惚れっぽい恋愛小説家令嬢は百戦錬磨の青年貴族に口説かれる→気づかない

川上桃園

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雨の日に

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 数日後。セフィーヌはマゴット夫人の招待で芝居の打ち合わせが行われるという会合へ。

 春の陽気に似合わぬ重苦しい雲。空が大泣きしている。会場となった昼間の社交場のエントランスにはすでに赤々とガス灯が点もされていた。

 貸馬車の御者が箱型馬車の扉を開く。モスグリーンの訪問着を着たセフィーヌは馬車の停車位置からエントランスまでの数秒、雨に濡れてしまうのが嫌で降りるのを躊躇った。邸内でとか、自転車に乗る時は迷わず水たまりにだって飛び込むのだが、今日に限ってお気に入りの一着だったのだ。

「お嬢様。私が先に行って傘を借りてきますから!」

 全身が濡れ鼠のような御者が親切にそう申し出てくるものだから、セフィーヌもうっかりときめいてしまった。

――……危ない危ない。わたくしにはシーレさまがいるというのに!

「いいえ、大丈夫よ。お気遣いありがとう」

 セフィーヌは覚悟を決めた。えいや、と裾を持ち、勢いをつけて地面に立つ。半分駆け足のまま、屋根のせり出したエントランスに飛び込んだ。

 セフィーヌはそこに誰もいないと思って、「ふう」とため息を吐きながら、その場で湿った髪と服についた水滴を払い落とす。

 そこへ人が出てきた。セフィーヌを見て、おや、と声を上げる。彼女は慌てて居住まいを正した。シーレ氏である。

「こんにちは。傘はお持ちにならなかったのですか?」

「まだ降らないだろうと思って油断してしまったのです」

「では帰りは私の傘をお貸ししましょう」

 彼女は嬉しいですけれど、と前置きをしてから、

「そうするとシーレさまの方が濡れてしまいますから」

「これでも身体は頑丈です。見た目通りでしょう?」

 シーレ氏はせりだしたお腹を一つ叩いて笑ってみせた。彼は自分の体型を恥じることなく、前向きに捉えていた。そういうところもセフィーヌの素敵ポイントに引っかかる。

――ああ、もう! 好きって言ってしまいたいっ。シーレさまはどんな顔をなさるのかしら、わたくしのことを一番好きだと返してくれるかしら。

 自分だけに向けられる甘い声を想像し、セフィーヌはやる気になる。

 キッソン先生のアドバイスは……恋い焦がれる本人を前にするには効力が長続きしなかったようである。哀れ。

「あ、あの、シーレさま」

「はい」

「わたくし、シーレさまが……」

「おや、キッソン侯爵」

「ええ、そうでした。キッソン侯爵………え?」

 振り返ったセフィーヌの前に差し出されたのは白いハンカチだった。しかし驚いたのはそれだけでなく、セフィーヌ本人よりも濡れていたことにある。コートも帽子も変色し、髪から雫が滴っていた。コートをまとった肩が上下している。

「こんにちは。セフィーヌ嬢。お互いに濡れてしまったようですね」

「先生の方が濡れているではありませんか!」

 相手は気さくな調子だが、慌てたセフィーヌは差し出されたハンカチを突き返し、自分のハンカチを彼に押し付けた。

「これで髪を拭いてくださいね。あ、コートもここで脱いでしまいましょう!」

 セフィーヌはキッソン侯爵の後ろに回った。背中から茶色いコートを引っぺがす。

「ならばコートは私が先にクロークの方に預けておきます」

「申し訳ない。感謝します」

「いえ。先についているマゴット伯爵夫人には事情を説明しておきますから、あとでゆっくり来てください。セフィーヌ嬢はどうされますか?」

「え、わたくしは……」

 どうしようか。セフィーヌは迷った。
 でも、シーレ氏の見えないところで濡れた冷たい指がセフィーヌの袖をとらえた。

「わたくしももう少ししたら戻ることにします」

「そうですか。わかりました」

 シーレ氏の足音がエントランスの扉向こうに消えていく。
 雨音が激しく地面を叩きつける中、セフィーヌはキッソン侯爵がセフィーヌのハンカチで髪先の雫を拭うのを眺めていた。

 やがて一通り終えた侯爵がふっと笑い、人差し指を口元に当てた。

「見惚れていましたね。穴が開きそうなほど」

 セフィーヌはにこりと笑った。

「だって先生は何をしても様になりますもの。濡れていても素敵です」

「あなたも濡れていると少し色っぽい。ほかの男に見せていると癪に障りますが」

 まあ、とセフィーヌは目に見えて喜んだ。褒められると嬉しい。案外単純なものである。

「ありがとうございます。先生にそういっていただけると自信になります。……ところで先生はわたくしに何か御用ですか?」

「え、いやまあ……そうですね」

 侯爵は自分の手を見下ろしていた。手袋も濡れたのでこちらもすでに外してしまって、ただの素手となっている。
 
 ごつごつとして、硬い手。タコや血マメの潰れた痕がいくつも残っている無骨な手だ。剣や銃、ペンばかり握っていた時期があるとこうなってしまった。

 この手がセフィーヌの手を掴んだわけだが、その時、「セフィーヌを口説き落とす」という打算を働かせていたわけではない。ただあったから掴んだとしか言いようがなかった。それはジドレルにとっておかしなことだった。これまでの人生において、自分の身体が自分の意志に反して動こうとはしなかったはずだ。

 身体と言葉はいくらでも熱くなろうとも。
 心は醒めたままだったというのに。

「先生、その手がどうかしましたか?」

 セフィーヌが自分の手を興味深そうに目で追おうとするが、ジドレルはさりげなく後ろ手を組むことで逃れた。そうです、と声を上げる。

「夫人からお聞きしました。今回の芝居はご自分がパトロンとして支援なさっている若い脚本家が原作から脚本を書き上げられるとか」

「なるほど、そうなのですね。楽しみです」

 知らなかった内容だったためにセフィーヌは喜んだ。

「あなたは原作者でいいとして、私は……きっと役者に割り当てられるでしょうが、どんな役になるでしょうか。これも楽しみですね。……どうせなら、主役の『ヴィンセント』にでもなって、あなたに誘惑されてみたい」

 ジドレルの言葉にセフィーヌは「……え」と動揺した。戸惑いつつも、気まずげに視線を漂わせる。初めてみる表情であった。素の顔を拝めるという点では二回目か。

 セフィーヌは考え込み。そして。

「先生に『ヴィンセント』はお似合いです。彼もとても魅力的な人だから……」

 そこまで話したところで口を閉ざしてしまい、すぐに「先に会場に入っていますね」と先に扉向こうに行ってしまった。

――つれない女だ。

 彼が何のために雨の中を走ったと思っているのか。エントランス前で先行していた馬車からセフィーヌが出てきて、シーレ氏と会ったところまで全部、見ていたからだ。

 だから「間違い」があってはいけないと後続の馬車から飛び降り、ずぶぬれになってまで彼女を「助けに来た」のに。

 彼はセフィーヌから借りたハンカチをポケットにしまい込み、建物内部へ足を踏み入れた。


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