君の香に満ちて

マツイ ニコ

文字の大きさ
2 / 39
【一】灯火

しおりを挟む
 ほころび始めたタチアオイの花に合わせて、寺の片隅に咲いた紫陽花を摘んだ。
 ほかにも二、三種類の草木をあわせ、本堂と客間の床の間に生ける。
 桃色の花を縦に咲かせたタチアオイは、巫女の持つ鈴のように可憐だ。その横に丸い紫陽花が並ぶと、春から夏へのうつろいが感じられ、華やかで涼しげに見えていい。
 たくさんの草花が楽しめる春から夏へのこの時期は、香代の好きな時期でもあった。
 本堂に花を供えた後、床の間に生けていると、例の男が茶を持って来た。
 声をかけられて、返事をしたように思う。が、ろくに応じた覚えがない。
 花を生け始めると、そこだけに心が向かってしまうのだ。
 だから、花を供え終えたところで、ようやく香代の目は、部屋の隅に置かれたお盆と湯飲みをとらえた。
 不思議と、そのとたん、喉の渇きに気づく。
 お盆の横に座り直して、湯飲みに手を伸ばす。中の茶はすっかり冷めていた。
 男が持って来たときには熱かったはずだが、それから、どれくらい経ったのだろう。
 香代には刻が分からなくなっている。
 一口、二口と飲みながら、ぼんやりと男のことを思い出していた。

(……いい匂いのひとだった)

 顔も見たのに、香代が覚えているのはそのことばかりだ。
 甘い香り――沈香。
 お寺で焚いている焼香と同じ香木。

(……だからかもしれない)

 触れられても嫌ではなかった。
 初めてそう思ったことに、香代は驚いていた。
 男の香りを思い出そうとするように、目を閉じて茶の香りを吸い込む。
 胸の奥が、なにやらきゅっと締め付けられた。

(嫌でなかったどころか――)

「お香代。いつも苦労をかけるな」

 香代の思考は、ドラ声で遮られた。
 剃髪してはいるが、和尚というには豪快な体格の男が、どかどかと足音を立てて入ってくる。
 香代は湯飲みを脇に置き、頭を下げた。

「和尚さま。勝手に上がりまして……」
「いやいや、わしが頼んでいることだ。こちらこそ、不在にして悪かった。お香代が来るのを楽しみにしていたのに、突然、呼び出されてな。まったく、人にものを頼むのに呼び出すのだから礼儀がなっとらん」

 つい先ほどまでの静けさを、和尚の声があっという間に吹き飛ばしていく。
 父の飲み友達でもあった和尚は、香代にとって叔父のような存在だ。自分にはないこの賑やかさが、香代は好きだった。
 香代は微笑み、あいまいなあいづちを返した。

「まあ、そんな話はいい。そろそろ終わった頃合いかと思って来たんだが、どうだね」
「はい、今終わったところです」
「そうか、どれどれ」

 和尚は嬉しそうに目を細めて、床の間の前まで足を進めた。

「うん――タチアオイか」
「はい。お堂の方には、紫陽花も一緒に」

 床の間はそう広くないので、タチアオイと紫陽花を共に飾るのは諦めた。素人に毛が生えた程度の腕前ではあるが、鉢の大きさや部屋の広さに合わせて香代なりに工夫している。
 和尚は満足げにうなずいた。

「うんうん。いつも綺麗にしてもらって、ありがたいものだ。こういうのは、わしはどうも苦手でな……」

 今までも何度か聞いた話を始めそうになったところで、和尚がふと、脇に置かれた湯飲みに気づいた。

「うむ? それは……」
「ああ、はい」

 香代は湯飲みを持ち上げ、両手に包んだ。

「和尚に留守を任されたという方が、持って来てくださいました」
「ああ……」

 微笑んだ香代に、和尚は白くなった太眉を寄せた。
 それがなにか考えているように見えて、香代は首を傾げる。

「……なにか?」

 いつも快活な和尚が、こうして物思わしげな顔をするところなど見たことがない。
 珍しいこともあるものだと思いつつ訊ねると、和尚は目を泳がせた。

「ああ、いや……」

 返事は煮え切らない。これもあまり覚えのないことだ。
 不審に思っていると、和尚は口の中でごにょごにょと言った。

「……?」

 どう思った――そう聞かれたような気がしたが、はっきり聞こえなかったので分からない。本当に問う気があれば、改めて目を見て言うだろうと、香代は座ったまま和尚を見上げた。
 ――が、和尚は「なんでもない」と咳払いをした。

「……そうだった。あいつに留守を頼んでいたよ。さっきも言ったとおり、急な用ができたからな」
「ええ」

 うなずいたが、香代には和尚がなにか隠しているように見える。
 じっと見上げていると、和尚は取りつくろうように続けた。

「あれならもう帰ったよ。お役目をさぼってうちに来たんだから、まったく呆れたもんだ」
「……はあ」

 そう言うならば、お役目をさぼって来た男に、留守を任せる和尚もなかなかのものだ。
 そう思ったが、あえて口にはしなかった。
 いくばくかの沈黙の後、和尚はまたしても思わしげな視線を香代に向けてくる。

「……なにか?」
「いや……」

 またごまかすのかと思いきや、珍しく生真面目な顔で「お香代」と向き直った。
 香代はつられて姿勢を正したが、

「お主も、あんな男が好みか?」
「……は?」

 和尚の言葉の意味をつかみかねて、思わず間の抜けた声が出た。
 ――好み。
 頭の中で繰り返した言葉に、よみがえったのは、男の香りと、香代を支えた手の大きさだ。
 とたん、香代の顔が熱を持つ。

「な――何をおっしゃいます……!」
「ふぅむ? ……顔が赤いが」
「和尚さまが変なことをおっしゃるからです! 少し親切にしていただいただけで、そんな……」

 言いかけた途中で、あっと思い出した。

「お茶をお持ちくださったとき、花を生けている最中だったので、ろくにお礼も言えませんでした。お詫びを……」
「……つまり、また会いたいと?」

 鋭く言われて、香代は慌てる。

「ち、違います!」

(今日はずいぶん、意地の悪い)

 香代は心中文句を言いつつ、「今日はこれで失礼いたします」と帰り支度を始めた。
 すねた香代を引き留めるかと思いきや、和尚は笑って手を挙げた。

「そうか。今日もご苦労だったな。――また五日後に」

 和尚はいつも通りの快活さで呵々と笑う。
 香代は赤くなった顔を隠すように、丁寧に辞儀をして寺を後にした。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

麗しき未亡人

石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。 そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。 他サイトにも掲載しております。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

処理中です...