薔薇の聖女と白蓮の冥界王~聖女が幼女となってしまった日の顛末について~

川上桃園

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第1話

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 大陸に聖女はひとり。魂はひとつ。百年を生きて、死に、また大陸のどこかで百年の生を受ける。
 大陸の聖山に仙宮あり。聖女は日々、民のために祈りを捧げる。その法力は大地を芽吹かせ、雨を降らせ、人を癒す。人は彼女を《涙雨薔薇《るいうそうび》》――涙のような雨にうたれる薔薇《ばら》の花と称賛した。
 地底には冥界、死者の国がある。冥界王は死者の王である。人は死した後に魂が冥界に下り、冥界で魂を癒し、ふたたび地上で生を得る。冥界王は死なず、地底の宮に鎮座する。人は彼を恐れて、《無明白蓮《むみょうびゃくれん》》――暗闇の中の白い蓮、と呼んだ。


 ※

 視界が滲んでいたのは、雨のためか、涙のためか。よく覚えていない。ただ思い出すのは、ざらついた雨音とともにするりと耳の奥に入り込んだ、あの声。

 ――あなたもひとりきりのさびしい身の上かしら。

 差し伸べられた手が、忘れられない。囁くような、哀切に満ちた声も。
 聖女の手は血まみれだった。多くの人々を救うために聖女は肉体の限界を越えて法力を使い、その代償で身体にたくさんの傷がついた。

 ――ごめんなさい。気持ち悪かったですね。

 艶やかな黒髪をした美しい人は、困ったように首を傾げた。
 さっさと袖口で手の血を拭い、彼女は今度こそ幼い子の手を取った。手のあたりから温かさが全身に広がり、痛みが嘘のように引いていく。

 ――もう大丈夫。きっとよくなりますよ。

 こちらを安心させるように微笑む彼女に、彼は何と言ったのか。そう、彼は自分のことで必死だったから、怒りを聖女にぶつけていた。

『どうして助けたの。生きるのが辛いのに。父さんも母さんも姉さんも弟も殺された! ひとりぼっちで、これからどうしていいかわからない』

 そう、と彼女は俯くと優しく語りかけた。

 ――生き方がわからないならば、ひとりきりのわたくしのために生きて。

 なんて勝手で、わがままな人なのか。見知らぬ人のために生きるという道理はないはずだ。腹の中で憤怒の炎が燃え盛る。
 しかし、少し掠れていても耳に心地よい声色は、今でも憶えている。どれだけの年月が経とうとも、『彼女』が何度生まれ変わろうと、胸に刺さった宝石のような棘は今も抜けない。ジクジクと心を苛み続けている。





 ※
 今代の聖女はエリカという名だった。辺境の地で生まれた彼女は、生後間もなく聖女としての法力《ほうりき》を顕わし、評判は世間に広く伝わった。
 先代の死後、次の聖女を探す仙宮《せんぐう》はすぐさま噂を聞きつけ、その赤子を引き取った。聖女は歴代の聖女にならい、仙宮の奥深くで大切に育てられた。エリカは十五の歳に初めて大衆の前に姿を現わし、ここ数百年でもっとも強大だと称えられた法力を披露した。それにより、大陸の各地で頻発していた戦乱も止み、各国の王が大陸を統べる聖女の帰還を祝い、こぞって挨拶に訪れたという。
 聖女エリカはとても美しい乙女で、心奪われた男たちが何人も求婚に来たが、聖女はそのどれをも断った。聖女が婚姻してはならぬという法はなくとも、彼女自身が心動かされなかった。聖女という存在には伴侶は不要なのだろう、今までの聖女と同じ道を辿るのだろう、と人々は口々に言った。
 本人の耳にもそういった世間の風が届いていたものの、意に介していなかった。特に興味がなかったのだ。大地と会話し、法力を振るい、世界を祝福する聖女の役目を果たすことが自分の生きる意味だと思っているし、彼女自身の魂に刻みつけられた責務なのだから。
 とはいえ、雑事を気に留めることもある。淡々とした日々につまらなさを感じ、風に吹かれてきた花びらに目を奪われることもある。特に、ここ数年で傍に侍るようになった書記官イーサンは歴代書記官の中でも非常に口うるさい。口から出た一言目には『聖女らしく』と言い放ち、いつも眉間に皺が寄っていて、不機嫌そう。近くにいるだけで息苦しさを感じる。

「イーサン、せめてもう少し私に優しくしてちょうだい。息が詰まりそうよ。普段、何を考えていたらそんな顔になるのよ」
「……我慢しているもので」
「どんなことを?」

 何を我慢しているのか。まさか、エリカに対する怒りだろうか。補足を聞こうと待っていたが、彼はがんとして口を割らない。そもそも口達者そうでもなければ、小さな単語をぽつぽつと口にするような男である。

 ――何を考えているのか、よくわからない人ね。自分自身のこともほとんど話さないし。仕事の出来はいいけれど、話しかけづらい。

 エリカが考えた対処方法は、あえてイーサンの存在を気にしないようにすることだった。淡々と職務をこなすだけ。あえて雑談なども自分から振らず、距離を詰めようともしない。

 ――実は私の書記官を務めるのが不本意だったりして。

 そんなふうに考えていたのだった。


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