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第一章 なぜ私であるのか

こんなになるまでよく耐えられるな

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 言葉がジーナの耳に入った途端に声が先に発せられ、それから思考が回りだした。

 忌まわしいがその言葉を言え、とそれでよい、とそうしたら何もかもが終わるのだと。

 解放されお前は元のようになれるのだと、それと出会う前のお前に! だが絶叫する思考よりも先に声が出たことによってジーナは引き返せないところに来たと自覚した。

 言い切った後に見るヘイムの表情は嘲笑的なものをかろうじて維持しているがそこには陶酔に堪える厳粛さのような表情があった。

 無言のまま見つめて来るヘイムに対してジーナは誘われるように二の句を続ける。

「私に、言えるはずないでしょうが」

 怒りを込めて言ったというのに手から力が抜けていくのが自分で分かった。それどころかヘイムの手もそうであり、ただ触れ合っている状態の力による拘束がなくなったのにも関わらず、二人の手は離れようともしなかった。

「こう答えるのは頭の良いあなたならわかっていたでしょうね」

 何についての反発か分からないままジーナは吐き出そうとする。

「そこは関係ないぞ。馬鹿でも分かるわ」

「ならより分かっていたわけですね。それなのにわざわざ聞きたがるのは、卑怯ではないですか?」

 ヘイムに似た嘲笑的な笑みを浮かべようとするが、できずにすぐに消えた。そのヘイムの満ち足りた表情によって。

「言葉を慎め。卑怯とは侮辱罪に相当するぞ。だがそれよりもなぜ怒るのだ? そなたらしからぬ態度だな。情緒不安定となりそのような下らぬことを口走るとは、のぉ、何が嫌なのだ?」

 反射的にジーナが手を握るとヘイムも握り返し、同時に一歩前に出て懐に入り、見上げる。

「妾はヘイムはここにおるではないか? そうだろう?」

 そうだ、と言葉が出る先に右腕がヘイムを巻き込み中に抱き寄せる。抵抗はなくごく自然に引き寄せられたヘイムは無表情のままジーナの顔を見る。

「そうです。だが龍と一つになる。あなたは、龍となる」

「だが、今はまだ違うぞ」

 その言葉を聞くとジーナの胸になにか穴が開いたような気がし気が遠くなる。闇が眼前に現れ足元が抜ける感覚の中、死を感じた。

 発作的にジーナはヘイムにしがみ付くようにそのまま胸に押しつけるように抱きしめると、その空白が埋まるようにヘイムが完全におさまったような気がした。

 それが少しずつ深く中に収まっていき、まるで本当に穴が開きそこに収まっていくように、
一つになるようになっていく中でジーナは眼下にある白銀の髪を見ながら気づく、何故ヘイムは抵抗もなにもしないのか、と。

 思うと共に魔法が解けたようにジーナは腕を緩め一つであったものが二つになっていくようにヘイムは離れた。まるでいまのことはなかったかのようにさっきの無表情のままヘイムは言った。

「疲れたな。そろそろ座ろうか」

 条件反射のようにジーナは岩の上にいつものように敷布を乗せようとするが、手を離すことができずに片手で時間をかけながら敷布を広げていた。

 いつもなら、躊躇なく手を離し両手で行うというのに今日に限って、できなかったのは何故だろうかとジーナは努めて考えぬようにし、二人は若干不器用に広げられた敷布の上に座った。

 特に座ったからと言って話すということもなくヘイムは口を閉ざしたままであった。ジーナは時間が経つにつれてさっきの行為はなんだろうかと考え出した。

 あの時の胸の空洞感とは? そしてどうしてそれをヘイムを抱きしめることによって……答えなどでるわけもなく、思考で苦しんでいると、ふと手中にあるヘイムの手が気になった。そういえば、これをさっき

「あのヘイム様。痛くはありませんか?」

 ヘイムの右手を持ち上げ広げながらジーナは尋ねた。

「急に優しくなってどうした? さっきのお返しとかというのならいらんぞ」

 怪訝そうな顔をするヘイムを見てジーナは少し安心した。するとさっきのは幻ではなく確かにあったことであると。

「そういうことではないです。ただあんなに強く握りしめたからヘイム様の手が痛くなっているはずで」

 広げた手をつぶさに見ながらジーナはそう言うが、外から分かる傷も内出血もないのを確認するも安心せず、問う。

「痛みがあるはずですがどこですか」

「痛くはない」

 ぶっきらぼうに言い放つヘイムにジーナは怒りを覚える。

「そんなはずないです。あんなに強く握ったのだから」

「妾が痛くないというのなら痛くないのだ。そなたはそれを信じればいい。だいたいそなたに妾の心が分かるとでもいうのか? おこがましいわ」

「それは私があなたを痛めつけ傷つけたことに対する腹癒せのためにやせ我慢をしてそう返事をしているのでしょう」

「なんだと?」

 ヘイムは怒りの表情を向けて来るとジーナの心は何かが満たされた。それを望んでいたように。だがその心を察したのかヘイムは怒りの表情を解き苦笑いをしだした。

「よいよい無理をせんでよいぞ。そっちのほうが痛くてたまらないというのに、無理してそのように妾を心配して誤魔化そうとしなくても良いぞ」

 想像だにしない言葉を聞きジーナの身体が硬直し眼だけが動きヘイムを見るとこの様子を楽しげに眺めていた。

「私が? どうして」

 無理をして言葉を出すと掠れ声となりヘイムはその声でまた愉快そうな表情を浮かべる。

「私がどうして? と何とも哀れな声だな。その声が何よりの証拠だ。そなたは痛めつけられ傷つき苦しんでおる。妾によってな」

 問い詰められ息が苦しくなるもジーナはその理由が分からなかった。何故この人はこんなおかしなことを言うのか? さっきのような声を二度と出さぬようジーナは時間をかけ深く息を吸い上げる。その間もヘイムは何も言わずに待っていた。

 そうだこの人は言葉をいつも待っている。

「あなたの手によって私はそんな目に会ってはおりません」

「女ごときでは俺様は傷つけられないとでも言いたいのか? いいぞぉジーナ様、男様、その調子だ。妾は力を誇る態度は嫌いではないぞ。強いことは良いことだ。美しいことと同様にな。俺は男だから女を傷つけることができる、と思っているのであろうな。だから妾の言葉が気にくわない、違うか?」

 明らかな挑発にジーナは乗らずにその露悪的な表情となっているヘイムを正面から否定した。

「違います。あなたの言葉は全て間違えている」

「それはそなたが見て見ぬふりか、気づいておらぬだけだ。そこまで言い切るのなら、ほれ手を出せ、妾が見て教えてやる」

 差し出す前にジーナは自分の手をジッと見る。その兵隊の手を。節くれだち硬く大きな手。古傷の痕は多くあれど、新しい傷はどこにもなく、ましてや痛みなど少しも感じてはいなかった。これから傷でもつけるのか? とジーナはそれでもいいと思いながら、手をヘイムに差し出した。

 にやけ顔であったヘイムが手を取ると、急に表情が真剣なものとなり、手の甲を掌を凝視しながら調べ出した。

 雰囲気が変わったことにジーナは不安になりだした。私は自分の傷に本当に気づいていなかったのか? それともこれは演技であり私を驚かせるためのもので、と。

 調べる動きが止まりジーナはヘイムを見る。動かずにそのままうつむいた姿勢で以って、語りだした。

「酷い傷だ」

 だが傷はどこにも無かった。

「血だらけだ」

 しかし血はどこにも見えない。

「こんなになるまでよく耐えられるな」

 なにを言っているのかと思うと同時にジーナはヘイムが嘘をついているとも思えなかった。

 この人はこんな声で嘘はつかない。私は傷つき血を流しているのだろう。だが、どうしてそれを私自身が気づかない?

 いや、どうしてそれをこの人には見えるのだろうか?

 疑問の渦の中ヘイムが顔をあげると互いの右目と右目の視線が合った。そうだ嘘はついていない。この瞳で嘘はつけない、とジーナは確信と共にヘイムの言葉を聞く。

「なぜそこまで耐えるのだ? ほら今も、そうだ」

 ヘイムは手を離しジーネの胸に手をつける。優しく、痛みが無いように。

「さっきあれほど強く抱きしめたのもその痛みを和らげたかったためであろうに。妾を見て見ろ。血だらけだろう?」

 聞くと共にヘイムの右半身は朱に染まっていた。それは紛れもなく、私の血だとジーナには分かった。私のあの空白は傷であったのだと。

 しかし一瞬きをするとヘイムから朱色は去り、幻の如くにそれは消えていた。ジーナはヘイムの説明を理解した、だがそれでも

「傷付き血塗れだったことはいいでしょう。けれどヘイム様。私には傷による苦しみはありません」

 ヘイムは首を振る。だからジーナは声を張り上がる。

「傷付き血が流れようが痛みによる苦しみがなければそれは問題ありません。私は、私は」

 言葉を続けようとするとヘイムの右手が左頬に添えられる。

「そこまで言うのなら、いま、もっと痛みを教えてやる」

 憎悪に満ちた表情のヘイムの瞳が迫り目を合わせたまま唇が重ねられた。
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