「真実の愛」で婚約破棄された私ですが、困るのはそちらでしたね

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第二話 可哀想な義妹

第二話 可哀想な義妹

フェルベルク侯爵家の馬車が王宮前の石畳を離れ、夜の街路を進み始めても、車内は不自然なほど静かだった。

窓の外では、舞踏会帰りの馬車が次々に行き交っている。どの車内でも、今夜の話題はひとつだろう。王太子アルヴィスによる公開婚約破棄。そして、新たにその隣に立ったのがフェルベルク侯爵家の次女ミレイユだったこと。

社交界の耳は早い。

今この瞬間にも、憶測と悪意と好奇心が、火の粉のように王都じゅうへ散っているに違いない。

向かいに座る父――フェルベルク侯爵は、組んだ指を強く握りしめたまま、ひどく険しい顔をしていた。怒っているのか、困惑しているのか、その両方かもしれない。

その隣では、後妻のヴィオラが青ざめた顔で扇を胸元に押し当てている。もっとも、その目の奥に浮かぶ色は、純粋な動揺だけではない。事態の大きさに震えながらも、どこかで娘が王太子に選ばれたという事実を手放しで恐れきれていない。そんな欲と不安が入り混じった顔だった。

そして、その隣。

ミレイユは、潤んだ瞳を伏せたまま、白い手袋の指先をきゅっと握っていた。

傍から見れば、突然の大事件に巻き込まれて怯えているか弱い令嬢そのものだ。

だがエレノアは知っている。

あれは怯えではない。

あれは、次にどの顔を見せるべきかを計算しているときの沈黙だ。

馬車が大きく揺れたあと、ようやく父が口を開いた。

「……これは、いったいどういうことだ」

低く押し殺した声だった。

問いは誰に向けたものとも決めきれない響きを含んでいたが、結局、視線はエレノアへ向けられた。

それを見て、エレノアは胸の内で乾いた笑みを浮かべる。

やはりそうなるのだ。

王太子が勝手に婚約破棄を宣言し、義妹がその隣に立っていたという異常事態ですら、まず問い詰められるのは自分。

いつものことだった。

「お父様は、どの部分についてお尋ねですか」

「どの部分だと?」

「王太子殿下が卒業舞踏会の場で婚約破棄を宣言なさったことですか。それとも、ミレイユが殿下のお隣にいらしたことですか」

侯爵の眉間にしわが深く刻まれる。

「そのような言い方をするな」

「曖昧なままでは、お答えのしようがありませんので」

「お前は……!」

父が声を荒げかけた、そのときだった。

「お義父様、どうかお怒りにならないで……」

か細い声でミレイユが言った。

その声音は、まるで自分が怒声の矛先から姉を庇っているかのように優しく震えていた。

「すべて、私が至らなかったせいですの。もっと早く、お姉様のことをちゃんとお話ししていれば、こんなことには……」

ヴィオラがはっと息を呑む。

「ミレイユ……」

「でも、私……怖かったのです……。お姉様に何をされるか、ずっと……」

ぽろり、と涙が落ちた。

侯爵の顔つきが変わる。

困惑と苛立ちに支配されていた表情が、一転して“守るべき弱者に向ける顔”になったのを、エレノアは見逃さなかった。

まるで手品だった。

いいえ、もはや芸だ。

涙ひとつで空気を変える。しかもそれを、これほど自然にやってのける。

実に見事なものだった。

「何をされるか、とはどういう意味だ」

侯爵が問うと、ミレイユは慌てたように首を振った。

「い、いえ……申し訳ありません。お姉様を悪く言いたいわけではないのです。ただ、昔から少し……厳しくて……」

“少し厳しくて”。

なんとも便利な言葉だ、とエレノアは思う。

殴られたとも閉じ込められたとも言っていない。だが聞く者の想像は勝手に膨らむ。具体的な嘘を断言しないからこそ、あとでいくらでも逃げ道が残る。

「具体的に申してごらん」

侯爵の声は硬い。

その問いかけを受け、ミレイユは今にも言い淀みそうな様子で唇を震わせた。

「……その……お茶会に出るのをやめるよう言われたり……私にはまだ早いからと、綺麗なドレスを遠ざけられたり……」

ヴィオラが小さく声を上げる。

「そんな……!」

「でも、お義母様、お姉様にもお考えがあったのだと思います……私が未熟だから、表に出すのは恥ずかしいと……」

また涙。

自分を被害者にしつつ、相手に“考えがあった”と逃げ道を残す言い方まで添えるあたり、抜かりがない。責め立てているように見せず、周囲に勝手に裁かせるやり口だ。

車内の空気は、すでにミレイユのものだった。

侯爵はゆっくりとエレノアへ顔を向ける。

「……事実か」

「どちらのお話でしょう」

「まだそのような口をきくのか」

「事実とおっしゃるなら、ひとつずつ確認すべきです」

エレノアは視線を逸らさずに言った。

「まず、お茶会について。私はミレイユに、基礎的な礼儀作法が身につくまで大規模な茶会への参加は控えるべきだと申し上げました。実際、その頃のミレイユは、招待客の序列も、ホストとしてどこへ座るべきかも理解していませんでしたので」

「そ、それは……」

ミレイユが言葉に詰まる。

エレノアは続けた。

「次にドレスについて。私が遠ざけたのではありません。ミレイユが前侯爵夫人――つまり私の母から譲られた品まで“自分のものにしたい”と望んだから、お断りしたのです」

「お姉様っ、そんな言い方……!」

初めて、ミレイユの声音に刺が混じった。

だが彼女はすぐに唇を押さえ、怯えたように肩をすくめる。失言したと気づいたのだろう。

ヴィオラが娘の肩を抱き寄せる。

「やめてちょうだい、エレノア。ミレイユは今、傷ついているのよ」

「傷ついているのは、私も同じですが」

その言葉に、車内の空気が止まった。

ヴィオラが目を見開く。

まるで、エレノアがそんなことを言う資格はないとでも言いたげな顔だった。

「あなたはお姉さんでしょう」

ヴィオラは信じられないものを見るように言った。

「こんなときくらい、少しは妹を思いやれないの?」

エレノアはほんの数秒、黙った。

なんという都合のいい言葉だろう。

姉だから我慢しろ。

姉だから譲れ。

姉だから受け入れろ。

そう言われるたびに、エレノアは自分の側にある痛みや不利益だけが、最初から勘定に入れられていないことを思い知らされてきた。

ミレイユが欲しがれば譲るのが姉。

ミレイユが泣けば黙るのが姉。

ミレイユが奪っても受け入れるのが姉。

その“姉”という言葉は、この家でだけ、ずいぶん便利に使われるらしい。

「思いやってまいりました」

エレノアは静かに答えた。

「十分すぎるほどに」

侯爵が不快そうに息を吐く。

「舞踏会での態度もそうだ。お前はあまりにも冷静すぎた。普通なら、少しは取り乱して当然の場面だったはずだ」

思わず、エレノアは目を瞬いた。

そこを責められるのか、と。

「取り乱さなかったことが、お咎めの理由になりますか」

「そういうことではない。だが、まるで前から分かっていたかのようだった」

「まさか」

「ならば、もっと驚いてみせてもよかっただろう!」

エレノアは父の言葉を受け、心の中でゆっくりと線を引く。

この人は今、自分の娘が大勢の前で婚約破棄されたことを問題にしているのではない。

その場で“家にとって都合のいい反応”を見せなかったことを責めているのだ。

泣いてみせれば、まだ周囲に同情を買えたかもしれない。

取り乱してくれれば、“傷ついた娘”として扱えたかもしれない。

だがエレノアは静かに受け入れ、余計な醜態を見せなかった。

それが、父には気に入らない。

……ずいぶんと、くだらない。

そう思った瞬間、胸の奥から何かがすっと引いていく感覚があった。

傷つきはする。

失望もする。

だが、以前のようには苦しくない。

むしろ、あまりに予想通りすぎて、呆れのほうが先に立つ。

「私が泣けば、満足でしたか」

エレノアがそう問うと、侯爵は言葉を詰まらせた。

「そういうことではない」

「では、どのような態度であればよろしかったのでしょう」

「お前はいつも、そうやって理屈を並べる」

「理屈ではなく確認です」

「可愛げがないのだ!」

その一言で、すべてが片づけられた。

エレノアは視線を伏せたまま、心の中で小さく息を吐く。

可愛げ。

つまり、従順さ。

反論せず、泣きもせず、ただ申し訳なさそうに頭を下げていればよかったのだ。

自分がどれほど理不尽な目に遭っても、家の空気を乱さない令嬢でいれば。

「お父様」

ミレイユが慌てたように口を挟む。

「お願いです、お姉様を責めないで。悪いのは私なのです。私が殿下に好かれてしまったから……」

それはそれで、なかなかの言い草だった。

悲劇のヒロインを気取りながら、しっかり“殿下に選ばれたのは私”と刻み込んでくる。控えめな顔をして、実にきっちり刺してくるあたり、性根がよく出ていた。

ヴィオラは娘の髪を撫でる。

「あなたは悪くないわ、ミレイユ。愛されることに罪はないもの」

「でも……お姉様の婚約者だった方を……」

「もう婚約者ではない」

侯爵が重く言った。

その一言に、馬車の中の空気が変わる。

エレノアは顔を上げた。

侯爵は娘を見るでもなく、前を向いたまま続ける。

「王太子殿下があの場で宣言なさった以上、この件は覆らん。今後は家としても対応を考えねばならない」

家として。

やはり、そこなのだ。

婚約破棄された娘の心でも名誉でもなく、“家としてどう動くか”。

そして、ミレイユが次の王太子妃候補となるなら、この家はその立場に合わせて動くべきだ――きっと父は、もうそこまで考えている。

「対応、ですか」

「そうだ」

侯爵はようやくエレノアに目を向けた。

「お前もしばらく軽率な行動は慎め。王都では余計なことを口にするな。フェルベルク家の品位を損ねるような真似は許さん」

軽率な行動。

余計なこと。

つまり、真実を話すなという意味だ。

エレノアの胸の内に、冷たいものが落ちた。

「私に口を閉ざせとおっしゃるのですね」

「家の娘として当然だ」

「王太子殿下が公開の場で婚約破棄を宣言なさり、義妹がその隣に立っていた。それでもなお、口を閉ざすのが当然だと」

「エレノア」

侯爵の声が低くなる。

警告の響きだった。

だが、もう以前ほどの圧は感じない。

エレノアはむしろ、自分が驚くほど冷静でいることに気づいた。

「承知しました」

そう答えると、侯爵は満足したように目を細める。

だがその言葉が、父の期待する意味での従順ではないことを、エレノア自身はよく分かっていた。

口を閉ざす。

今は、それでいい。

自分から弁明しなくても、やがて事実は勝手に表へ出る。

いや、出ざるを得ない。

アルヴィスは、自分が何に支えられていたかを知らない。

ミレイユは、奪った地位がどれほど重いものかを知らない。

父もまた、この家がどれほど危うい綱渡りの上に立っているかを理解していない。

ならば、しばらく黙って見ていればいい。

坂道を下る馬車のように、彼らはこれから自分たちの重みで勝手に速度を上げていく。

そのときになって初めて、誰も手綱を握っていなかったことに気づくだろう。

馬車が侯爵邸の門をくぐった。

夜の庭は冷えきっていて、噴水の水音だけが妙に大きく響いている。

扉が開かれ、先にヴィオラが降りる。続いてミレイユが、いかにも心細そうに母の腕を取って石段へ足を乗せた。

玄関ホールには使用人たちが並び、主人一家の帰りを待っていた。

だが、いつもと違う空気があった。

表情は無表情に整えられている。けれど、その目の奥には抑えきれない驚きが宿っていた。無理もない。王都で最も注目される舞踏会の夜に、王太子との婚約が壊れ、しかも義妹がその座へ滑り込んだのだから。

使用人たちの間にも、すでに話は広がっているのだろう。

ミレイユはその視線を感じ取ったのか、すぐに目元を押さえた。

「ごめんなさい……皆に、こんな姿を見せてしまって……」

震える声。

そして、ぐらりと身体が揺れる。

「ミレイユ!」

ヴィオラが悲鳴を上げ、侯爵も駆け寄る。

だがエレノアは動かなかった。

知っているからだ。

倒れるほど弱っている者は、あんなに綺麗に角度を計算して膝を折らない。

案の定、ミレイユは完全に崩れ落ちる前に、絶妙なところで使用人の腕に支えられた。

「お部屋へ! 早く部屋へ運んでちょうだい!」

ヴィオラが叫ぶ。

使用人たちが慌ただしく動き始める。

その騒ぎのなかで、ミレイユはちらりとエレノアを見た。

ほんの一瞬。

涙で濡れた目の奥に、勝ち誇った光が宿っていた。

見たでしょう、お姉様。

今、この家で守られるのは私なのだと。

その視線は、そう語っていた。

エレノアはそれを真正面から受け止めた。

もう傷つかないとは言わない。

だが、少なくとも、もう打ちのめされはしない。

ミレイユが運ばれていき、侯爵とヴィオラも慌ただしくそのあとを追う。玄関ホールには、立ち尽くす使用人たちとエレノアだけが残された。

重い沈黙。

誰も何も言わない。

言えないのだろう。

そのなかで、年配の執事が一歩進み出て、深く頭を下げた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

ただそれだけ。

婚約破棄についても、舞踏会についても触れない。

だがその一言が、妙に胸へ染みた。

この家に帰ってきても、歓迎される気はしなかった。

責められることはあっても、労わられることはないと思っていた。

それだけに、その変わらぬ礼に、少しだけ肩の力が抜ける。

「……ただいま、戻りました」

エレノアが答えると、執事は静かに目を伏せた。

「お疲れでございましょう。お部屋の支度は整っております」

「ありがとう」

それだけ言って、エレノアは階段へ向かう。

背筋は伸ばしたまま。

ドレスの裾も乱さず、いつも通りの足取りで。

けれど、誰の目もない廊下に入った瞬間、ふっと吐息がこぼれた。

疲れた。

心底、疲れた。

怒鳴られたからではない。婚約破棄そのものだけが理由でもない。

ずっと分かっていたはずのことを、今夜改めて突きつけられたからだ。

この家は、最初から自分の味方ではなかった。

父は家の都合を見る。

継母は娘の未来を見る。

義妹は姉のものを奪う。

そして、自分だけが、すべてを円滑に回すための歯車として扱われていた。

ならば――もう、回してやる義理はない。

部屋の前に着き、扉を開ける。

見慣れた自室は、きちんと整えられていた。舞踏会へ出る前に整えたままの机。閉じたままの本。寝台の上に置かれた薄い室内着。

何も変わっていないように見えるのに、今夜を境に何もかもが違って見えた。

エレノアはゆっくりと手袋を外し、鏡台の前に立つ。

そこに映る自分は、ひどく静かな顔をしていた。

泣いていない。

目も赤くない。

まるで他人事のように落ち着いて見える。

けれど、その静けさの奥で、確かに何かが終わっていた。

王太子の婚約者としての自分。

フェルベルク家のために黙って耐える娘としての自分。

妹のために譲り続ける姉としての自分。

その全部が、もういらない。

鏡の中の自分を見つめながら、エレノアは小さく呟いた。

「可哀想なのは、いったい誰なのかしら」

涙を流したミレイユか。

真実の愛に酔うアルヴィスか。

あるいは、都合のいい幻想にしがみつくこの家か。

答えは、まだ出さなくていい。

そのうち嫌でも分かる。

誰が本当に守られるべきだったのか。

誰が本当に価値あるものを失ったのか。

そして、誰が“可哀想な義妹”という仮面の下で、どれほど醜い欲を隠していたのか。

エレノアは髪飾りを外し、机の上へ置いた。

小さな音が、やけに鮮やかに響く。

そのとき、扉の外で控えめなノックがした。

「お嬢様、失礼いたします」

若い侍女の声だった。

「どうぞ」

扉が開き、侍女は銀盆に温かいハーブティーを載せて入ってくる。

「夜も遅うございますので、お身体を冷やされませんよう」

エレノアは少しだけ目を見開いた。

頼んでいない。

それでも、侍女はごく自然な顔で湯気の立つカップをテーブルへ置く。

「……ありがとう」

「とんでもございません」

侍女は深く頭を下げ、それ以上何も言わずに下がっていった。

余計な慰めも、詮索も、同情もない。

けれど、その静かな心遣いだけで十分だった。

エレノアは椅子に腰を下ろし、両手でカップを包む。

じんわりとした温もりが、冷えた指先に移る。

その温かさに触れた瞬間、ようやくひとつだけ実感が湧いた。

今夜、自分は確かに奪われた。

けれど同時に、縛られていたものから解放もされたのだと。

失っただけではない。

終わっただけでもない。

ここから先は、もう違う。

エレノアは静かにカップを口元へ運ぶ。

ほのかな香草の香りが広がった。

舞踏会の喧騒も、馬車の中の責め立ても、義妹の涙も、今は少し遠い。

そのかわり、胸の奥には新しい感覚が生まれていた。

まだ名もつかない、冷たく澄んだ決意。

もう二度と、奪われる側には回らない。

その思いだけが、今ははっきりとそこにあった。
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