君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【一】灯火

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 ほころび始めたタチアオイの花に合わせて、寺の片隅に咲いた紫陽花を摘んだ。
 ほかにも二、三種類の草木をあわせ、本堂と客間の床の間に生ける。
 桃色の花を縦に咲かせたタチアオイは、巫女の持つ鈴のように可憐だ。その横に丸い紫陽花が並ぶと、春から夏へのうつろいが感じられ、華やかで涼しげに見えていい。
 たくさんの草花が楽しめる春から夏へのこの時期は、香代の好きな時期でもあった。
 本堂に花を供えた後、床の間に生けていると、例の男が茶を持って来た。
 声をかけられて、返事をしたように思う。が、ろくに応じた覚えがない。
 花を生け始めると、そこだけに心が向かってしまうのだ。
 だから、花を供え終えたところで、ようやく香代の目は、部屋の隅に置かれたお盆と湯飲みをとらえた。
 不思議と、そのとたん、喉の渇きに気づく。
 お盆の横に座り直して、湯飲みに手を伸ばす。中の茶はすっかり冷めていた。
 男が持って来たときには熱かったはずだが、それから、どれくらい経ったのだろう。
 香代には刻が分からなくなっている。
 一口、二口と飲みながら、ぼんやりと男のことを思い出していた。

(……いい匂いのひとだった)

 顔も見たのに、香代が覚えているのはそのことばかりだ。
 甘い香り――沈香。
 お寺で焚いている焼香と同じ香木。

(……だからかもしれない)

 触れられても嫌ではなかった。
 初めてそう思ったことに、香代は驚いていた。
 男の香りを思い出そうとするように、目を閉じて茶の香りを吸い込む。
 胸の奥が、なにやらきゅっと締め付けられた。

(嫌でなかったどころか――)

「お香代。いつも苦労をかけるな」

 香代の思考は、ドラ声で遮られた。
 剃髪してはいるが、和尚というには豪快な体格の男が、どかどかと足音を立てて入ってくる。
 香代は湯飲みを脇に置き、頭を下げた。

「和尚さま。勝手に上がりまして……」
「いやいや、わしが頼んでいることだ。こちらこそ、不在にして悪かった。お香代が来るのを楽しみにしていたのに、突然、呼び出されてな。まったく、人にものを頼むのに呼び出すのだから礼儀がなっとらん」

 つい先ほどまでの静けさを、和尚の声があっという間に吹き飛ばしていく。
 父の飲み友達でもあった和尚は、香代にとって叔父のような存在だ。自分にはないこの賑やかさが、香代は好きだった。
 香代は微笑み、あいまいなあいづちを返した。

「まあ、そんな話はいい。そろそろ終わった頃合いかと思って来たんだが、どうだね」
「はい、今終わったところです」
「そうか、どれどれ」

 和尚は嬉しそうに目を細めて、床の間の前まで足を進めた。

「うん――タチアオイか」
「はい。お堂の方には、紫陽花も一緒に」

 床の間はそう広くないので、タチアオイと紫陽花を共に飾るのは諦めた。素人に毛が生えた程度の腕前ではあるが、鉢の大きさや部屋の広さに合わせて香代なりに工夫している。
 和尚は満足げにうなずいた。

「うんうん。いつも綺麗にしてもらって、ありがたいものだ。こういうのは、わしはどうも苦手でな……」

 今までも何度か聞いた話を始めそうになったところで、和尚がふと、脇に置かれた湯飲みに気づいた。

「うむ? それは……」
「ああ、はい」

 香代は湯飲みを持ち上げ、両手に包んだ。

「和尚に留守を任されたという方が、持って来てくださいました」
「ああ……」

 微笑んだ香代に、和尚は白くなった太眉を寄せた。
 それがなにか考えているように見えて、香代は首を傾げる。

「……なにか?」

 いつも快活な和尚が、こうして物思わしげな顔をするところなど見たことがない。
 珍しいこともあるものだと思いつつ訊ねると、和尚は目を泳がせた。

「ああ、いや……」

 返事は煮え切らない。これもあまり覚えのないことだ。
 不審に思っていると、和尚は口の中でごにょごにょと言った。

「……?」

 どう思った――そう聞かれたような気がしたが、はっきり聞こえなかったので分からない。本当に問う気があれば、改めて目を見て言うだろうと、香代は座ったまま和尚を見上げた。
 ――が、和尚は「なんでもない」と咳払いをした。

「……そうだった。あいつに留守を頼んでいたよ。さっきも言ったとおり、急な用ができたからな」
「ええ」

 うなずいたが、香代には和尚がなにか隠しているように見える。
 じっと見上げていると、和尚は取りつくろうように続けた。

「あれならもう帰ったよ。お役目をさぼってうちに来たんだから、まったく呆れたもんだ」
「……はあ」

 そう言うならば、お役目をさぼって来た男に、留守を任せる和尚もなかなかのものだ。
 そう思ったが、あえて口にはしなかった。
 いくばくかの沈黙の後、和尚はまたしても思わしげな視線を香代に向けてくる。

「……なにか?」
「いや……」

 またごまかすのかと思いきや、珍しく生真面目な顔で「お香代」と向き直った。
 香代はつられて姿勢を正したが、

「お主も、あんな男が好みか?」
「……は?」

 和尚の言葉の意味をつかみかねて、思わず間の抜けた声が出た。
 ――好み。
 頭の中で繰り返した言葉に、よみがえったのは、男の香りと、香代を支えた手の大きさだ。
 とたん、香代の顔が熱を持つ。

「な――何をおっしゃいます……!」
「ふぅむ? ……顔が赤いが」
「和尚さまが変なことをおっしゃるからです! 少し親切にしていただいただけで、そんな……」

 言いかけた途中で、あっと思い出した。

「お茶をお持ちくださったとき、花を生けている最中だったので、ろくにお礼も言えませんでした。お詫びを……」
「……つまり、また会いたいと?」

 鋭く言われて、香代は慌てる。

「ち、違います!」

(今日はずいぶん、意地の悪い)

 香代は心中文句を言いつつ、「今日はこれで失礼いたします」と帰り支度を始めた。
 すねた香代を引き留めるかと思いきや、和尚は笑って手を挙げた。

「そうか。今日もご苦労だったな。――また五日後に」

 和尚はいつも通りの快活さで呵々と笑う。
 香代は赤くなった顔を隠すように、丁寧に辞儀をして寺を後にした。
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