。
先日その自宅マンションのエレベーターに乗った際、上の階から乗ってきたらしい若い夫婦と出くわした。
手を繋いでベタベタする夫婦。入居してきた新婚夫婦らしい。夫は二階に開業しているデンタルクリニックの院長だとすぐにわかった。最近弟をそこへ連れていったからだ。
妻がどんな人物か観察してやろうと見ると、デレデレする美貌の妻はよく知る人物だった。中等部の頃から世話になっている担任の水沢光咲だったのだ。
水沢は、明音がじっと見つめていてもなかなか明音に気付かなかった。
だから明音は意地悪く声をかけたのだ。「先生」と。
「あのときは顔から火が出るくらい恥ずかしかったわ」
「こっちも恥ずかしかったですよ、あんなにデレてる先生を見たのは初めてだったので」
「お願いだから、それは言わないで……」
「大丈夫です。プライベートは大事ですから」だから自分にも目をつぶって、という思いを明音は込めた。
「あのマンション、実は学校関係者が結構いるわよ」
「一階ベーカリーの子はうちの一年生ですよ。小学校が一緒でしたからよく知ってます」
「他にもいるから。まあそのうちわかるでしょうけれど」
「そうですね」
「とにかく」と水沢は咳払いをしてつけ加えた。「家も近いし、何か困ったことがあったら遠慮なく言うのよ」
「ありがとうございます」明音はペコリと頭を下げた。
誰にだって秘密というほど大げさではないが内緒にしていることがある。水沢が結婚したことをオープンにできないのは恥ずかしいだけではなく、何か他にも理由があるのだろう。
あの学園は若い女性教師の結婚退職を嫌って何かと制限を設けているようだから水沢も大変なのだと明音は思った。
自宅マンションに帰ってきた。双子の弟妹はテレビゲームで遊んでいた。けんかもするが仲は良い。それだけでも助かる。
専業主婦をしていた母親は有閑マダムから仕事人間に戻った。よくあれだけ切り替えられると思う。弁護士資格を持っているから、無収入の扶養家族から一気に高所得者になるだろう。
学費免除の特待生は二年生限りで終わりだ。親の所得が上がると来年度の免除は受けられなくなる。
明音は夕食の支度を始めた。幸いなことに今日はバイトのシフトは入っていない。もしバイトがあると双子は彼らだけで食事をとることになる。それでも明音は自分の小遣いくらいバイトで得たかった。月に四十時間以内、土日祝のみと学校には届けているが、それを越えてしまっていることは内緒だった。
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