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一片の真実
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『キッソン先生へ
ごきげんよう! 実はわたくし、とってもいいことがありました! 貸本屋でやっと『あの方』を見かけられたのです。あ、あの方というのはヤデック・シーレさまのことで、貸本屋というのは『ミューズ』のことです。
『ミューズ』。以前から名前は聞いたことがありましたが、さすが王国一の蔵書数を誇ると謳うだけあって、圧巻の品ぞろえでした。全方位に本がびっしりと! もしもほかにお客がいなかったらドレスの裾をからげて、喜びのあまり駆けまわっていたかも。
話が逸れてしまいましたね。肝心のシーレさまは『ミューズ』に通っていられるのだそうです。もちろんわたくしは一週間、毎日午後に出かけました。会員になる時、ちょっとした騒ぎになったのですが、こちらは割愛しましょう。先生にとって楽しい話ではないでしょうから。
ちょうど一週間後のことでした。わたくしが二階の昆虫学と動物学の本棚の間の狭い通路にいた時のことです。外は曇り空で、本の文字も読むには頼りないほどでした。そんなほかに人のいない一角にシーレさまがいらっしゃったのです。
もうそれだけで心臓がばくばくしてたまりませんでした! あの方は大きい体格なので、すれ違おうとすると腕や肩が密着しそうになるのです。身体から発散される熱や、コロンの香りを感じ取れました。もしも手と手が触れ合ってしまっていたら、どうにかなってしまったに違いありません!
でも先生。わたくしは先生の助言を忘れていませんでした。『失礼、レディ』と声をかけられても、すぐさま告白しませんでしたし、それどころかちゃんと淑女らしく視線を伏せたのですよ。どきどきのあまり耐えられなかったということでもありますが、それでもこれは大きな収穫です。顔が不自然に赤らんだところを見られたかもしれませんが、小さく会釈するだけで済ませました。すごいでしょう。
その甲斐があったのでしょうか、シーレさまはわたくしを見て、微笑んでくださったのです! それからすぐに何か大きな本を取り出されてその場を立ち去りましたが、これは大きな進歩ですよ!
何はともあれ、大事なのはこれから。先生、今後ともよろしくお願いしますね!
セフィーヌ・フラゴニア
追伸、薔薇の飴細工とても素敵でした!』
よし、書けた!
セフィーヌはささやかな達成感とともに書き上げた手紙を封筒に入れ、封蝋を施す。キヤにポストに投函してもらうように頼む。それから飴細工の箱を手元に引き寄せて、飴の薔薇を取り出した。
――もうそろそろ食べないと。
ぱきん、と小さく茎を折る。つまんで口の中に入れると幸福の味が広がった。口元を押さえておいしい、と呟く。
茎の次は、葉っぱ。そしてがく。花びらも一枚一枚折り取った。
まるっと一本お腹に収まったところで、キヤが彼女を呼びに来る。
「お嬢様。ベトヴェンさんがいらっしゃいましたよ」
「ええ、いくわ」
立ち上がったところでふと思う――キッソン先生に何かお礼を考えるべきかしら。
※
月に一度やってくるオーマー出版社のベトヴェン氏は『ケイン・ルージュ』の担当編集者。金の頬髯を生やした既婚の三十五歳である。
あー、美味い。
応接室に通されたベトヴェン氏はいつも出されるレモネードをぐびぐびと一気飲み。空になったグラスをテーブルに戻してから、新作の構想はいかがですか、と両膝を打つ。
「実はですね、『赤薔薇の誘惑』が思いのほか売れていまして。ほら、読者からの手紙も持ってきました、これはほんの一部ですが。この勢いのままにがーんともう一つ新作を一発ぶっ放せば、『ケイン・ルージュ』の名はグロットリを越えて世界に羽ばたくことも夢ではありませんよ!」
ベトヴェン氏が皮のカバンから手紙の束を取り出した。受け取ったセフィーヌは紐の結び目を解き、すでに編集部で内容を改められた便箋を一通ずつ確かめる。
『ジュリエッタとヴィンセントの関係がじれったくてじれったくて、ついつい夜を徹して読んでしまいました』
『読んでいるうちにまるで私自身がジュリエッタになったようでした。大変面白い本でした』
『不覚にも最後の一文に泣かされました。二人を結ぶ運命の糸はつかず離れずのようでいて、やっと最後に結ばれて……。ああもう、自分の言葉で語ってしまうととても陳腐ですね。とにかく私はあなたのファンです』
「世界に羽ばたくとかおおげさなことは求めていないけれど。なんて言ったらいいのかしら。……こういう手紙って、心の奥の方まで届く気がするの。真心って伝わるものなのね」
開いた手紙はもう一度綺麗に折り畳んでそれぞれに封筒に入れ直し、大事そうに膝の上に載せた。
「今回は鉄道文庫という形態も用意したのが功を奏したのですよ。粗悪な紙ですが、持ち運びしやすい大きさに収まっているでしょう。旅行用のトランクに入れたり、列車の中での暇つぶしにはもってこい。つまりは私の作戦がズバリ当たったということですな! 『ケイン・ルージュ』の作品はいままで『貸本屋』で扱っているところも少なかったですが、これで風向きも変わることでしょうね」
そんなわけで新作を、と編集者はがんがんとセフィーヌに次回作を書けとせっついてくる。しかし押しが強いのはいつものこと、セフィーヌも慣れている。さらっと編集者の自画自賛を聞き流す。
「ねえベトヴェンさん。ところでわたくし、今『ミューズ』に通っているけれど、訳あってのことだから決して『オーマー』を利用しないということはないの。どこかからお話を聞いているかもしれないけれど」
「なんですと!」
ベトヴェン氏は大げさに驚いてみせ。次の瞬間には眉根を下げる。
「『お嬢様』。気づいておられないかもしれませんが……お嬢様は御自分で思っているよりも私たちの業界では有名人ですよ。そんなこと、とっくに噂が流れています」
「……そうなの?」
彼はくっ、と呻いて彼女から顔を逸らし、ひじかけにおいた拳をぶるぶると震わせた。
「【『ケイン・ルージュ』、天敵の『ミューズ』の会員に!?】。もしもわが社の雑誌の記事にするならそんな見出しがつくこと請け合いです。社交界の女性たちに絶大な人気を誇るにも関わらず、品位に欠けるという理由で一度も『ミューズ・セレクト・ブック』に選ばれなかった令嬢小説家『ケイン・ルージュ』ですよ? 普通、自分の本を絶対に置かないとわかっている貸本屋に出入りしたがる小説家がいますか」
いいじゃないですか、これまでのように『オーマー』を利用すれば。あぁ、と頭を抱え始めたベトヴェン氏。彼は以前、役者の道を志したことがあったという。
なお、『オーマー』というのは『ケイン・ルージュ』の著作を出版している『オーマー出版社』が母体となって経営している『貸本屋』だ。国内最大大手の『ミューズ』と比べれば他国から進出してきた『オーマー』はまだまだ新参者だが、他国出身という強みを生かし、外国書籍、珍書や奇書、貴書などを多数取り扱うことで独自の地位を築いていた。
「だって、好きになってしまったのだもの。だから『ミューズ』に行きたかったの、どうしても」
「はあ。あの、ちょっとおっしゃっている意味が」
「顔をしかめないで。……あのね、『ミューズ』に行けば『シーレさま』に会えるのよ」
かくかくしかじか。
隠しておく必要もないので全部話した。
ベトヴェン氏は夢から醒めた表情になった。
「それで創作意欲がわくというのなら全力で応援しますが。……もうあんな突発的告白はやめた方がいいですよ。心臓が持ちません、潰れます」
ベトヴェン氏が言った「あんな突発的な告白」とは、セフィーヌが彼との初対面時にやらかした告白事件のことを言う。
端的に流れを言うとこうなる――。
ベトヴェン氏、セフィーヌの作品を読み、ぜひうちで出版したいと打診する。
セフィーヌ、その熱心な『口説き文句』に、わたくしの生涯の理解者はきっとこの人だわ! とあっさり惚れる。
好きです、と話の途中でゲリラ告白。
氏は、口をあんぐり開けて、反射的に断る。理由は単純、彼は既婚者だったから。なので彼女もあっさりと引き下がり、以後は普通に作家と編集者の関係である。本当に何のわだかまりもなく。
「そんなこともあったわねー」
当の本人がこの調子だ。
「ベトヴェンさんは『688回目』。今はもう千回目。思えば遠くに来たものよねー。運命の人に出会うまでの道のりって長いわね」
「それは先生が人の話を聞かないからでしょう」
微笑みを浮かべたセフィーヌがふと真顔になってベトヴェン氏を凝視する。何かが心の柔らかい部分に刺さった、そんな感覚を覚えたのだ。
ベトヴェン氏は無心に自分の頬髯を撫でている。
「まあ、私がどうにかできる権利もありませんがね、先生の鉄壁の心に踏み込めるような男性が現れることは祈っていますよ」
なにはともあれ、新作の構想、早く出してくださいね。
実はうちの雑誌で連載の枠が取れまして。
中産階級以上の女性向けの雑誌です。『家庭女性のすすめ』です、先生も購読されていましたよね、流行の服の仕立ての仕方とか、読者のお悩み相談のコーナーもあるやつ。いや、そんなに気負うこともありませんから。やってみましょうよ。
ベトヴェン氏が帰った時。
応接室に入ってきたキヤに向かってふくれっ面を作ってみせた。
「あの調子だとベトヴェンさんはしばらくわたくしに『連載小説』を書けとせっついてくるわ。もう頭はそのことでいっぱいみたいだった」
ベトヴェン氏が飲み干したカップと、空の皿を片付けていた侍女は一瞬だけ身じろぎしたが、それから何の動揺を見せなかった。
「まあ。『連載小説』、ですか? お嬢様が? どちらの雑誌に?」
「『家庭女性のすすめ』ですって。お母さまがよく読んでいるやつよ」
「ああ、あの……。本屋や貸本屋で見ますね。お断りして正解でしょう。『連載小説』は生活に余裕のない職業作家がするものです。『家庭女性のすすめ』が低俗な雑誌とまでは言いませんが、淑女たるお嬢様がなさることではありません」
模範となるべきさまざまな淑女の立ち姿を毎号の表紙にしている『家庭女性のすすめ』は中産階級より上の、幅広い年代の女性中心に読まれている情報雑誌。『オーマー出版社』が月刊で発行していた。セフィーヌ自身も購読している。
「キヤはわたくしが連載するのには反対ってことね」
「普通は反対しますよ。お嬢様が本を出版したことも王太子妃殿下のお口添えがなかったら、旦那様だって早々お許しにはならなかったはずです」
そんなことをおっしゃるとはまさか。
キヤはそんなことを呟いてお嬢様の顔をのぞき込む。テーブル越しに目と目が合って、お嬢様はにこりと笑う。
「ん、なあに?」
「お嬢様は『連載小説』をやりたいのですか」
「考えないわ」
変な答え方だと、世話係は思った。
「やりたい」「やりたくない」ではなく「考えない」。
キヤのお嬢様は大概おかしなところがあるが、基本開けっぴろげに感情を表に出しがちだ。外に出れば取り繕うが、邸では素直だとか単純だとか、そんなふうに思われる。
しかしわかっているふうでいて、たまにつかみ損ねたウナギのようにするりと逃げる。わたくしはこういう人間ではないのよ、とばかりにキヤの予想の上を行く。
「お嬢様、もっとわかりやすくいってください。私はお嬢様の気持ちを聞いているのですよ」
セフィーヌは困ったように眉根を下げた。
「気持ちはちゃんと言っているつもりよ? だって今、何にも話が思いつかないから、考えたって仕方がないもの」
今度は「話が思いつかないから」と来た。
――話が思いつかないから?
なぜか目が醒めた気になる。
ここ数年、お嬢様のもっとも傍にいたキヤは『ケイン・ルージュ』の執筆生活を一番把握していた。
毎日毎日、ペンを握って原稿用紙に向かっていたお嬢様。
朝に寝室の扉を叩いた時には、すでに傍の書き物机に座っていたお嬢様。
ペンだこができちゃったわ、と硬く膨れた中指を自慢げに見せてきたお嬢様。
ネグリジェ姿で振り向いて、「おはよう」と告げるまでが今までの朝の習慣だった。一日だって欠かしたことがなかった。
けれど今はぱたりと止んだ。
いつから。
それはごく最近のこと。『赤薔薇の誘惑』が出版されたぐらいか。
ある時、朝ベッドの上でぼんやりと起き上がっているお嬢様を見付けた。
珍しいですね、と何気なく言えば、お嬢様は――。
『なんというか、そういう気分なのよ』
それっきりで気に掛けることもなかった。多少気分屋なところがあるのがセフィーヌお嬢様だから。
しかし確かにあの時から執筆の習慣は途切れ、お嬢様が書き物机に座ったのを見たのはキッソン侯爵との手紙のやり取りぐらいのものだ。
「お嬢様は今――小説を書けなくなっているのですか」
キヤが確認のために上げた声は、そういうふうに言わないで、という台詞で返された。
ふいにかちゃり、とキヤの持っていたカップとソーサーが触れ合った音が妙に大きく響いた。
ごきげんよう! 実はわたくし、とってもいいことがありました! 貸本屋でやっと『あの方』を見かけられたのです。あ、あの方というのはヤデック・シーレさまのことで、貸本屋というのは『ミューズ』のことです。
『ミューズ』。以前から名前は聞いたことがありましたが、さすが王国一の蔵書数を誇ると謳うだけあって、圧巻の品ぞろえでした。全方位に本がびっしりと! もしもほかにお客がいなかったらドレスの裾をからげて、喜びのあまり駆けまわっていたかも。
話が逸れてしまいましたね。肝心のシーレさまは『ミューズ』に通っていられるのだそうです。もちろんわたくしは一週間、毎日午後に出かけました。会員になる時、ちょっとした騒ぎになったのですが、こちらは割愛しましょう。先生にとって楽しい話ではないでしょうから。
ちょうど一週間後のことでした。わたくしが二階の昆虫学と動物学の本棚の間の狭い通路にいた時のことです。外は曇り空で、本の文字も読むには頼りないほどでした。そんなほかに人のいない一角にシーレさまがいらっしゃったのです。
もうそれだけで心臓がばくばくしてたまりませんでした! あの方は大きい体格なので、すれ違おうとすると腕や肩が密着しそうになるのです。身体から発散される熱や、コロンの香りを感じ取れました。もしも手と手が触れ合ってしまっていたら、どうにかなってしまったに違いありません!
でも先生。わたくしは先生の助言を忘れていませんでした。『失礼、レディ』と声をかけられても、すぐさま告白しませんでしたし、それどころかちゃんと淑女らしく視線を伏せたのですよ。どきどきのあまり耐えられなかったということでもありますが、それでもこれは大きな収穫です。顔が不自然に赤らんだところを見られたかもしれませんが、小さく会釈するだけで済ませました。すごいでしょう。
その甲斐があったのでしょうか、シーレさまはわたくしを見て、微笑んでくださったのです! それからすぐに何か大きな本を取り出されてその場を立ち去りましたが、これは大きな進歩ですよ!
何はともあれ、大事なのはこれから。先生、今後ともよろしくお願いしますね!
セフィーヌ・フラゴニア
追伸、薔薇の飴細工とても素敵でした!』
よし、書けた!
セフィーヌはささやかな達成感とともに書き上げた手紙を封筒に入れ、封蝋を施す。キヤにポストに投函してもらうように頼む。それから飴細工の箱を手元に引き寄せて、飴の薔薇を取り出した。
――もうそろそろ食べないと。
ぱきん、と小さく茎を折る。つまんで口の中に入れると幸福の味が広がった。口元を押さえておいしい、と呟く。
茎の次は、葉っぱ。そしてがく。花びらも一枚一枚折り取った。
まるっと一本お腹に収まったところで、キヤが彼女を呼びに来る。
「お嬢様。ベトヴェンさんがいらっしゃいましたよ」
「ええ、いくわ」
立ち上がったところでふと思う――キッソン先生に何かお礼を考えるべきかしら。
※
月に一度やってくるオーマー出版社のベトヴェン氏は『ケイン・ルージュ』の担当編集者。金の頬髯を生やした既婚の三十五歳である。
あー、美味い。
応接室に通されたベトヴェン氏はいつも出されるレモネードをぐびぐびと一気飲み。空になったグラスをテーブルに戻してから、新作の構想はいかがですか、と両膝を打つ。
「実はですね、『赤薔薇の誘惑』が思いのほか売れていまして。ほら、読者からの手紙も持ってきました、これはほんの一部ですが。この勢いのままにがーんともう一つ新作を一発ぶっ放せば、『ケイン・ルージュ』の名はグロットリを越えて世界に羽ばたくことも夢ではありませんよ!」
ベトヴェン氏が皮のカバンから手紙の束を取り出した。受け取ったセフィーヌは紐の結び目を解き、すでに編集部で内容を改められた便箋を一通ずつ確かめる。
『ジュリエッタとヴィンセントの関係がじれったくてじれったくて、ついつい夜を徹して読んでしまいました』
『読んでいるうちにまるで私自身がジュリエッタになったようでした。大変面白い本でした』
『不覚にも最後の一文に泣かされました。二人を結ぶ運命の糸はつかず離れずのようでいて、やっと最後に結ばれて……。ああもう、自分の言葉で語ってしまうととても陳腐ですね。とにかく私はあなたのファンです』
「世界に羽ばたくとかおおげさなことは求めていないけれど。なんて言ったらいいのかしら。……こういう手紙って、心の奥の方まで届く気がするの。真心って伝わるものなのね」
開いた手紙はもう一度綺麗に折り畳んでそれぞれに封筒に入れ直し、大事そうに膝の上に載せた。
「今回は鉄道文庫という形態も用意したのが功を奏したのですよ。粗悪な紙ですが、持ち運びしやすい大きさに収まっているでしょう。旅行用のトランクに入れたり、列車の中での暇つぶしにはもってこい。つまりは私の作戦がズバリ当たったということですな! 『ケイン・ルージュ』の作品はいままで『貸本屋』で扱っているところも少なかったですが、これで風向きも変わることでしょうね」
そんなわけで新作を、と編集者はがんがんとセフィーヌに次回作を書けとせっついてくる。しかし押しが強いのはいつものこと、セフィーヌも慣れている。さらっと編集者の自画自賛を聞き流す。
「ねえベトヴェンさん。ところでわたくし、今『ミューズ』に通っているけれど、訳あってのことだから決して『オーマー』を利用しないということはないの。どこかからお話を聞いているかもしれないけれど」
「なんですと!」
ベトヴェン氏は大げさに驚いてみせ。次の瞬間には眉根を下げる。
「『お嬢様』。気づいておられないかもしれませんが……お嬢様は御自分で思っているよりも私たちの業界では有名人ですよ。そんなこと、とっくに噂が流れています」
「……そうなの?」
彼はくっ、と呻いて彼女から顔を逸らし、ひじかけにおいた拳をぶるぶると震わせた。
「【『ケイン・ルージュ』、天敵の『ミューズ』の会員に!?】。もしもわが社の雑誌の記事にするならそんな見出しがつくこと請け合いです。社交界の女性たちに絶大な人気を誇るにも関わらず、品位に欠けるという理由で一度も『ミューズ・セレクト・ブック』に選ばれなかった令嬢小説家『ケイン・ルージュ』ですよ? 普通、自分の本を絶対に置かないとわかっている貸本屋に出入りしたがる小説家がいますか」
いいじゃないですか、これまでのように『オーマー』を利用すれば。あぁ、と頭を抱え始めたベトヴェン氏。彼は以前、役者の道を志したことがあったという。
なお、『オーマー』というのは『ケイン・ルージュ』の著作を出版している『オーマー出版社』が母体となって経営している『貸本屋』だ。国内最大大手の『ミューズ』と比べれば他国から進出してきた『オーマー』はまだまだ新参者だが、他国出身という強みを生かし、外国書籍、珍書や奇書、貴書などを多数取り扱うことで独自の地位を築いていた。
「だって、好きになってしまったのだもの。だから『ミューズ』に行きたかったの、どうしても」
「はあ。あの、ちょっとおっしゃっている意味が」
「顔をしかめないで。……あのね、『ミューズ』に行けば『シーレさま』に会えるのよ」
かくかくしかじか。
隠しておく必要もないので全部話した。
ベトヴェン氏は夢から醒めた表情になった。
「それで創作意欲がわくというのなら全力で応援しますが。……もうあんな突発的告白はやめた方がいいですよ。心臓が持ちません、潰れます」
ベトヴェン氏が言った「あんな突発的な告白」とは、セフィーヌが彼との初対面時にやらかした告白事件のことを言う。
端的に流れを言うとこうなる――。
ベトヴェン氏、セフィーヌの作品を読み、ぜひうちで出版したいと打診する。
セフィーヌ、その熱心な『口説き文句』に、わたくしの生涯の理解者はきっとこの人だわ! とあっさり惚れる。
好きです、と話の途中でゲリラ告白。
氏は、口をあんぐり開けて、反射的に断る。理由は単純、彼は既婚者だったから。なので彼女もあっさりと引き下がり、以後は普通に作家と編集者の関係である。本当に何のわだかまりもなく。
「そんなこともあったわねー」
当の本人がこの調子だ。
「ベトヴェンさんは『688回目』。今はもう千回目。思えば遠くに来たものよねー。運命の人に出会うまでの道のりって長いわね」
「それは先生が人の話を聞かないからでしょう」
微笑みを浮かべたセフィーヌがふと真顔になってベトヴェン氏を凝視する。何かが心の柔らかい部分に刺さった、そんな感覚を覚えたのだ。
ベトヴェン氏は無心に自分の頬髯を撫でている。
「まあ、私がどうにかできる権利もありませんがね、先生の鉄壁の心に踏み込めるような男性が現れることは祈っていますよ」
なにはともあれ、新作の構想、早く出してくださいね。
実はうちの雑誌で連載の枠が取れまして。
中産階級以上の女性向けの雑誌です。『家庭女性のすすめ』です、先生も購読されていましたよね、流行の服の仕立ての仕方とか、読者のお悩み相談のコーナーもあるやつ。いや、そんなに気負うこともありませんから。やってみましょうよ。
ベトヴェン氏が帰った時。
応接室に入ってきたキヤに向かってふくれっ面を作ってみせた。
「あの調子だとベトヴェンさんはしばらくわたくしに『連載小説』を書けとせっついてくるわ。もう頭はそのことでいっぱいみたいだった」
ベトヴェン氏が飲み干したカップと、空の皿を片付けていた侍女は一瞬だけ身じろぎしたが、それから何の動揺を見せなかった。
「まあ。『連載小説』、ですか? お嬢様が? どちらの雑誌に?」
「『家庭女性のすすめ』ですって。お母さまがよく読んでいるやつよ」
「ああ、あの……。本屋や貸本屋で見ますね。お断りして正解でしょう。『連載小説』は生活に余裕のない職業作家がするものです。『家庭女性のすすめ』が低俗な雑誌とまでは言いませんが、淑女たるお嬢様がなさることではありません」
模範となるべきさまざまな淑女の立ち姿を毎号の表紙にしている『家庭女性のすすめ』は中産階級より上の、幅広い年代の女性中心に読まれている情報雑誌。『オーマー出版社』が月刊で発行していた。セフィーヌ自身も購読している。
「キヤはわたくしが連載するのには反対ってことね」
「普通は反対しますよ。お嬢様が本を出版したことも王太子妃殿下のお口添えがなかったら、旦那様だって早々お許しにはならなかったはずです」
そんなことをおっしゃるとはまさか。
キヤはそんなことを呟いてお嬢様の顔をのぞき込む。テーブル越しに目と目が合って、お嬢様はにこりと笑う。
「ん、なあに?」
「お嬢様は『連載小説』をやりたいのですか」
「考えないわ」
変な答え方だと、世話係は思った。
「やりたい」「やりたくない」ではなく「考えない」。
キヤのお嬢様は大概おかしなところがあるが、基本開けっぴろげに感情を表に出しがちだ。外に出れば取り繕うが、邸では素直だとか単純だとか、そんなふうに思われる。
しかしわかっているふうでいて、たまにつかみ損ねたウナギのようにするりと逃げる。わたくしはこういう人間ではないのよ、とばかりにキヤの予想の上を行く。
「お嬢様、もっとわかりやすくいってください。私はお嬢様の気持ちを聞いているのですよ」
セフィーヌは困ったように眉根を下げた。
「気持ちはちゃんと言っているつもりよ? だって今、何にも話が思いつかないから、考えたって仕方がないもの」
今度は「話が思いつかないから」と来た。
――話が思いつかないから?
なぜか目が醒めた気になる。
ここ数年、お嬢様のもっとも傍にいたキヤは『ケイン・ルージュ』の執筆生活を一番把握していた。
毎日毎日、ペンを握って原稿用紙に向かっていたお嬢様。
朝に寝室の扉を叩いた時には、すでに傍の書き物机に座っていたお嬢様。
ペンだこができちゃったわ、と硬く膨れた中指を自慢げに見せてきたお嬢様。
ネグリジェ姿で振り向いて、「おはよう」と告げるまでが今までの朝の習慣だった。一日だって欠かしたことがなかった。
けれど今はぱたりと止んだ。
いつから。
それはごく最近のこと。『赤薔薇の誘惑』が出版されたぐらいか。
ある時、朝ベッドの上でぼんやりと起き上がっているお嬢様を見付けた。
珍しいですね、と何気なく言えば、お嬢様は――。
『なんというか、そういう気分なのよ』
それっきりで気に掛けることもなかった。多少気分屋なところがあるのがセフィーヌお嬢様だから。
しかし確かにあの時から執筆の習慣は途切れ、お嬢様が書き物机に座ったのを見たのはキッソン侯爵との手紙のやり取りぐらいのものだ。
「お嬢様は今――小説を書けなくなっているのですか」
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