君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【一】灯火

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「ただいま帰りました」

 敷居をまたいだ香代に、「おかえり」と明るい声がかかった。
 出て来たのは義姉の美弥だ。腕には生後七月のまあ坊を抱いている。
 香代は子守の姿を探した。

「さちは外に……?」
「ええ。今、夕餉に使う豆腐を買いに行ってもらってるの」
「抱っこ、代わりましょうか」
「いいのいいの。少し休みなさいな。和尚さまは変わらずお元気だった?」

 義姉とはいえ、元から近くに住んでいた美弥は実の姉のような存在だ。
 兄と夫婦になってからも、父の早世で行き所をなくした香代と共に住むことを拒まず、こうして気安く接してくれている。
 香代はうなずいた。

「でも、ご用があったようで。昼すぎまで外してらっしゃいました」
「あら。じゃあ香代ちゃん、ひとりでお寺にいたの? 大丈夫だった?」
「いえ……」

 無邪気に聞かれて、あいまいにごまかした。
 ひとりではなかったのだが、見知らぬ男とふたりでいた、と言っても心配を増やすだけだろう。

「兄上は……いつごろお戻りでしょう」

 話を逸らそうと、家の外に目をやった。美弥はさあ、と肩をすくめる。

「早いといいけど。目付になってからいつもお忙しそうだけど、最近はことさらひどいもの」

 ただの御徒おかちだった兄の辰之介が、目付の末席に抜擢されてから一年ほどが経つ。
 がんばりを評価された栄転とあって、兄も張り切っているものの、家にいる時間は明らかに減っていた。
 人のいい辰之介には気が重いお役目もあるようで、家族としては心配だ。
 そうですねとうなずいて、香代はそのまま、庭へ向かった。

「朝の畑の手入れがまだ少し残っているので、見てきます」
「そう? 少し休めばいいのに……」

 首を傾げる美弥に微笑みを返して、香代は庭へ出た。
 家屋と同じほどの広さの庭は、半分を畑にしている。
 その手入れを、香代は自分の勤めと思っていた。
 朝に作物を手入れし、五日に一度、寺へ行く。帰ってくれば、夕餉を作るか、甥の面倒を見る。
 寺に行かないときには、家の針仕事を請け負うこともあるし、姉と共に紙貼りなどの内職をすることもある。
 それが香代の毎日だが、下級武士の内情はどこも似たようなものだ。
 野菜の葉を間引きながら、香代は申し訳なさを噛みしめていた。

(せめてわたしが嫁いでいれば、兄上たちももう少し楽に暮らせるだろうけど――)

 香代とて、独り身を貫こうとしているわけではない。
 今から五年ほど前――二十歳になるかどうかの頃には、縁談もあった。
 相手は兄の上役にあたる家で、悪い話ではなかった。が、事情があって破談になったのだ。
 その事情とは、他の誰のせいでもない、香代自身のせいだった。
 自分の情けなさにため息がこみ上げる。
 そのとき、ふと人の気配を感じた。
 顔を上げると、兄がお役目から帰ってきたようだ。

「今、帰った」

 庭先にいる香代に気づいて、兄は短い声をかけてきた。
 微笑んだつもりのようだが、疲れのせいか苦笑じみている。

「兄上。お帰りなさいませ」

 労いの気持ちを込めて頭を下げると、ああ、とため息まじりの声が答えた。
 香代にとっては、目付である前に、ひとりの優しい兄だ。
 少しでも疲れを忘れてもらおうと、あえて明るい声を出した。

「今日はお早いですね。食事の準備はこれからですが……」
「ああ、いい。少し休んでいる」

 話し声が聞こえたのだろう。まあ坊を抱いた美弥が縁側に出て来た。

「あら、辰之介さま。今日はお早いのですね」

 父を見つけたまあ坊が、目を輝かせて手を伸ばす。
 辰之介は相好を崩して縁側に座り、妻から子を受け取った。

「ああ。今日は少し、外で人と会ってな……」
「そうですか。今、お茶をお持ちしますね」

 美弥は言って、一度中に引っ込んだ。
 辰之介が、ふと香代の方を見やる。

「香代。今日は何をしていた?」
「ええ。五十日ですので、いつも通り沈香寺に……」

 香代が答えると、辰之介ははたと黙り込んだ。

「……兄上?」

 香代が寺に花を生けに行くのは、兄も承知の上のことだ。
 多少は息抜きになるだろうと、むしろ後押ししてくれたはずだが――

「ああ、いや……そうか。そうだったな」

 兄の返事は煮え切らない。その膝の上にいるまあ坊だけが、きゃっきゃとご機嫌に父の頬に手を伸ばしている。

「そこでその……」

 辰之介は言いかけて頭を振ると、

「和尚はなにか言っていなかったか」
「なにか……とは?」

 問い返した香代に、辰之介は首を横に振った。

「……いや、なんでもない。忘れてくれ」

 そのとき、美弥が盆を手に戻って来た。

「お茶をお持ちしましたよ。香代ちゃんもひと休みしたらどう?」

 義姉の言葉に甘えて、兄と並んで軒先に腰掛ける。
 香代は礼を言って湯飲みを受け取ったが、兄は考えるように黙ったままだ。
 二人に漂う空気を訝しんで、美弥がまばたきした。

「何を話してたのかしら?」
「いえ……今日、沈香寺に行ったという話を」

 素直に答えれば、美弥は「ふぅん?」と納得しきれないような返事をした。
 三人それぞれ、考えごとでもしているように、黙って茶をすする。
 その沈黙を破ったのは、「そうだ」と膝を叩いた美弥だった。

「そうですよ、辰之介さま。和尚さまにお願いすればいいじゃありませんか」

 よい思いつきだと言わんばかりの口調だが、辰之介は何のことか分からないらしい。

「……何のことだ?」

 問い返されて、美弥は呆れたようにため息をついた。

「何って、香代ちゃんの嫁ぎ先のことですよ。あなたも気にしてらしたでしょう? 色々あって婚礼の時期を逃してしまっているのが、どうにも惜しいじゃないですか。気立てもよくて美人さんなのに……このままじゃ本当に独り身のままになってしまうわ」
「それは……そもそも、わたしのせいですから」

 香代が言葉を挟むと、美弥はむきになって応じた。

「例の縁談のこと? そんなの、香代ちゃんのせいなんかじゃないでしょう。婚礼前日に倒れたってだけで、話を反故にしちまうなんてどうなの。他家に行くとなれば緊張だってするし、不安で眠れなくもなることもあるでしょうよ。藩への届け出まで済んでいたのに、あまりに勝手すぎやしない?」

 美弥はそう言うが、贅沢な暮らしのかなわない家にとって、身体の弱い嫁などお荷物以外のなにものでもない。いくら気立てがよかろうとも、婚礼の日の前に倒れる女を、望んで嫁にと言うはずもなかった。

「どなたか、素敵な方がいないかと思っていたけれど――ほら、和尚さまなら顔も広いし、香代ちゃんに悪い話は持ってこないでしょう?」
「……」

 美弥は大乗り気だが、辰之介は黙って茶をすすっている。
 夫が寡黙なのはいつものことだから、おしゃべりな美弥は「素敵な方といえば」と話を変えた。
 あいづちさえ打っておけばずっと話し続けるのは、沈香寺の和尚とよく似ている。香代は笑いを堪えながら義姉の次の話を待った。

「辰之介さま。蓮本さまの養子おこさまにはお会いになって?」

 んごふっ、と、突然辰之介が咽せた。
 咳き込むその背を、美弥が「あらあらどうなさったの」とさする。

「蓮本さまに、お子さま……?」

 聞き覚えのない話に、香代は首を傾げた。
 蓮本家といえば、藩の重臣だ。今は筆頭家老を勤め、藩公の信頼も厚い。が、なにぶん子に恵まれないまま今に至っている。
 もう五十を過ぎているから、そろそろ親戚筋か、同格の家の庶子を跡継ぎに立てるのだろう――という噂は、世間話にうとい香代でも知っていた。

「そうよ。香代ちゃん、知らないの? ずいぶん噂がたったものだけど――昨年だったかしら。蓮本さまが、江戸から連れ帰って養子縁組した方がいるの。男前がいい上、江戸生まれ江戸育ちとあって気風のいい方だとか……婦女の間では、ひと目見たとか見たいとか、もう大騒ぎよ」

 江戸、と言われてふと、寺で会った男の顔が脳裏をよぎった。
 思えば、あの歯切れのいい言葉は、江戸弁ではなかったか。
 けれど、いくらあの和尚とはいえ、筆頭家老の息子に突然の留守を任せることはないだろう。
 香代が考えている間に、辰之介の喉の調子は落ち着いたようだ。
 美弥が目を輝かせてにじり寄った。

「それで? 辰之介さま。その反応は、お会いしたことがおありですね? どんな方です? 噂通りの方?」
「……俺からはなんとも言えん」
「まあ、いけず。少しくらい教えてくれたっていいじゃありませんか」

 美弥は口を尖らせるが、辰之介は無言で目を逸らした。
 そのまま、まあ坊の両手を握り、伸び始めた自分のひげにこすりつける。てのひらの刺激がくすぐったいのか、赤ん坊はころころと笑い声をあげた。
 父子の姿に微笑みながら、香代は義姉に耳打ちした。

「義姉上。兄上は妬いてらっしゃるんですよ」
「あら。そういうこと?」
「香代」

 美弥が嬉しげに夫を見やり、辰之介は香代をたしなめる。兄が照れているのはその顔を見れば分かった。
 香代は笑いを堪えながら「申し訳ありません」と軽くうつむく。
 辰之介が嘆息した。

「……他にはどんなうわさがある」

 問われて、美弥は「そうですね」と話し始めた。

「その方、養子になられたばかりとはいえ、もう二十を過ぎているのでしょう? すぐにでも身を固めた方がいいでしょうに、上士のところに年頃の女子がいない。……となると、下士にもお声がかかるかもしれないと、娘のいる家は張り切っているようですよ」
「張り切っ……? そんな噂があるのか」

 さすがの辰之介も想定外だったらしい。うろたえる夫に、美弥は「ええ」と笑った。

「お目付役でも、そんなことはご存じないのですね」
「……婦女の噂話にまで首をつっこんではおられん」
「あら。女の噂を侮っちゃいけませんよ。意外と、真理を突いていたりするものなんですから」

 一つ年上の美弥に諭されて、辰之介はまた黙り込んだ。
 昔から、美弥に口で勝てた試しがないのだ。拗ねたのか、またしてもまあ坊の手を頬にこすりつけている。

「話に聞くところだと、とても気さくで、誰にも気軽に声をかける方だそうですね。……だから余計、そんな噂がたつのかもしれません」

 ふてくされたらしい夫を差し置き、美弥が楽しげに香代を見やった。

「もちろん、既に夫を得た私にご縁はないでしょうけれど……香代ちゃんは分からないものね?」

 そんな話をしてはいるが、美弥とて本当にそんな話があるとは思っていないだろう。
 これという娯楽のない中、華やかな夢を楽しんでいるだけだ。
 そう分かりながら、香代は冗談でも、うなずくことができなかった。
 愛想笑いだけを返して、美弥が淹れてくれた茶を口に含んだ。
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