デボルト辺境伯邸の奴隷。

ぽんぽこ狸

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 モーリスの言葉とは裏腹に、屋敷に到着したのは夜の深い時間帯だった。大きな城の別館のような場所へと通され、風呂に押し込められて仕方なく体を洗う。

 血を洗えるのはいいんだが、手当も何も無し、湯がしみて痛てぇんだけど。

 改めて体を見ると、痣ができている場所も多く、額は皮膚がめくれてしまい酷い有様だ。右目も腫れぼったくて視界が悪い。

 あのモーリスって野郎は、俺を女扱いしてんだよな。……じゃあなんだ?今度は貴族の妾でもやれってのかよ。

 考えながら髪を濯ぐ。湯に溶けた血が風呂場のタイルを赤に染めながら落ちていく。

 女に勘違いされる理由には心当たりがある。俺が殺した前のご主人様が、そう言う扱いをしたからだ。女性物の衣類を着用させ、処刑台へと上がった時には、返り血で真っ赤な衣装になっていた。
 あれほど遠くからであれば、顔を女に見間違うことも無くは無いだろう。髪も長くして一つ結っているし。

 浴室を出ると、脱いだ服とは別に、布一枚で作ったようなメリハリのないチュニックとズボンが置かれている。
 風呂場に入る前に手枷はモーリスの手によって外されたが、奴隷の証である首輪だけは、着用したままだ。

 ……これからどうする。逃走するか?このまま屋敷にいても、男だとバレて、牢獄に戻されるのが落ちだ。そうは言っても容易じゃないだろう。モーリスはああ見えて、腕が経つように思えた。
 悟られずに、よく知りもしない場所で、隠密に逃げられるはずがない。

 思考を巡らせていると、不意に扉が開く、幸い服を着た後だったので、モーリスも不審に思わずに、俺に声をかける。

「遅いよ、気に入られたいのは分かるけど、もう行くよ」
「うるせぇ」
「はいはい」

 彼は踵を返して歩き出し、俺はなんとなしにそれに続く。
 使用人側の生活スペースを出て、絨毯の引いてある歩き心地のいい装飾の多い廊下を進んだ。

「シリルさ……上手くやってよ、助けてあげたんだから、そのぐらいの恩義は果たして欲しい」

 静かな声でモーリスはそう呟き、一つの扉の前で止まった。

 助けてくれなんて言ってねぇだろ。そもそも、妾一人にここまで、神経を使うモーリスの気持ちが理解できない。デボルト辺境伯には、妻子がいない。それはあいつ自身がなぶり殺したとか呪い殺したとか、そんな話しだ。今までだって、何人も女を弄んでいるのだろう。
 今更、新しい女を屋敷に迎えただけのはずなのに、なんだってんだ。

 ……そうだ。どうでもいい。俺には全く関係のない話だ。死刑執行日に勝手に好みの女だと勘違いされて、それに気が付かれて、この場所で殺されるか、牢獄に戻って兵士に殺されるか。
  二つに一つだ。

 なるようになればいい。

 ノックもせずに、装飾過多な扉を押し開いた。

 中に入れば明かりもつけずに、デボルト辺境伯……確かヴァレールと言ったか。一時だけだとしても、俺の主人となったヴァレールが、ソファで酒を煽っている。

 扉の開閉音にこちらに気がついたのか、視線だけで、俺の方を見る。

 窓が開け放たれていて、その向こうには月が見えた。一人で月見酒の真っ最中だったらしい。
 ベットがあるので寝室だろう、こんなプライベートな空間に殺人鬼を入れるとは不用心にも程がある。

 彼へ向けて足を進める。

 遠目で見た時よりも少し若い印象だ。貴族らしい鋭い目付きに口元だけは穏やかで、それでいて、威圧感がある。
 
俺をじっと凝視し、それから僅かな逡巡の後、そっとコップをローテーブルへと置く。

「え、あぁ、あれ。モーリスが待っていろと言うから、今日は酒でも交わすかと思っていたんだが……」
「は?そのモーリスが俺を連れてきて、上手くやれってこの部屋に入れたんだ」
「……彼は何処に」
「知るか」

 俺の言葉に、ヴァレールは一度視線を酒へと戻し、グラスの氷を指でつついた。カランと音を立てて、氷が沈む。
 
「まぁ、君が相手をしてくれるのは構わないが、飲めるかな」
「飲めと命じられりゃな」
「なら、飲め。シリル君」
「……」

 向かいのソファに腰掛けると、ヴァレールが自ら酒を作る。ロックでウィスキーをたっぷりと注ぎ、俺の前へと差し出した。
 
 俺の正式な所有権の証である指輪がこいつにわたっているなら、飲む以外に無いだろう。一瞬戸惑ったような雰囲気を感じたが、俺を所有している自覚はあるらしい。

 グラスを持ち上げ、舐めるように酒を飲む。痺れる様な味がして、鼻から抜ける強いアルコールの香りに目眩がした。

「……くくっ、すまない。無理はしなくていい」

 酒を楽しめない事が顔に出ていたようで、ヴァレールは窘めるようにそう言い頬を緩めた。
 その表情にカチンときて、グラスを傾け、酒を嚥下する。
 炎を飲んだように喉が熱い。一体これの何が美味いのか全く分からない。

「あまり酒を飲むと傷に触るよ。程々にしなさい」
「お前が飲めって言ったんだろ、イカレ野郎」

 酒が胃に入って、今日はまともな食事を取っていない事に気がつく。腹の底がギリっと痛んだ。それでも、意地で酒を流し込み、ヴァレールもそれ以上は何を言うことも無く、数分の沈黙が部屋を包む。

 先に口を開いたのはヴァレールだった。

「すまないね。どこまで聞いている?私がモーリスに勘違いをさせてしまったようだ」

 彼は何処か切なげに、視線をそらした後、徐に煙草に火をつける。
 月明かりのみの部屋で、淡い煙草の炎がぼうっと浮かび上がり、ヴァレールの顔を照らし出す。

「お前らのことなんざ知るか。とっとと檻ん中に戻すか、殺すかはっきりしろ。言っとくが俺は男だ、二度と見間違うなよ。ぶっ殺すぞ」
「……」

 俺の言葉にヴァレールは深く煙を吸い込んで、ため息のように吐き出す。
 この口調に機嫌を悪くするのでも無く、ただ表情の読めない顔で、見定めるように唇を舐めた。

「君の言う通りか……もちろん君には関係がない。ただ、私は勘違いをして居ないよ。君が男なのぐらいは見ればわかる」
「じゃあなんだ、お貴族様は男色もされんですか、ははっ、見境なしかよ」
「あぁ、良してくれ。喧嘩がしたいんじゃないんだ。ただね……」
「んだよ」
「ただ、広場で佇む君を見て、逃がしてやろうと思っただけなんだ」

 嘘か誠か、俺が見定められる程、この男は浅い人間じゃない。
 しかし確かに、モーリスが女だと勘違いしていただけで、妾にする目的などなく、俺を買取り、自由にする事だけを目的としていたと言うのなら、納得できないでもない。
 ただ、それだけならば、今、事情をすぐに説明でもして、この隷証を外せば事は済むはずだ。自己満足の偽善だけならば、それで事足りる。

「つまらねぇ嘘だな。女だったら一発やって捨てんのに丁度いいと思っただけだろ。取り繕うなよ、クズの癖して」
「……私は妻以外の女は抱かない主義でね」
「その妻も居ねぇんだろ。殺しちまったんだろ?」

 奴の表情が少し動いた。ほんの僅かに酒を持つ手に力が入ったのが伺える。

 いけ好かない善人ぶった野郎の皮が剥がれたら、こいつはどんな顔をしているんだろう。
 広場で気になった事をまたふと思い出した。

 酒瓶を取って、自分のグラスに継ぎ足す。

 きっと、さっきの言葉は正解じゃなかった。

ヴァレールは妻以外の女は抱かない主義ときた。この言葉は本当だ。この男は始めから俺を女だと思っていない。そして罪人を逃がすだけの自己満足でもない。つまり。

「シリル、大量殺人鬼の俺がちゃんと、男なら。ぶち犯してやろうって魂胆だったわけか!はっ、こりゃ傑作だな!」

声を大にして言い放てば、ヴァレールの威圧的な視線がさらに凄みを増す。笑みは消え、彼は煙草を押し潰して消す。

「……」
「んで、なんで俺なんだ。わざわざ、こんな処刑寸前の奴隷じゃなくても、男色だろうが、あんたの身分なら取っかえ引っ変えし放題だろ」
「……はぁ。品のない。……確かに、僅かな期待があった事は認めよう」

 俺の言葉にヴァレールは表情を引き攣らせ、それから頭を抱えた。
 図星をつけたようで、気持ちが多少スッキリとする。彼が次の煙草に火をつけたので俺も、続きの酒を口に入れる。

「君があのブレゾール商会を壊滅させたおかげで、こちらには多少利益があった事。これが主な理由だ。罪を背負って処刑されるのが哀れでね」
「………」

 主な?

「主じゃねえ方の理由も言えよ」
「惹かれたからさ。それ以外に無いだろう?」
「っ、あははっ!くだらねぇや。やっぱりイカレてんだな」

 惹かれたって、なんだそりゃ。至極くだらない。貴族の口説き文句なんて真に受ける方が馬鹿だ。

 酒のせいか頭の芯が痺れる。
 こんな身分まで転がり落ちた人生だ。何があるか分からないとは思っていたが、処刑寸前でこんなサプライズがあるとは思っていなかった。

 建設的な思考が酒に溶かされ、ついでに体も少しだるくなり、ソファに深く沈み込む。

 先の事については頭が回らない。ただ、今この男になら、俺の体をくれてやってもいいと思えた。
 善人だと信じるつもりはない。だが、奴隷証を外して貰わない限りは、ヴァレールを殺して逃げ出したとしても、外で生きる事は出来ない。

 俺を抱きたいのなら、それはそれで構わないような気がしてきた。一夜の関係で、彼が満たされ、ついでに俺も開放されるのかベスト。そうなったら、奴隷になる前と同じ生活ができる。決して、その生活が最良のものだったとは思えないが、マシだったと思う。
 
 ただ、所有権を握っていたいと思われたら。

 そこまで考えて、思考を打ち止める。その先をわざわざ考えるのは野暮に思えた。今、心地よく酔っていて、命の恩人に求められている。それだけでいい。

「いいぜ、好きにしてくれ。ゴシュジンサマ」



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