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本当のわたしは
しおりを挟むくるしい、くるしい。
夢の中でひたすらそう思っていた。
残業、残業。お金、お金。予算が足りないと電話をかける。
人間関係がひどくて、弱音を吐けなくて。向かない仕事が両肩にずっしりとのしかかっている。
でも逃げられない。私がいなくなったら後が大変。私以上に大変な人はたくさんいるのに。
人を文句ばかり言っている私はなんて嫌な人間になったのか。
電話先の相手は怒っている。私の過失ではないが、だれかが間違ったことを伝えたのだ。謝罪したが、長々と説教が続く。
外で検査の手伝い。今日も百人超えた。来ないぞ。電話かけなくちゃ。……出ない。この人は来る来ると言いつつ来ないぞ、家は近いはずなのに。暑い。汗が出る。疲れた。今日は当番だから帰れるのはいつになるのかな。日曜も当番だから出てこないといけないな。
備品がない、公用車はパンク、あの職員がまたやらかしたから尻ぬぐい。
患者が出た、もう何人目?
いらいら、いらいら、腹立てて。どんどん悪い人間になる。
就職したころはこんなことになるとは思わなかった。〇〇〇が私の異動先まで変えてしまった。
違う、違う。私が。私が望んだ未来はこうじゃなくて、本当にやりたかったのは……。
汗びっしょりで目が覚めた。なんてリアルな悪夢なんだろう。
その日、課題のためにしばらく大学図書館の個室で籠って作業をしていたのだが、昼ごはんを食べるために研究室までやってきた。
廊下には見知った顔があった。
「お、田沼くん」
「お疲れ様です」
研究室前の掲示版にポスターを貼ろうと背伸びしていた後輩の田沼がこちらを向いて、恥ずかしそうに背伸びをやめた。
「あぁ、そのポスターは大きいもんね。脚立を持ってこようか」
「あはは……。届くと思っていたんですけどね」
田沼はぶつぶつ言いながら脚立を持ってきた。通りがかったついでなので、ポスターが斜めにならないように貼る位置を見る。
「そのぐらいでいいんじゃない? うん、きれいに貼れたね」
「ありがとうございます」
研究室の掲示板にはところせましとポスターが貼られている。学会の通知や博物館等の展示案内が多いのだが、なぜか「大きさは力だ!」と言わんばかりの大型ポスターがしばしば送られてくるのがちょっとした悩みの種だ。開催を終えた掲示物をどけて、残ったものをあれこれとずらして、新しく届いたものを貼らなければならない。田沼の持っていたポスターは特別大きかった。
いつも何の気なしに眺めている掲示板だが、何かめぼしいものはないかと眺めていると写真付きのポスターに目が吸い寄せられる。
「そっか。今年も源氏物語絵巻の公開があるんだね」
美術館の展覧会の案内を見つけた。絵巻というジャンルは少し特殊だ。テキストと絵のどちらもあるため、美術史でよく研究されている。
「神坂さんは美術史にも詳しいと聞きましたよ」
「それほどでもないよ。友達に美術史やっている子もいるけれど私なんて全然。学部時代に少し講義を受けて、学芸員の資格を取ったぐらい」
ただ絵を眺めるのは嫌いじゃないというか、きれいな色使いを見ていると、わくわくするのだ。
「研究室のみんなで美術館に行った時はいきいきと西洋美術の解説をしていたじゃないですか」
「ソノ話ハヤメテ」
名付けて「美術館どん引かれ事件」である。たまたま有志で行こうとなった展覧会が私好みの画家を目玉に据えていたために、下調べをがっつりやった挙句、実際に行ったらテンションマックス、先輩や同期、後輩相手にマシンガントークを繰り広げ、周囲をどん引きさせた事件である。
日本文学に特化した研究室の面々はさら~と、ふわ~と美術を楽しみたかったに違いないのに、馬鹿な私は大失態を侵し、以後は研究室の片隅で静かに慎ましく生息していこうと決意した。
「……学芸員になろうとは思わないんですか?」
「えぇ? あんなの、狭き門なんだよ。正規の雇用は少ないから就職浪人している人もいるぐらいだよ。少なくとも修士課程を出ないと難しいんだよね」
高校時代にちょっと憧れたけれど、現実を知るにつれて遠ざかっていった夢だ。現実は厳しいもの。私はそこまで優秀な生徒にはなれなかった。
「そういうものなんですか」
田沼は一緒にポスターを眺めながら言った。
「でも、神坂さんに向いていると思いますよ。もちろん、公務員も悪くないですし、そちらも向いている気はしますけど……」
田沼は、何の気なしにそう言った。他意はないはずだ。ただ……なんだろう。今、なにか、すごく、刺さった気がする。
なぜ。……なぜ?
急に息するのが辛くなった気がした。
何も間違ってないのだ。これまでの人生、今振り返ってみても与えられた選択肢の中でより良いと思ったものを選び取っている。
大きな後悔などする余地もない。けれど、今朝の悪夢がじわじわと染み込んできて、「私はもしや何か根本的に間違っていたのでは?」と背中に嫌な汗をかいている。
夢での私はおそらく数年後、就職した私。おそらく公務員になっている。しかし、自分のやりたかったこととかけ離れた仕事をし、疲弊しきっていた。後悔していた。夢は夢ではあるけれど、後悔の念だけは現実味を帯びて、起床しても残っていた。
そのことがずどんと胸に重くのしかかっていたところに、田沼の言葉である。
ああ、そうか。私は、公務員になりたくないんだ。
私にとって嫌な結論が出てしまった。田沼へは適当な相槌を打って、その場をあとにする。
どうしよう。これからどうしよう。
頭でぐるぐる思考がめぐってまとまらなくて、どこかでだれかに話したい気がするけれど、知り合いが通りかからない。
なぜか図書館まで来てしまった。
古典文学が並ぶ棚を何の目当てもなしに彷徨っていると、本の隙間の向こう側。通路に知った人がいた。
タイミングがよいのか、悪いのか。
あいかわらず鳥足くんはミステリアスボーイでしきりにこちらを戸惑わせてくる。
「こ、こんにちは」
相手も少し驚いた様子だった。
少し経って思い出した。
「かすがのの」。
私が和歌を呟き、鳥足くんが聞き咎めた、春の日の図書館。私と鳥足くんの初対面はまさにこの場所だったのだ。
「青谷くん」
話しかけてもなお迷っていた。私は、彼に何を話したいのだろう。何を求めているのだろう。何も期待するべきではないのはわかっているのに。
「少し……話を聞いてくれることって、できるかな」
勢いで口にした後、猛烈に後悔した。鳥足くんの顔を見られなかった。
「ん、いや、困るよね。うん、ごめんね。気にしないでね」
えっと、と小さな声が棚向こうの通路からした。
「聞きますよ」
鳥足くんは、たしかにそう言ったのだった。
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