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最終話
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「エリカっ!」
驚くより前に男がエリカの袖を引きちぎって、井戸に投げ捨てた。エリカは我を取り戻すと、法力で井戸に開いていた冥界の蓋を閉じた。
ふう、とエリカは息をつき、己を顧みた。元々の大きさとあっていなかった服が、今は惨めに片袖まで失っている。ひどいありさまね、と自虐した。腕にある傷跡まであらわになっている。見る人からすれば不快だろう。そんなことを思っていると、男がエリカの腕を凝視していることに気付いた。
「どうしました?」
「その傷は……」
男は初めて傷を見た時からずっと気になっていたらしい。たしかに幼女には似つかわしくない痛々しい傷ではある。
「これ? 大昔に冥界王につけられたものですよ。今の冥界王ではなく、前の冥界王ですが。あの頃は冥界と地上の境目も今以上に曖昧な時代でした。冥界王も好戦的でたびたび地上を襲ってきました。この傷も、その時のものです」
気が遠くなるほど昔のことである。
エリカは歴代聖女の記憶を持ち合わせているが、錆びついた引き出しがなかなか開かないように、何もかもを思い出せるわけでもなかった。
「冥界王がどんな人か知っていますか? 今の冥界王は自分の顔を晒さないようで、話があまり伝わってこないのです」
噂話では、と男は前置きをした。
「顔がいい」
「かお」
エリカは半眼になる。彼は続けて、
「彼は決して聖女には手を出さないだろう」
「それはなぜ?」
「彼はただの人間だった時、聖女に助けてもらった恩がある。案外、義理堅いと言える」
「聖女に好意的だということですか」
男は黙り込み、遠くを眺めながら「ちがう」と言った。
「憎らしい女《ひと》だと思っているのだろう」
「憎らしい」とは全然思っていないような声音だった。
しばらくすると、廃屋での騒ぎを聞きつけた町の神官がやってきた。廃屋の周辺をあれやこれやと調べ回り、近所の人びとに聞きこみをした。
「ふむふむふむ……! なるほど、二十年ほど前にいた家の主人が悪いと……!」
「その下働きの娘さんが、不幸な最期を遂げられたのですね……ふむふむっ」
「そこのご主人が亡くなられて以降、幽霊の噂があったと……! お話し、ありがとうございます。どうしてか、こちらに開いておりました冥界の蓋は閉じられておりますので、皆さま、ご安心なさいますようよろしくぅ!」
生真面目そうな若い神官がいちいち頷きつつ動き回っているのを、エリカと男は近くの高い建物の屋根から眺めていた。耳を澄ませていると、先ほどの二人のおおよその事情も答え合わせができた。
「いくら何でも、舌を切り取るのは残酷ですよ。彼女にも言いたいことはたくさんあったでしょうに」
言わせたくなかったから、ああしたのだ、と男は冷淡に返した。
「世の中には残酷な人間など山ほどいる。単に声を聞きたくない、という理由だけで舌を抜ける人間もいるものだ。多種多様な人間がいる以上、どうしようもないことだ」
すでに空は茜色に染まっていた。夕刻を告げる鐘の音が重く響き、夜の到来が刻一刻と近づきつつある。
下の路地で集まって遊んでいた子どもたちが別れの挨拶を言いながら各々の家へと帰っていくのだ。
エリカは片袖が取れたみすぼらしい服装を顧みて、帰ろうと思った。
気まぐれに町に下りたところで、自分の居場所などないのだ。険しい崖の上、仙宮にある聖女の座に在り続けるのが、未来永劫、己の使命だ。
エリカは屋根の上で立ちあがった。
「もうそろそろあなたも帰ったら? 私も帰りますから」
彼は、エリカの真意を問うように顔を傾けた。
「元の姿に戻れるのか?」
「もう戻れると思います。朝は少し動揺してしまっただけ」
彼女は自身の法力の流れも熟知しており、法力がいつもと違う巡り方をしていることにも気づいていた。そこを元に戻せば、容姿も戻る。確信したのは、金蛇を操った時だ。
エリカは目を瞑り、法力で歪んだ流れを正してやった。目を開けた時に、己の手を見た。見知ったものに戻っていることに気付き、足元も腕も確認する。
黒檀のような黒髪に、白い肌、真紅の薔薇と同じ唇の色。世界の宝石と称えられた聖女の姿がそこにある。
目の前の男にも、どう、と尋ねた。
「いつもの私に戻っているでしょう?」
エリカの視線は男の胸まで高くなっていた。
男は黙りこくっていた。もの言いたげな口元がもぞもぞと動く。
「なに? 言ってくれないとわかりませんよ」
「……き」
「き?」
「夕陽が、きれいだ」
「ん? あ、そうね。きれいだわ」
背後で落ちていく太陽を振り返りながらエリカは同意した。
「それで、かの冥界王は、地上の太陽を眺めるために来たのですか。冥界には太陽などないから」
エリカは男――冥界王をまっすぐ見つめた。
『無明白蓮』。異名ばかり流布され、本名も明らかにならない冥界王。その容姿はたしかに美しく、深い闇でも際立つ蓮の花のようだった。
「冥界は常に死者で溢れていると聞きます。死者を統率する冥界王は多忙を極めるでしょうに、地上で聖女の暇つぶしに付き合うなんてずいぶんと物好きなところがあるのですね。――いえ、これは嫌味でなくて、本当に不思議に思っただけなのですよ」
「聖女を見たかった。ただそれだけだ」
「そのために書記官にまでなるの?」
冥界王――書記官イーサンとも名乗っていた彼は唇を強く噛みしめた。
「さすがに冥界王も何年も冥界を放っておけないでしょうから、現身《うつしみ》を寄こしているのでしょうけれど。でも、見事でした。あなたが冥界の者とは私にも見抜けなかった」
正直、聖女に恩を感じているのであれば助かった。冥界王と聖女がぶつかり合えば、地上も冥界もろくなことにならないからだ。
聖女の天敵が冥界王とすれば、冥界王にとっても逆のことが言える。ただ、聖女は昔より少しだけ弱くなった。聖女の腕の傷跡の分だけ。
冥界王は艶やかな目で聖女を見据えると、思いもよらないことを告げる。
「あなたは昨夜のことを覚えていないの?」
「昨夜のこと? ……何かあったかしら」
すると、男は思いを断ち切るような首の振り方をして、宙で真一文字を手で描く仕草をした。ぱっくりと藍色の空が切れ、冥界の蓋が開く。人一人分が通れる大きさになると、枠に手をかけた。
「さようなら、聖女猊下」
振り向きざまの顔に、涙が浮かんでいるかと思った。
冥界王……イーサン。彼は一体、何を思って地上にいたのだろう。
その姿が穴の奥に消え、跡形もなく蓋が閉じても、エリカは辺りが暗くなるまでぼんやりと佇んでいた。
エリカは元の居場所に戻った。
仙宮で彼女の帰りを待ちわびていた神官長は彼女の姿を見て安堵したようである。
「書記官のイーサンはいますか?」
「本日は休みだったはずですが。呼ばせましょうか」
「いえ、いいわ。明日にします」
なんとなく、予感はあった。
次の日、神官長は書記官イーサンが突然辞職した旨を伝えて来た。有能な若者だったのに、と嘆く神官長は彼を気に入っていたようだ。
「彼の部屋は一夜にして空っぽとなっていました。辞表のみでどこへ行ったかすら言わぬままでした。一体、何が何だか……」
「どうしようもありません。次の書記官を探しましょう」
エリカは神官長を慰めた。今までにも何人もの書記官がエリカの傍についていた。代わりはすぐに用意できるだろう。
冥界王とともに書記官イーサンも姿を消さなければならなかったのだろう。聖女に正体が露見してしまったから。
――私は気にしていない、と言ってあげればよかったのかしら。
そんな考えが頭を掠めた。
聖女もたまには酒を嗜む。責務を忘れ、酔っ払いたい夜もある。
ちょこちょこと林檎酒で舌を湿らせていると、つい先日も同じようにしていたといううすらぼんやりとした記憶が浮かび上がってきた。
『猊下、飲みすぎです』
『うふふ。いいでしょう? イーサンにはあげません!』
『私は要りません』
――そう。酔っ払って、なぜかそこにいたイーサンに絡んだ記憶である。
『あなたはほんとーに、堅物な人よね。好きな人はいるの?』
『……言いません』
『うふふ。いいでしょう。そうそう、今日ね、大祭に出たでしょう? そこでついはしゃぎすぎちゃった小さな子が転んだのを助けたじゃない?』
『はい』
『その子がすごくかわいくてね、素直で無邪気だった……。私も子どもになりたい』
『一度、大人になったら子どもには戻れませんよ』
『法力で何とかならないかしら』
『やめてください』
『……いえっ。なるわ、もう決めちゃった! 私は! 子どもに! なる!』
『もう寝ましょう』
イーサンはテーブルで管を巻くエリカをそっと横抱きにして、寝台の上に下ろした。そのまま離れようとする腕をばしっと捕まえるエリカ。
『……世の中の父親は、寝る時、額へおやすみのキスをするものだって昔聞きました』
『やりません。父親じゃないんですから』
『ちゅー』
彼は感情の読めない目でエリカを見下ろしていたが、やがて寝台の上に片膝を乗せて、エリカに近づいた。目と目が、唇と唇が互いに焦がれるように距離を詰めて――重なりかけた瞬間に、男の方が目を覚ましたかのように退いた。
『イーサン?』
『飲みすぎだ、猊下。私のような者を近づかせてはいけない……』
イーサンはエリカの目蓋に指を置く。ひんやりした指に気持ちよさを感じたと思ったら、意識が急に遠くなったのだ。
『それでも、近くに……少しでもいられるなら。あの時、幼子の時分に助けられた恩を返して……』
今、林檎酒は空になっている。涼しい風が部屋に吹きこみ、開け放たれた窓からは大きな月をのぞむことができた。
エリカとイーサンには、エリカの知らない縁があるのかもしれなかった。しかし、それはイーサンの口から聞かない限り、答え合わせは叶わない。
「なんだか前よりさびしくなってしまったわね」
ひとりごとも広い部屋の中で響いて消える。誰も耳にする者はいない。
――さようなら。聖女猊下。
彼が最後に告げた言葉。彼はあの時から去るつもりだったのかもしれない。知らず知らずのうちに近づきすぎて、彼はそのことを恐れた。だから最後と思い、幼女のエリカの前に本来の姿を見せた……。エリカに、見つけてほしかったから。
――いいえ。また……暇になったら来たらいいのよ。あなたもきっと――ひとりきりのさびしい身の上なのでしょう?
本心を押し殺すしかないと思っている、可哀そうな冥界王。彼もまた同類を求めて、逢いに来たのだろうから。
聖女は酔いながら深い眠りへ落ちていった。
聖女は一人きり。百年に一度生まれ変わり、地上を統べる。その美貌は《涙雨薔薇《るいうしょうび》》と賞される。
冥界王は死なず。冥界を統べる死者の王。名は知られず、《無明白蓮《むみょうびゃくれん》》と恐れらる。ただひとつ欲するは、聖女の隣。今は遠く隔てられるも――いつかは。
驚くより前に男がエリカの袖を引きちぎって、井戸に投げ捨てた。エリカは我を取り戻すと、法力で井戸に開いていた冥界の蓋を閉じた。
ふう、とエリカは息をつき、己を顧みた。元々の大きさとあっていなかった服が、今は惨めに片袖まで失っている。ひどいありさまね、と自虐した。腕にある傷跡まであらわになっている。見る人からすれば不快だろう。そんなことを思っていると、男がエリカの腕を凝視していることに気付いた。
「どうしました?」
「その傷は……」
男は初めて傷を見た時からずっと気になっていたらしい。たしかに幼女には似つかわしくない痛々しい傷ではある。
「これ? 大昔に冥界王につけられたものですよ。今の冥界王ではなく、前の冥界王ですが。あの頃は冥界と地上の境目も今以上に曖昧な時代でした。冥界王も好戦的でたびたび地上を襲ってきました。この傷も、その時のものです」
気が遠くなるほど昔のことである。
エリカは歴代聖女の記憶を持ち合わせているが、錆びついた引き出しがなかなか開かないように、何もかもを思い出せるわけでもなかった。
「冥界王がどんな人か知っていますか? 今の冥界王は自分の顔を晒さないようで、話があまり伝わってこないのです」
噂話では、と男は前置きをした。
「顔がいい」
「かお」
エリカは半眼になる。彼は続けて、
「彼は決して聖女には手を出さないだろう」
「それはなぜ?」
「彼はただの人間だった時、聖女に助けてもらった恩がある。案外、義理堅いと言える」
「聖女に好意的だということですか」
男は黙り込み、遠くを眺めながら「ちがう」と言った。
「憎らしい女《ひと》だと思っているのだろう」
「憎らしい」とは全然思っていないような声音だった。
しばらくすると、廃屋での騒ぎを聞きつけた町の神官がやってきた。廃屋の周辺をあれやこれやと調べ回り、近所の人びとに聞きこみをした。
「ふむふむふむ……! なるほど、二十年ほど前にいた家の主人が悪いと……!」
「その下働きの娘さんが、不幸な最期を遂げられたのですね……ふむふむっ」
「そこのご主人が亡くなられて以降、幽霊の噂があったと……! お話し、ありがとうございます。どうしてか、こちらに開いておりました冥界の蓋は閉じられておりますので、皆さま、ご安心なさいますようよろしくぅ!」
生真面目そうな若い神官がいちいち頷きつつ動き回っているのを、エリカと男は近くの高い建物の屋根から眺めていた。耳を澄ませていると、先ほどの二人のおおよその事情も答え合わせができた。
「いくら何でも、舌を切り取るのは残酷ですよ。彼女にも言いたいことはたくさんあったでしょうに」
言わせたくなかったから、ああしたのだ、と男は冷淡に返した。
「世の中には残酷な人間など山ほどいる。単に声を聞きたくない、という理由だけで舌を抜ける人間もいるものだ。多種多様な人間がいる以上、どうしようもないことだ」
すでに空は茜色に染まっていた。夕刻を告げる鐘の音が重く響き、夜の到来が刻一刻と近づきつつある。
下の路地で集まって遊んでいた子どもたちが別れの挨拶を言いながら各々の家へと帰っていくのだ。
エリカは片袖が取れたみすぼらしい服装を顧みて、帰ろうと思った。
気まぐれに町に下りたところで、自分の居場所などないのだ。険しい崖の上、仙宮にある聖女の座に在り続けるのが、未来永劫、己の使命だ。
エリカは屋根の上で立ちあがった。
「もうそろそろあなたも帰ったら? 私も帰りますから」
彼は、エリカの真意を問うように顔を傾けた。
「元の姿に戻れるのか?」
「もう戻れると思います。朝は少し動揺してしまっただけ」
彼女は自身の法力の流れも熟知しており、法力がいつもと違う巡り方をしていることにも気づいていた。そこを元に戻せば、容姿も戻る。確信したのは、金蛇を操った時だ。
エリカは目を瞑り、法力で歪んだ流れを正してやった。目を開けた時に、己の手を見た。見知ったものに戻っていることに気付き、足元も腕も確認する。
黒檀のような黒髪に、白い肌、真紅の薔薇と同じ唇の色。世界の宝石と称えられた聖女の姿がそこにある。
目の前の男にも、どう、と尋ねた。
「いつもの私に戻っているでしょう?」
エリカの視線は男の胸まで高くなっていた。
男は黙りこくっていた。もの言いたげな口元がもぞもぞと動く。
「なに? 言ってくれないとわかりませんよ」
「……き」
「き?」
「夕陽が、きれいだ」
「ん? あ、そうね。きれいだわ」
背後で落ちていく太陽を振り返りながらエリカは同意した。
「それで、かの冥界王は、地上の太陽を眺めるために来たのですか。冥界には太陽などないから」
エリカは男――冥界王をまっすぐ見つめた。
『無明白蓮』。異名ばかり流布され、本名も明らかにならない冥界王。その容姿はたしかに美しく、深い闇でも際立つ蓮の花のようだった。
「冥界は常に死者で溢れていると聞きます。死者を統率する冥界王は多忙を極めるでしょうに、地上で聖女の暇つぶしに付き合うなんてずいぶんと物好きなところがあるのですね。――いえ、これは嫌味でなくて、本当に不思議に思っただけなのですよ」
「聖女を見たかった。ただそれだけだ」
「そのために書記官にまでなるの?」
冥界王――書記官イーサンとも名乗っていた彼は唇を強く噛みしめた。
「さすがに冥界王も何年も冥界を放っておけないでしょうから、現身《うつしみ》を寄こしているのでしょうけれど。でも、見事でした。あなたが冥界の者とは私にも見抜けなかった」
正直、聖女に恩を感じているのであれば助かった。冥界王と聖女がぶつかり合えば、地上も冥界もろくなことにならないからだ。
聖女の天敵が冥界王とすれば、冥界王にとっても逆のことが言える。ただ、聖女は昔より少しだけ弱くなった。聖女の腕の傷跡の分だけ。
冥界王は艶やかな目で聖女を見据えると、思いもよらないことを告げる。
「あなたは昨夜のことを覚えていないの?」
「昨夜のこと? ……何かあったかしら」
すると、男は思いを断ち切るような首の振り方をして、宙で真一文字を手で描く仕草をした。ぱっくりと藍色の空が切れ、冥界の蓋が開く。人一人分が通れる大きさになると、枠に手をかけた。
「さようなら、聖女猊下」
振り向きざまの顔に、涙が浮かんでいるかと思った。
冥界王……イーサン。彼は一体、何を思って地上にいたのだろう。
その姿が穴の奥に消え、跡形もなく蓋が閉じても、エリカは辺りが暗くなるまでぼんやりと佇んでいた。
エリカは元の居場所に戻った。
仙宮で彼女の帰りを待ちわびていた神官長は彼女の姿を見て安堵したようである。
「書記官のイーサンはいますか?」
「本日は休みだったはずですが。呼ばせましょうか」
「いえ、いいわ。明日にします」
なんとなく、予感はあった。
次の日、神官長は書記官イーサンが突然辞職した旨を伝えて来た。有能な若者だったのに、と嘆く神官長は彼を気に入っていたようだ。
「彼の部屋は一夜にして空っぽとなっていました。辞表のみでどこへ行ったかすら言わぬままでした。一体、何が何だか……」
「どうしようもありません。次の書記官を探しましょう」
エリカは神官長を慰めた。今までにも何人もの書記官がエリカの傍についていた。代わりはすぐに用意できるだろう。
冥界王とともに書記官イーサンも姿を消さなければならなかったのだろう。聖女に正体が露見してしまったから。
――私は気にしていない、と言ってあげればよかったのかしら。
そんな考えが頭を掠めた。
聖女もたまには酒を嗜む。責務を忘れ、酔っ払いたい夜もある。
ちょこちょこと林檎酒で舌を湿らせていると、つい先日も同じようにしていたといううすらぼんやりとした記憶が浮かび上がってきた。
『猊下、飲みすぎです』
『うふふ。いいでしょう? イーサンにはあげません!』
『私は要りません』
――そう。酔っ払って、なぜかそこにいたイーサンに絡んだ記憶である。
『あなたはほんとーに、堅物な人よね。好きな人はいるの?』
『……言いません』
『うふふ。いいでしょう。そうそう、今日ね、大祭に出たでしょう? そこでついはしゃぎすぎちゃった小さな子が転んだのを助けたじゃない?』
『はい』
『その子がすごくかわいくてね、素直で無邪気だった……。私も子どもになりたい』
『一度、大人になったら子どもには戻れませんよ』
『法力で何とかならないかしら』
『やめてください』
『……いえっ。なるわ、もう決めちゃった! 私は! 子どもに! なる!』
『もう寝ましょう』
イーサンはテーブルで管を巻くエリカをそっと横抱きにして、寝台の上に下ろした。そのまま離れようとする腕をばしっと捕まえるエリカ。
『……世の中の父親は、寝る時、額へおやすみのキスをするものだって昔聞きました』
『やりません。父親じゃないんですから』
『ちゅー』
彼は感情の読めない目でエリカを見下ろしていたが、やがて寝台の上に片膝を乗せて、エリカに近づいた。目と目が、唇と唇が互いに焦がれるように距離を詰めて――重なりかけた瞬間に、男の方が目を覚ましたかのように退いた。
『イーサン?』
『飲みすぎだ、猊下。私のような者を近づかせてはいけない……』
イーサンはエリカの目蓋に指を置く。ひんやりした指に気持ちよさを感じたと思ったら、意識が急に遠くなったのだ。
『それでも、近くに……少しでもいられるなら。あの時、幼子の時分に助けられた恩を返して……』
今、林檎酒は空になっている。涼しい風が部屋に吹きこみ、開け放たれた窓からは大きな月をのぞむことができた。
エリカとイーサンには、エリカの知らない縁があるのかもしれなかった。しかし、それはイーサンの口から聞かない限り、答え合わせは叶わない。
「なんだか前よりさびしくなってしまったわね」
ひとりごとも広い部屋の中で響いて消える。誰も耳にする者はいない。
――さようなら。聖女猊下。
彼が最後に告げた言葉。彼はあの時から去るつもりだったのかもしれない。知らず知らずのうちに近づきすぎて、彼はそのことを恐れた。だから最後と思い、幼女のエリカの前に本来の姿を見せた……。エリカに、見つけてほしかったから。
――いいえ。また……暇になったら来たらいいのよ。あなたもきっと――ひとりきりのさびしい身の上なのでしょう?
本心を押し殺すしかないと思っている、可哀そうな冥界王。彼もまた同類を求めて、逢いに来たのだろうから。
聖女は酔いながら深い眠りへ落ちていった。
聖女は一人きり。百年に一度生まれ変わり、地上を統べる。その美貌は《涙雨薔薇《るいうしょうび》》と賞される。
冥界王は死なず。冥界を統べる死者の王。名は知られず、《無明白蓮《むみょうびゃくれん》》と恐れらる。ただひとつ欲するは、聖女の隣。今は遠く隔てられるも――いつかは。
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