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第3部 私達でなければならない

いくか、やめるか

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 女が顔を上げ、戸惑っている。シオンは尋ねた。

「いいえ、私が聞いたのはあなたの名ではなく、その子の名前。教えて」

「はっはい。シムといいます」

 また胸の奥でなにかが、鳴る。予想していたとはいえ、その名には聞き覚えがあった。

 それはきっとこの胸の空っぽさと関係がある名の響きなのだろう、とシオンはその名を呼んだ。

「シム、ですか。きっと女の子でしょうね」

「そうです、女の子です。よくお分かりで」

 このような会話の最中でもアルは姿勢を崩さずにいる。シオンは身体の向きを変えアルの正面に立ち、思う。

 そう、あなたは守らなければならない。いまの姿勢のように頑強に。だからあなたに、託す。

「アル君。あなたに命令を出します。あなたの責任で以ってシムを保護し守るように。この件は私だけが預かるものとします。ソグ僧院や上層部並びに龍身様とは無関係に、私のみが知り対応します」

 アルはいきなり立ち上がり、そのまま呆然とし動かない。驚きが感謝を勝り頭が動かないのだろう。

 シオンはそのアルの肩に手を乗せ、言った。

「龍の導きなのですよ、これは。だから安心しなさい」

 とはいうもののシオン自身もこれはなんだ? どうしたのだ? と自分で自分に疑問を抱きながらもそう言うとアルはしきりと頷いた。

「では、そういうことにしましょう。どうもお邪魔しました。どうかシムをよろしくお願いします。あっそうだ。あなたの方のお名前をよろしいでしょうか?」

 去り間際にシオンがそう言うと赤子の母親は緊張した面持ちで答えた。

「ルン、です」

 何も胸に響かない名であることを確認し満足したシオンは微笑んで答えた。

「ルンですか。ありがとう。どうか私を信用してください。では、また。アル君、ちょっといいかな」

 テントの外に出ると陽射しが眩しくシオンはよろめいた。

 あれ? さっきまで晴れていたっけ?記憶を辿ろうとするも後ろからアルが声を掛けてきたためにその思考は中断させられた。

「誠にありがとうございます。いくらなんでもこの件はシオン様の胸の内に秘められるものではないと思っていましたが、こうまでして頂けるだなんて、ありがとうございます。彼女は中央に行ってメイドとして雇われ成功したと思っていたら、あのようなことになってしまって。これでもしも裁きがあったとしたら救いようのないことで皆心配だったのです。いつかはバレてしまうその時はどうするかって」

「まさかこのようなことになるとは私も思ってはいませんでした」

 えっ! 声を出しアルが見上げてきた。本当にどうしてこうなったのか? いやそんなのは分かり切っている。

 自分が曖昧な言い方をしてアルが勘違いをして、世界を揺るがすような秘密を私に打ち明けてきたからだ。

 まぁ信じられないぐらいの秘密を秘めていたのだから、あんな言い方をされたら出すのはまずはそっちだよな、とシオンは自分が悪かったと反省する。

 そのおかげでこんな凄い話を手に入れたわけだが、どうするかはまるで分らない。

 山へ山菜を摘みに行ったら猪と遭遇してそれを仕留めてしまったような話であり、持ち帰るのに途方に暮れる感じで。

 この話は脇に置いておくことにして、本来の目的を思い出さなくてはならない。そう、山菜をかごに入れて帰らなくてはならない。

「アル君、単刀直入に誤解が生じぬようにはっきりと尋ねます。ジーナはどこに隠れていているの? あなたなら知っているでしょう?」

「はい」

 即座に答えたのでシオンは言葉を被せていった。

「隠しても無駄よ。あなたたち第二隊の隊員が彼を匿っていることは既に分かっているの。今回ここに来たのはそれが目的だったわけよ。悪いことを言わないから彼のところに案内しなさい」

「分かりました。案内いたします」

「案内したくない気持ちも分かるわ。尊敬する隊長であり長年の戦友を引き渡すことになるのだからね。でもアル君。彼はとても危険な立場にいるの。匿ったりしていることがバレたらあなたまで同罪となる可能性が高いわ。そうなることをジーナは望んでいるとは思えない」

「隊長なら向うの森のなかですね。この時間は、うーんと、もういると思いますから行きましょうか」

「あのねアル君。そうやって誤魔化したりしても為にならないわよ。今日は私一人で説得しに来たようなものだから捕まえに来たということじゃないの。ここでジーナにとって最善なのは私に捕らえられてバルツ将軍が身柄を引き取ることなの。決してソグ僧側に捕まったら駄目よ。だから協力して」

「勿論協力します。ですからどうか落ち着いてください」

 シオンは混乱しながら、黙った。なんで? なんで? なんで?

 必死になって反論口上を述べていたのに、まるでかすりもしないというか無意味って、なんで?

「あのね……少しは誤魔化したら隠したりしなさいよ。調子が狂うでしょうに。どうしてそんなに素直で協力的なの。おかしいでしょ。だってあなたの隊長であって戦友よ。多少の葛藤があってこっちが必死で説得して、わかりましたじゃあって感じで案内するという流れにしなきゃ困るじゃない。それなのにあなたは、ジーナはどこにいるの案内しなさい、と言われてすぐに分かりました案内します、とする人がいますか! 少しは人情のあるやり取りをするようにしなさい」

 自分でもよく分からない説教をしているとアルの顔が渋くなった。

 そらこんな変な説教をされている方も嫌だろうな、とシオンは共感し同情した。

 陽射しがどうしてこんなにつよいのか? シオンはうなじに陽の熱を感じながら思った。

「そう言われまして僕としましてもジーナ隊長からこう命じられていたのですよ。もしもシオンが一人で尋ねて来て会いたいと言ってきたら案内しろ、と」

 首筋が冷め、全身に汗が噴き出て来る感覚にシオンは襲われた。彼が、私を待っている?

「私は、彼を捕まえに来ているのですよ。お喋りをしにくるわけでもないのに」

「そうです。その時に僕も問い返しましたよ。それじゃあいままで潜伏してきた意味は何ですか、と。これに対してジーナ隊長はこう返されました。待っていたわけだ、いまが、その時なんだ、と」

 いま……とは? シオンは強い日差しの熱を感じながらも全身の悪寒は収まらず、空を見上げながら天に感謝をした。ありがとうございます。

 今は曇りでありましたら、あまりの寒さで身体が凍り付いたかもしれません、と。

「そしてシオン様がやってこられましたが、僕としましては先ほどの一族の件で頭がいっぱいでしたし、ジーナ隊長の予言じみた言葉も意味が分からなかったのであのような対応となってしまいました」

「それはそうでしょうね。あまりにも荒唐無稽ですもの。するとジーナの考えは、こうですか? 森の奥の焚火の痕を見て私は気づく、あれは擬装であると。だから捜査に自ら乗り出し隊員の一人のアル君を尾行し彼に居場所を聞く。すると彼は予てよりの計画通りに私を案内する……なんのために、ですか?」

「そこまでは僕は知りません。ですが、間違いなく龍についての対話ですよね。他の御方、例えばバルツ将軍やルーゲン師が訪ねられたら、と聞きましたが首を振られました。シオンでなくてはならない、シオンに会わなくてはならない、私達は会う必要がある、と。私達でなければならないのだと」

 龍の儀式の前に、とシオンは遠くから彼の声が聞こえた気がした。私達が話すのはただ一つのことであろう。

 龍について……だがいったい何を話すのだ? 私は聞くだろう、何故龍の儀式を邪魔しようとするのかと。

 それに彼が答えるとしたら……聞きたくない聞いてはならない! 絶叫が心の中で響くとまた冷たさが胸の奥から込み上げてきた。そうだ、私に告げるのだろう、私に打ち明けるのだろう、ジーナは自分がいま何をしているのかを、何が目的であるのかを、私にだけどうして伝えたいのかを。

 しかし、私は聞きたくはない、彼と龍の話をしたくはない、耳を塞ぎながら捕えてしまいたい、または口を塞がせ、舌を切り、眼で伝えようとするのなら目隠しをしても良いしくり貫いたって、良い。きっと彼は私を苦しめるようなことを告げるのだろう。

 それ以外に、ないのだ。いまだかつてジーナから龍についての話を聞いたことは、無い。

 その話題について彼は敢えて避けようとしているように龍の話をせず、こちらが振っても薄くしか反応をしなかった。

 それがここに来て話すとは? これはあくまで予感であるも、シオンは全身を支配する寒さでその予感は的中すると想像した。

「如何なさいますかシオン様? 行かれるのですか? それともおやめになりますか?」
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