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第十一章 シロツメクサは語らない

01 鳥籠

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 結局丸二日、すみれは寝込んだ。
 やはり雨の中での強行軍は堪えた。八歳の少年を豪雨と恐怖の中、ひたすら背負って歩き続けたのだ。身体は冷えきって悲鳴をあげていたのに、司を助けるまでは気が張っていたのだろう。自分の異変には気づかなかった。
 気がつくと朝の光の中、熱で朦朧とする意識の片隅で、すみれは額を拭いてくれる優しい手を感じていた。

「……すみれ」
 その声に、すみれは薄目を開けた。
「司、さん……」
「うん」

 司はサイドボードに手ぬぐいを置き、タオルケットから出ていたすみれの手をそっと両手で包んだ。
 切なげな瞳が、すみれを映し揺れた。

「おかえり、すみれ」
「……ん……」

 すみれは微かに頷いて、瞼を伏せた。熱が高くて、まだろくに会話も出来そうになかった。
 それでも、わかる。
 もう、自分は昨日までの自分ではない。
 司から差し伸べられた優しい手の意味を、そして『おかえり』という言葉の中にある意味を、今の自分は知っている。

「ただいま……つかさ、さん」

 小さく囁いたすみれの手を、一瞬、司がきゅっと優しく握り返した。

                    *   *   *

 それからさらに二日、すみれはベッド生活を強いられた。合計四日もの間、部屋から一歩も出ない日々である。無論、ホテルのスイート並みに全てが揃った『居住空間』だ。風呂も食事も何もかもが部屋の中で済んでしまうのだから不自由はないといえばその通りだが──。
 さすがに今日はもう起きていて平気だし、普通に食欲もあり、熱もとうに下がっているのだが、司が頑としてすみれを外に出さない。
 すみれは、窓際に立ってぼんやりと外を眺めた。
 外は夏本番、大学が夏休みに入ったのは幸いだったが、さすがに体調が回復したのにも関わらず、軟禁生活にも似た状態を強いられると、時間をもてあます。
 降り注ぐ日差しには相当な熱を感じるが、部屋に閉じこもっているのが勿体なくなるほどの青空だ。出来れば外に散歩しに行きたい。

(そこまで、心配しなくてもいいんだけどな……)

 すみれはひっそりと溜息をついた。
 過去の世界で司を背負い、ニーソックスのままでアスファルトを歩いたことで負った怪我も、実質癒えたと思う。
 だが、風呂の後、いちいち部屋を訪れてくる司によって丁寧に厚く巻きなおされる包帯のせいで、靴も穿けない。邸の中はその気になれば絨毯敷きなので歩いていけるが、それもやりづらい雰囲気を感じ、すみれは部屋で大人しくしていた。

                            *

『もー旦那様のあの様子を見せてあげたかったわぁ……』
 すみれの世話をやきながら、夏凛は苦笑してみせたものだった。
『結局邸のスタッフの誰よりも早く、貴女を見つけちゃったんだもんねえ……』

 あの夜、司は血相を変えて戻ってくるなり、敷地内の各所に設けられている外部防犯カメラのチェックを命じたのだという。

 バラ園からすみれの携帯だけは見つかったものの、すみれ本人は司の言う通り行方不明になっていた。防犯カメラの記録を確かめ、邸の裏手に駆けていくすみれの姿を確認し、皆で裏の森を中心に探したらしい。
 そんな大事になっていたとは、思いもしなかったすみれである。

『でも、途中でカメラも貴女の姿を見失っちゃったし。夜の森に入られたら正直、あたしたちだけじゃ、どこから探したらいいか解らず、手こずったと思うわ……でも、旦那様は血相変えて迷わずクローバーの丘まで全力疾走して、ホントに貴女を見つけ出しちゃった』

 失礼ながら、あんなに旦那様が足が速かったとは思わなかったわ、正直、舐めてた……と夏凛はくすくす笑ったものだった。

                            *

 本当に司はすみれのことを深く心配してくれていて、そのことは痛いほどわかる。
(……多分、これは)
 俯いて、足に巻かれた真新しい包帯の白さに目を眇め……すみれは思う。
(これは幼いあの日の司さんが、私にしたかったことなんだ……)

 だが、それを差し引いても、すみれは司のここ数日の過保護ぶりに微かな違和感を感じていた。
 様々な話をした。
 額をくっつける「おまじない」のこと、書庫の中ですみれをひっそりと待っていた外国の小説のこと、ボトルに淹れたレモンティーのこと……。
 あの十七年前の夜、すみれが幼い司に残した記憶は、やがて司がすみれにそっと分け与えるいくつもの優しさに変わっていったのだ。
 全部、繋がっていた。
 そんな他愛のないことを一つ一つ大切そうに語る司の笑顔の中に、時折揺れる影を、ここ数日、すみれは感じていたのだ。
 まるですみれを外に出すのを恐れ、閉じ込めたがっているような、無言の圧。
 ……気のせいなのだろうか。

「……やぁ」

 司がひらりと手を振り、室内へ入ってくる。
 メッセージで事前にいくよと連絡をいれてから、司はすみれの部屋を訪れてくる。ここ数日の日課だった。
出迎えたすみれを見て、司は目を細めた。

「うん。顔色も良くなったね」
「はい……」
「それに」

 すみれと並んでソファーへ歩みよりながら、司は呟いた。

「そろそろ元気になったのに、この鳥籠的な扱いはちょっと理不尽だ、って顔に書いてある」
「えっ、いや、あの……っ」

 心を見透かされ、すみれは慌てて言葉を詰まらせた。司はそんなすみれの髪をくしゃっと撫で、小さく笑いながら「座って」と促す。
 おずおずと先にソファーに座るすみれの前で、司がジャケットを脱いだ。ソファーにそれを置き、シャツ姿になってすみれの足元に跪く。

 これもここ数日、仕事に向かう前の司とすみれの日課になりつつあった。

 自分でも意識が戻った後びっくりしたのだが──司と工場地帯で潜んだり全力疾走したあの数時間に、すみれは随分派手に足の裏を怪我していたのである。
 それはいい。だが足の傷は、他でもない司が自ら、丁寧に薬を塗っては包帯を取り替えてくれるのだ。
 確かに司とすみれは一応『家族』という扱いであり、このような状況で、家族が家族の傷を手当てするのはおかしいことではない。

 だが、むず痒い気持ちになるのは止めようがなかった。

 ゲストルームでもあるすみれの部屋だが、ここは長期滞在をも視野にいれた部屋のつくりになっているため、土足では部屋に入らない。日本の慣習に従い、完全に一般住宅と同じように靴を脱いで使用する部屋だ。
 そのため床に敷かれた絨毯も清潔なものだから、包帯巻きにされた足は現在、特に汚れてはいない。
 しかし、さすがに倒れた翌日の足はまだ傷口が閉じていなくて、血の滲む足をまじまじと見つめられ消毒されていると、これは何の羞恥プレイかと、すみれは随分といたたまれない気分になったものだった。

 本来『旦那様』である司に、朝な夕な、己の足をこうして宝石のように扱われる度に、気恥ずかしいやら申し訳ないやらで消え入りたくなる。
 まして目の前の男は、すみれの思い人なのだから。
 こんなことは、他のメイドたちがいくらでも世話してくれるし、熱の下がった今では、自分で治療も出来る。
 本来、多忙な司がするべきことではない、とも思う。しかし司はこの役を誰にも譲る気はないらしかった。

「うん。綺麗になってきた。良かった……」

 ほっとしたように司が呟く。続いて左足の包帯も解くと、司は跪いた己の膝の上にすみれの足を置いて、丁寧に傷をチェックした。

「痕は残らないと思うよ。もう……包帯も要らないね」

 そんなことは、もうすみれでさえわかっていたことだ。
 すみれは苦笑して頷いた。

「もう昨日から大丈夫でしたよ。司さんが心配性なんです」
「うん。そうだね」

 大丈夫だというのに、まだすみれの左足を己の膝から降ろさぬまま、司はひっそりと微笑んだ。

「でも、許してよ。あの日、君は俺になんの恩返しもさせないまま未来へ帰ってしまったんだからね。……君が心配だったし、君の世話をやきたかったんだ……ずっとね」

 慈しむように囁いて、司が、すみれの足の甲をそっと撫でる。

「……司さん……」

 その仕草に深い想いを感じ取り、すみれの胸はきゅっと痛んだ。
 すみれにしてみれば、それはたった数日前の話だ。
 だが司にしてみれば、あの日から十七年、すみれの消息を追って追ってひたすらに追い続け……ようやく迎えた『今』なのだろう。

「晴野すみれ、と確かに君は名乗った。うちの邸に連絡してくれた電話の録音でもはっきりそう名乗る君の声が残っていたのに……君を捜索したらね、関東地方広しといえど、そんな名前の女の人は一人もいなかったんだよ……少なくとも、俺をおぶって歩けるほどの年齢に達した『晴野すみれ』は何処にも、ね」

 そう、十七年前、すみれはまだ哺乳瓶を咥えていた頃だった。

「君は当時、まだ赤ちゃんだった……」
「……はい」
「でも、確実に一人、その名前の赤ん坊は存在していた。俺にとって、それは救いだったよ」

 司は目を上げた。眩しげにすみれを見つめるその頬を、午前の白い日差しが照らす。
 足を支えられたまま、すみれは鼓動がせり上がるのを感じた。

(……だから、どうして、この人は……)

 期待するだけ無駄だとわかっているのに、鼓動を抑えられなくなるほどに司の眼差しはどこか切なく、熱を帯びている。
 素足に触れられたまま見つめられていると、その眼差しのひたむきな色に煽られるように頬が熱くなるのを止められない。

「俺は、考えた。この赤ん坊が本当にあの晴野すみれだとしたら、どうだろう? 君は型こそ違えどメイド服を着ていたし、俺のことをよく知っていた。そして君には何故か、俺を助ける理由がはっきりとあったようだった」
「……」
「もしかしたら、君は、未来から来たのかもしれないっていう……ファンタジーな考えにいきつくのにそう時間はかからなかったよ」

 目の前であんな消え方されたらね、何でもアリだと思えてくるよね、と司が苦笑した。

「いつか出会えると、君は言ったしね」
「……はい」

 眩しくて、気恥ずかしくて、目を逸らしたいのに逸らせない。
 見つめ合ったままそっとすみれが頷くと、どこか嬉しげに司が微笑んだ。
(きっと、ずっと、待たせてた……)
 すみれが過去に向かい、司と同じ夜を共有するその日を、司はどれほど待っていたことだろう……。

「君は、さ。どんどん成長して、俺の知るすみれの姿になっていったよ」

 呟いて、司はふと目を伏せ、苦笑した。

「……ごめんね。君のことを、小さな頃から本当にずっと俺は見てきたよ。ちょっとストーカーみたいだよね……引いた?」
「そんなっ……引きませんよ……」

 視線が外れて、すみれは少し安堵する。
 なのに司の台詞はどことなく甘くて、やっぱり心臓は落ちつかなかった。

「私だって、司さんの立場だったらそうします。それに……」
「ん?」
「ずっと、見守って下さったから、私は一番辛かったときに、司さんに助けてもらえたんです。見守ってくださって……」

 ありがとうございます、と言いかけて、すみれはふと言葉を詰まらせた。
 こんな近しい距離で向かい合っていると、つい忘れそうになるけれど。

(もう、この人に、この先ずっと……この気持ちを伝えられることはないんだ……)

 忘れてはダメだと、すみれはちくちくする胸を宥めた。司がどんなに優しくとも、それは家族としての情愛なのだ。すみれは少し言い淀み、やがてぽつりと囁いた。

「見守ってくださって……うれしいです」

 好きだとは言えないから、今の一番正直な気持ちを告げたかった。
 ありがとう、より……もっと自分の本音に沿う言葉。

(司さんとこうしていられて、やっぱり、嬉しい)

 それは、今も現在進行形だ。だから嬉しかった、ではなく、嬉しい。
 司の眼差しが家族としてのそれだと、わかっていても。

「……」

 そんなすみれの言葉を聞いた司はというと、目を瞠り、しばらくすみれをまじまじと見つめて動かなくなった。言葉に淀むことが少ない司にしては珍しい、茫然、と表現するにふさわしい沈黙だ。

「……あ、あの……?」

 そろそろ自分の顔に穴が開いてもおかしくはない。
 すみれがさすがにうろたえて頬を染めると、司はやがて黙って顔を伏せた。
 その──瞬間。
 司が、すみれの足を片手で捧げ持ち、甲へと唇を寄せた。
 ちゅっ……と温かな唇の感触が、甲に走る。

(……!)

 身体を走り抜けた甘い衝撃に、すみれはびくんと身を竦ませた。一拍置いて、まだ静かに口づけたままの司の姿を見、何が起こったのか理解した。理解したけれど。

「──っ! え、あ、のっ……?!」
 かっと全身が熱く燃える。羞恥だけではないから、困る。
「つ、司さんっ」

 たっぷりと十秒は口づけていただろうか──それはすみれにとって気が遠くなるほど長い十秒だった。
 司がやがて、おもむろに顔を上げた。

「……君がいたから、今の俺があるんだよ。命だけの問題じゃない。君が俺の将来行くべき道を、照らしたんだ。今の俺になれたのは、君のお陰だよ、すみれ」
「……っ」

 真っ赤になったまま、すみれは一言も口に出来なかった。
 甘苦しさに喉を塞がれて……息もできない。

「心からの感謝を、君に」

 すみれを射抜く眼差しで、ひっそりと司が告げ──再び、すみれの足の甲へと唇を寄せる。スローモーションのようにそれはすみれの瞳に映りこみ、白い光の中、揺れた。
 時すら息を潜めた気がする、静まり返った夏の朝。
 司の唇が、再びすみれの足に軽く押し当てられた。

「……っ、ぁ……」

 電撃にでも触れたように、全身に痺れのような感覚が疾る。びくんと再びすみれは震えた。
 甲が、熱くじんじんと疼きだす。今度のキスも長い。
 司の息遣いがふわりと肌に触れる。どこかくすぐったくて、むず痒くて──すみれはぎゅっと目を閉じた。
 司が呼吸を繰り返す度に、ざわめくような熱が、身体の奥を切なく満たしてゆく。
唇は、まだ離れない。静かに押し当てられたままだ。

(もう、……どうして……っ)

 すみれは気がつけば、口元を両手できつく覆い、その甘苦しい時間に耐えていた。何か妙な声が漏れそうで、怖い。

(どうして、そんなこと、するの……?)

 目頭が、急激に熱を孕んだ。
 触れられていることが、口づけられていることが、たまらなく恥ずかしいのに……どこかで悦んでいる自分に、気付かされる。
 その一拍後に、じわりと訪れたのは……灼けつくような苦しさだった。
 司の吐息を肌でじかに感じて。
 否応なしに……気付かされてしまった。

(……ひどい、よ。司さん……)

 知りたくなど、なかった。こんな切なくも身を支配する甘い感覚。
 いつか、司は生涯ただ一人と思い定めた思い人と、結ばれたりするのだろうか。
 この熱い吐息で相手の肌をくすぐりながら──その人を、静かな情熱をもって愛したりするのだろうか。
 だとすれば、知りたくなど、なかった。
 司の唇の温かさなんて。その息遣いなんて。

 ──ここでは泣けない。すみれは懸命に涙を堪えた。

 やがて顔を上げた司の横顔を、白い日差しが照らしだす。眩しい光の中で、司はそれでも瞳を眇めることもなく、すみれを見つめてきた。
 すみれは自分が冷静な表情を取り繕えていたとは思わなかった。どう考えても頬は真っ赤だったはずだし、はっきりと涙を滲ませていた。
 普段ならそんなすみれの表情に司は言及するだろう。大丈夫?と尋ねるなり、ごめんねと謝るなり、何らかの言葉があるはずだった。
 だが司はまるで、そんなすみれの表情を当然のように受け止め、立ちあがった。

「外へ、出ようか。君に見せたい場所があるんだ」

 四日間の鳥籠生活にあっさりと終わりを告げる台詞を囁き、司はただ、そっと笑った。
 頷いて立ちあがりながらも、すみれは妙な予感にどくんと心臓が波打つのを感じた。
 そう、この鳥籠生活の中でずっと司の態度にどことなく違和感を感じていた──あのなんとも表現のし難い感覚が、不意にまたすみれの中に湧きあがったのだ。

 司は、何を考えているのだろう。

 振りかえってみればこの四日間、それが解るようでいて……ひとつも、そう、ただのひとつも解っていなかったのかも、しれない。

                    *   *   *

「……前にね。君と夜の庭を散歩した時に、君に見せたい場所があるから、昼間に散歩しようねって言ったの、覚えてる?」
「はい」

 すみれは頷いた。忘れるはずもない。我ながら呆れるほど、司との会話のことはよく覚えていた。
いつかのように手を繋ぎ、司と久しぶりの外を歩いた。司は左手ですみれと手を繋ぎ、右手には日傘を差してくれている。
 蝉時雨が降り注ぐ夏の戸外は汗の滲む暑さだったが、すみれはその空気にむしろほっとしてしまう。
 ずっと空調管理された部屋で、季節から断絶されて四日間を過ごしたすみれには、自然の熱が懐かしく感じたのは確かだが──決してそれだけではない。蝉の煩すぎる鳴き声が、司との間に横たわる違和感をそっと誤魔化してくれるような気がしたのだ。
 何かが起こりそうで、でも何が起こるのかわからない。形のない不安が、不安をさらに呼び起こす。司と一緒にいながらこんな不安定な気持ちになるのも初めてのことで、すみれは戸惑った。

「あれから、昼間はなかなか時間が取れなくて。君に見せられないままだったんだけどね……まさか、君が先に辿りついちゃうとは思わなかったよ」

 すみれの手を引き歩きながら、司が呟く。
(……あ)
 すみれは気付いた。
 そういえば東館を回り込もうとしているこの道は覚えがある。
 あの夜、光を追って駆けた道ではないか。

「……司さん、もしかして、見せたい場所って」

 息を呑んで尋ねたすみれに、司がちらと横目で微笑んだ。

「うん。そう。ごめんね。事前に説明していなかったから、あの場所に行った時、君はもしかしてびっくりしたんじゃないかな。丘の上に、石があったよね」
「──あれ、誰の……」

 お墓なんですか、と尋ねかけて、だがすみれはその言葉を呑みこまざるをえなかった。
 誰の、なんて。

(あれが本当に墓石なら、決まってる……)

 青龍家の敷地内に、他人の墓があるわけが無いとも思う。つまりは先祖の墓とかそういうことになるのだろうか。しかしそれにしてはあまりにも簡素にすぎた気がする。

「あんまり考えすぎなくていいよ。あれはしるしのようなものだから」

 司がすみれの思考を読んだのか、小首を傾け笑う。

「標……ですか」
「うん。母の標。本当の青龍家の墓は別だから」

 やがて濃い緑が落とす木漏れ日が美しい小路の右前方に、ガーデンアーチが見えてくる。
 あぁ、とすみれは内心目を瞠った。
 そうだ。ここだ。
 光に誘われ、それでも行くのを躊躇ったあの、さらなる小路への入り口。

「俺が大学生の時に父が他界してね。母も元々病気がちだったからね、父を追うようにして亡くなったんだけど。
 生前、母はとてもあのクローバーの丘を愛してたんだ。この敷地内で一番好きな場所があの丘だった。俺も幼い頃は母に連れられて、よくあの丘で遊んだよ」

 行こう、と司が誘う。あの夜はまるで光の玉によって異世界にでも連れ去られるような不安の中でくぐり抜けたアーチだったが、今、昼の真白な光の中で、緑のトンネルは目にも優しい日陰を落としてくれていて、まるでオアシスへの扉のようにすら見える。
 司と手を繋いで、梢が覆い重なる緑のトンネルへと足を踏み入れる。涼しさが、肌に心地よい。

「……一度、父がね。こんな雑草ばかりの丘は潰してここにも庭園を作ろうって言いだした時があったんだ。死ぬ少し前にね」
「そうなんですか……?」
「うん。でも、母が守った」

 歩を進める二人の前に、やがて溢れるような光が迫り、緑のトンネルは途切れた。
 目の前に広がるクローバーの丘を見上げ、司は眩しげに瞳を細め囁いた。

「母がね。言うんだ」
「……何を……?」

「『この丘には、幸運の妖精が棲んでいるのよ』、と」
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