3 / 39
【一】灯火
・
しおりを挟む
「ただいま帰りました」
敷居をまたいだ香代に、「おかえり」と明るい声がかかった。
出て来たのは義姉の美弥だ。腕には生後七月のまあ坊を抱いている。
香代は子守の姿を探した。
「さちは外に……?」
「ええ。今、夕餉に使う豆腐を買いに行ってもらってるの」
「抱っこ、代わりましょうか」
「いいのいいの。少し休みなさいな。和尚さまは変わらずお元気だった?」
義姉とはいえ、元から近くに住んでいた美弥は実の姉のような存在だ。
兄と夫婦になってからも、父の早世で行き所をなくした香代と共に住むことを拒まず、こうして気安く接してくれている。
香代はうなずいた。
「でも、ご用があったようで。昼すぎまで外してらっしゃいました」
「あら。じゃあ香代ちゃん、ひとりでお寺にいたの? 大丈夫だった?」
「いえ……」
無邪気に聞かれて、あいまいにごまかした。
ひとりではなかったのだが、見知らぬ男とふたりでいた、と言っても心配を増やすだけだろう。
「兄上は……いつごろお戻りでしょう」
話を逸らそうと、家の外に目をやった。美弥はさあ、と肩をすくめる。
「早いといいけど。目付になってからいつもお忙しそうだけど、最近はことさらひどいもの」
ただの御徒だった兄の辰之介が、目付の末席に抜擢されてから一年ほどが経つ。
がんばりを評価された栄転とあって、兄も張り切っているものの、家にいる時間は明らかに減っていた。
人のいい辰之介には気が重いお役目もあるようで、家族としては心配だ。
そうですねとうなずいて、香代はそのまま、庭へ向かった。
「朝の畑の手入れがまだ少し残っているので、見てきます」
「そう? 少し休めばいいのに……」
首を傾げる美弥に微笑みを返して、香代は庭へ出た。
家屋と同じほどの広さの庭は、半分を畑にしている。
その手入れを、香代は自分の勤めと思っていた。
朝に作物を手入れし、五日に一度、寺へ行く。帰ってくれば、夕餉を作るか、甥の面倒を見る。
寺に行かないときには、家の針仕事を請け負うこともあるし、姉と共に紙貼りなどの内職をすることもある。
それが香代の毎日だが、下級武士の内情はどこも似たようなものだ。
野菜の葉を間引きながら、香代は申し訳なさを噛みしめていた。
(せめてわたしが嫁いでいれば、兄上たちももう少し楽に暮らせるだろうけど――)
香代とて、独り身を貫こうとしているわけではない。
今から五年ほど前――二十歳になるかどうかの頃には、縁談もあった。
相手は兄の上役にあたる家で、悪い話ではなかった。が、事情があって破談になったのだ。
その事情とは、他の誰のせいでもない、香代自身のせいだった。
自分の情けなさにため息がこみ上げる。
そのとき、ふと人の気配を感じた。
顔を上げると、兄がお役目から帰ってきたようだ。
「今、帰った」
庭先にいる香代に気づいて、兄は短い声をかけてきた。
微笑んだつもりのようだが、疲れのせいか苦笑じみている。
「兄上。お帰りなさいませ」
労いの気持ちを込めて頭を下げると、ああ、とため息まじりの声が答えた。
香代にとっては、目付である前に、ひとりの優しい兄だ。
少しでも疲れを忘れてもらおうと、あえて明るい声を出した。
「今日はお早いですね。食事の準備はこれからですが……」
「ああ、いい。少し休んでいる」
話し声が聞こえたのだろう。まあ坊を抱いた美弥が縁側に出て来た。
「あら、辰之介さま。今日はお早いのですね」
父を見つけたまあ坊が、目を輝かせて手を伸ばす。
辰之介は相好を崩して縁側に座り、妻から子を受け取った。
「ああ。今日は少し、外で人と会ってな……」
「そうですか。今、お茶をお持ちしますね」
美弥は言って、一度中に引っ込んだ。
辰之介が、ふと香代の方を見やる。
「香代。今日は何をしていた?」
「ええ。五十日ですので、いつも通り沈香寺に……」
香代が答えると、辰之介ははたと黙り込んだ。
「……兄上?」
香代が寺に花を生けに行くのは、兄も承知の上のことだ。
多少は息抜きになるだろうと、むしろ後押ししてくれたはずだが――
「ああ、いや……そうか。そうだったな」
兄の返事は煮え切らない。その膝の上にいるまあ坊だけが、きゃっきゃとご機嫌に父の頬に手を伸ばしている。
「そこでその……」
辰之介は言いかけて頭を振ると、
「和尚はなにか言っていなかったか」
「なにか……とは?」
問い返した香代に、辰之介は首を横に振った。
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
そのとき、美弥が盆を手に戻って来た。
「お茶をお持ちしましたよ。香代ちゃんもひと休みしたらどう?」
義姉の言葉に甘えて、兄と並んで軒先に腰掛ける。
香代は礼を言って湯飲みを受け取ったが、兄は考えるように黙ったままだ。
二人に漂う空気を訝しんで、美弥がまばたきした。
「何を話してたのかしら?」
「いえ……今日、沈香寺に行ったという話を」
素直に答えれば、美弥は「ふぅん?」と納得しきれないような返事をした。
三人それぞれ、考えごとでもしているように、黙って茶をすする。
その沈黙を破ったのは、「そうだ」と膝を叩いた美弥だった。
「そうですよ、辰之介さま。和尚さまにお願いすればいいじゃありませんか」
よい思いつきだと言わんばかりの口調だが、辰之介は何のことか分からないらしい。
「……何のことだ?」
問い返されて、美弥は呆れたようにため息をついた。
「何って、香代ちゃんの嫁ぎ先のことですよ。あなたも気にしてらしたでしょう? 色々あって婚礼の時期を逃してしまっているのが、どうにも惜しいじゃないですか。気立てもよくて美人さんなのに……このままじゃ本当に独り身のままになってしまうわ」
「それは……そもそも、わたしのせいですから」
香代が言葉を挟むと、美弥はむきになって応じた。
「例の縁談のこと? そんなの、香代ちゃんのせいなんかじゃないでしょう。婚礼前日に倒れたってだけで、話を反故にしちまうなんてどうなの。他家に行くとなれば緊張だってするし、不安で眠れなくもなることもあるでしょうよ。藩への届け出まで済んでいたのに、あまりに勝手すぎやしない?」
美弥はそう言うが、贅沢な暮らしのかなわない家にとって、身体の弱い嫁などお荷物以外のなにものでもない。いくら気立てがよかろうとも、婚礼の日の前に倒れる女を、望んで嫁にと言うはずもなかった。
「どなたか、素敵な方がいないかと思っていたけれど――ほら、和尚さまなら顔も広いし、香代ちゃんに悪い話は持ってこないでしょう?」
「……」
美弥は大乗り気だが、辰之介は黙って茶をすすっている。
夫が寡黙なのはいつものことだから、おしゃべりな美弥は「素敵な方といえば」と話を変えた。
あいづちさえ打っておけばずっと話し続けるのは、沈香寺の和尚とよく似ている。香代は笑いを堪えながら義姉の次の話を待った。
「辰之介さま。蓮本さまの養子さまにはお会いになって?」
んごふっ、と、突然辰之介が咽せた。
咳き込むその背を、美弥が「あらあらどうなさったの」とさする。
「蓮本さまに、お子さま……?」
聞き覚えのない話に、香代は首を傾げた。
蓮本家といえば、藩の重臣だ。今は筆頭家老を勤め、藩公の信頼も厚い。が、なにぶん子に恵まれないまま今に至っている。
もう五十を過ぎているから、そろそろ親戚筋か、同格の家の庶子を跡継ぎに立てるのだろう――という噂は、世間話にうとい香代でも知っていた。
「そうよ。香代ちゃん、知らないの? ずいぶん噂がたったものだけど――昨年だったかしら。蓮本さまが、江戸から連れ帰って養子縁組した方がいるの。男前がいい上、江戸生まれ江戸育ちとあって気風のいい方だとか……婦女の間では、ひと目見たとか見たいとか、もう大騒ぎよ」
江戸、と言われてふと、寺で会った男の顔が脳裏をよぎった。
思えば、あの歯切れのいい言葉は、江戸弁ではなかったか。
けれど、いくらあの和尚とはいえ、筆頭家老の息子に突然の留守を任せることはないだろう。
香代が考えている間に、辰之介の喉の調子は落ち着いたようだ。
美弥が目を輝かせてにじり寄った。
「それで? 辰之介さま。その反応は、お会いしたことがおありですね? どんな方です? 噂通りの方?」
「……俺からはなんとも言えん」
「まあ、いけず。少しくらい教えてくれたっていいじゃありませんか」
美弥は口を尖らせるが、辰之介は無言で目を逸らした。
そのまま、まあ坊の両手を握り、伸び始めた自分のひげにこすりつける。てのひらの刺激がくすぐったいのか、赤ん坊はころころと笑い声をあげた。
父子の姿に微笑みながら、香代は義姉に耳打ちした。
「義姉上。兄上は妬いてらっしゃるんですよ」
「あら。そういうこと?」
「香代」
美弥が嬉しげに夫を見やり、辰之介は香代をたしなめる。兄が照れているのはその顔を見れば分かった。
香代は笑いを堪えながら「申し訳ありません」と軽くうつむく。
辰之介が嘆息した。
「……他にはどんなうわさがある」
問われて、美弥は「そうですね」と話し始めた。
「その方、養子になられたばかりとはいえ、もう二十を過ぎているのでしょう? すぐにでも身を固めた方がいいでしょうに、上士のところに年頃の女子がいない。……となると、下士にもお声がかかるかもしれないと、娘のいる家は張り切っているようですよ」
「張り切っ……? そんな噂があるのか」
さすがの辰之介も想定外だったらしい。うろたえる夫に、美弥は「ええ」と笑った。
「お目付役でも、そんなことはご存じないのですね」
「……婦女の噂話にまで首をつっこんではおられん」
「あら。女の噂を侮っちゃいけませんよ。意外と、真理を突いていたりするものなんですから」
一つ年上の美弥に諭されて、辰之介はまた黙り込んだ。
昔から、美弥に口で勝てた試しがないのだ。拗ねたのか、またしてもまあ坊の手を頬にこすりつけている。
「話に聞くところだと、とても気さくで、誰にも気軽に声をかける方だそうですね。……だから余計、そんな噂がたつのかもしれません」
ふてくされたらしい夫を差し置き、美弥が楽しげに香代を見やった。
「もちろん、既に夫を得た私にご縁はないでしょうけれど……香代ちゃんは分からないものね?」
そんな話をしてはいるが、美弥とて本当にそんな話があるとは思っていないだろう。
これという娯楽のない中、華やかな夢を楽しんでいるだけだ。
そう分かりながら、香代は冗談でも、うなずくことができなかった。
愛想笑いだけを返して、美弥が淹れてくれた茶を口に含んだ。
敷居をまたいだ香代に、「おかえり」と明るい声がかかった。
出て来たのは義姉の美弥だ。腕には生後七月のまあ坊を抱いている。
香代は子守の姿を探した。
「さちは外に……?」
「ええ。今、夕餉に使う豆腐を買いに行ってもらってるの」
「抱っこ、代わりましょうか」
「いいのいいの。少し休みなさいな。和尚さまは変わらずお元気だった?」
義姉とはいえ、元から近くに住んでいた美弥は実の姉のような存在だ。
兄と夫婦になってからも、父の早世で行き所をなくした香代と共に住むことを拒まず、こうして気安く接してくれている。
香代はうなずいた。
「でも、ご用があったようで。昼すぎまで外してらっしゃいました」
「あら。じゃあ香代ちゃん、ひとりでお寺にいたの? 大丈夫だった?」
「いえ……」
無邪気に聞かれて、あいまいにごまかした。
ひとりではなかったのだが、見知らぬ男とふたりでいた、と言っても心配を増やすだけだろう。
「兄上は……いつごろお戻りでしょう」
話を逸らそうと、家の外に目をやった。美弥はさあ、と肩をすくめる。
「早いといいけど。目付になってからいつもお忙しそうだけど、最近はことさらひどいもの」
ただの御徒だった兄の辰之介が、目付の末席に抜擢されてから一年ほどが経つ。
がんばりを評価された栄転とあって、兄も張り切っているものの、家にいる時間は明らかに減っていた。
人のいい辰之介には気が重いお役目もあるようで、家族としては心配だ。
そうですねとうなずいて、香代はそのまま、庭へ向かった。
「朝の畑の手入れがまだ少し残っているので、見てきます」
「そう? 少し休めばいいのに……」
首を傾げる美弥に微笑みを返して、香代は庭へ出た。
家屋と同じほどの広さの庭は、半分を畑にしている。
その手入れを、香代は自分の勤めと思っていた。
朝に作物を手入れし、五日に一度、寺へ行く。帰ってくれば、夕餉を作るか、甥の面倒を見る。
寺に行かないときには、家の針仕事を請け負うこともあるし、姉と共に紙貼りなどの内職をすることもある。
それが香代の毎日だが、下級武士の内情はどこも似たようなものだ。
野菜の葉を間引きながら、香代は申し訳なさを噛みしめていた。
(せめてわたしが嫁いでいれば、兄上たちももう少し楽に暮らせるだろうけど――)
香代とて、独り身を貫こうとしているわけではない。
今から五年ほど前――二十歳になるかどうかの頃には、縁談もあった。
相手は兄の上役にあたる家で、悪い話ではなかった。が、事情があって破談になったのだ。
その事情とは、他の誰のせいでもない、香代自身のせいだった。
自分の情けなさにため息がこみ上げる。
そのとき、ふと人の気配を感じた。
顔を上げると、兄がお役目から帰ってきたようだ。
「今、帰った」
庭先にいる香代に気づいて、兄は短い声をかけてきた。
微笑んだつもりのようだが、疲れのせいか苦笑じみている。
「兄上。お帰りなさいませ」
労いの気持ちを込めて頭を下げると、ああ、とため息まじりの声が答えた。
香代にとっては、目付である前に、ひとりの優しい兄だ。
少しでも疲れを忘れてもらおうと、あえて明るい声を出した。
「今日はお早いですね。食事の準備はこれからですが……」
「ああ、いい。少し休んでいる」
話し声が聞こえたのだろう。まあ坊を抱いた美弥が縁側に出て来た。
「あら、辰之介さま。今日はお早いのですね」
父を見つけたまあ坊が、目を輝かせて手を伸ばす。
辰之介は相好を崩して縁側に座り、妻から子を受け取った。
「ああ。今日は少し、外で人と会ってな……」
「そうですか。今、お茶をお持ちしますね」
美弥は言って、一度中に引っ込んだ。
辰之介が、ふと香代の方を見やる。
「香代。今日は何をしていた?」
「ええ。五十日ですので、いつも通り沈香寺に……」
香代が答えると、辰之介ははたと黙り込んだ。
「……兄上?」
香代が寺に花を生けに行くのは、兄も承知の上のことだ。
多少は息抜きになるだろうと、むしろ後押ししてくれたはずだが――
「ああ、いや……そうか。そうだったな」
兄の返事は煮え切らない。その膝の上にいるまあ坊だけが、きゃっきゃとご機嫌に父の頬に手を伸ばしている。
「そこでその……」
辰之介は言いかけて頭を振ると、
「和尚はなにか言っていなかったか」
「なにか……とは?」
問い返した香代に、辰之介は首を横に振った。
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
そのとき、美弥が盆を手に戻って来た。
「お茶をお持ちしましたよ。香代ちゃんもひと休みしたらどう?」
義姉の言葉に甘えて、兄と並んで軒先に腰掛ける。
香代は礼を言って湯飲みを受け取ったが、兄は考えるように黙ったままだ。
二人に漂う空気を訝しんで、美弥がまばたきした。
「何を話してたのかしら?」
「いえ……今日、沈香寺に行ったという話を」
素直に答えれば、美弥は「ふぅん?」と納得しきれないような返事をした。
三人それぞれ、考えごとでもしているように、黙って茶をすする。
その沈黙を破ったのは、「そうだ」と膝を叩いた美弥だった。
「そうですよ、辰之介さま。和尚さまにお願いすればいいじゃありませんか」
よい思いつきだと言わんばかりの口調だが、辰之介は何のことか分からないらしい。
「……何のことだ?」
問い返されて、美弥は呆れたようにため息をついた。
「何って、香代ちゃんの嫁ぎ先のことですよ。あなたも気にしてらしたでしょう? 色々あって婚礼の時期を逃してしまっているのが、どうにも惜しいじゃないですか。気立てもよくて美人さんなのに……このままじゃ本当に独り身のままになってしまうわ」
「それは……そもそも、わたしのせいですから」
香代が言葉を挟むと、美弥はむきになって応じた。
「例の縁談のこと? そんなの、香代ちゃんのせいなんかじゃないでしょう。婚礼前日に倒れたってだけで、話を反故にしちまうなんてどうなの。他家に行くとなれば緊張だってするし、不安で眠れなくもなることもあるでしょうよ。藩への届け出まで済んでいたのに、あまりに勝手すぎやしない?」
美弥はそう言うが、贅沢な暮らしのかなわない家にとって、身体の弱い嫁などお荷物以外のなにものでもない。いくら気立てがよかろうとも、婚礼の日の前に倒れる女を、望んで嫁にと言うはずもなかった。
「どなたか、素敵な方がいないかと思っていたけれど――ほら、和尚さまなら顔も広いし、香代ちゃんに悪い話は持ってこないでしょう?」
「……」
美弥は大乗り気だが、辰之介は黙って茶をすすっている。
夫が寡黙なのはいつものことだから、おしゃべりな美弥は「素敵な方といえば」と話を変えた。
あいづちさえ打っておけばずっと話し続けるのは、沈香寺の和尚とよく似ている。香代は笑いを堪えながら義姉の次の話を待った。
「辰之介さま。蓮本さまの養子さまにはお会いになって?」
んごふっ、と、突然辰之介が咽せた。
咳き込むその背を、美弥が「あらあらどうなさったの」とさする。
「蓮本さまに、お子さま……?」
聞き覚えのない話に、香代は首を傾げた。
蓮本家といえば、藩の重臣だ。今は筆頭家老を勤め、藩公の信頼も厚い。が、なにぶん子に恵まれないまま今に至っている。
もう五十を過ぎているから、そろそろ親戚筋か、同格の家の庶子を跡継ぎに立てるのだろう――という噂は、世間話にうとい香代でも知っていた。
「そうよ。香代ちゃん、知らないの? ずいぶん噂がたったものだけど――昨年だったかしら。蓮本さまが、江戸から連れ帰って養子縁組した方がいるの。男前がいい上、江戸生まれ江戸育ちとあって気風のいい方だとか……婦女の間では、ひと目見たとか見たいとか、もう大騒ぎよ」
江戸、と言われてふと、寺で会った男の顔が脳裏をよぎった。
思えば、あの歯切れのいい言葉は、江戸弁ではなかったか。
けれど、いくらあの和尚とはいえ、筆頭家老の息子に突然の留守を任せることはないだろう。
香代が考えている間に、辰之介の喉の調子は落ち着いたようだ。
美弥が目を輝かせてにじり寄った。
「それで? 辰之介さま。その反応は、お会いしたことがおありですね? どんな方です? 噂通りの方?」
「……俺からはなんとも言えん」
「まあ、いけず。少しくらい教えてくれたっていいじゃありませんか」
美弥は口を尖らせるが、辰之介は無言で目を逸らした。
そのまま、まあ坊の両手を握り、伸び始めた自分のひげにこすりつける。てのひらの刺激がくすぐったいのか、赤ん坊はころころと笑い声をあげた。
父子の姿に微笑みながら、香代は義姉に耳打ちした。
「義姉上。兄上は妬いてらっしゃるんですよ」
「あら。そういうこと?」
「香代」
美弥が嬉しげに夫を見やり、辰之介は香代をたしなめる。兄が照れているのはその顔を見れば分かった。
香代は笑いを堪えながら「申し訳ありません」と軽くうつむく。
辰之介が嘆息した。
「……他にはどんなうわさがある」
問われて、美弥は「そうですね」と話し始めた。
「その方、養子になられたばかりとはいえ、もう二十を過ぎているのでしょう? すぐにでも身を固めた方がいいでしょうに、上士のところに年頃の女子がいない。……となると、下士にもお声がかかるかもしれないと、娘のいる家は張り切っているようですよ」
「張り切っ……? そんな噂があるのか」
さすがの辰之介も想定外だったらしい。うろたえる夫に、美弥は「ええ」と笑った。
「お目付役でも、そんなことはご存じないのですね」
「……婦女の噂話にまで首をつっこんではおられん」
「あら。女の噂を侮っちゃいけませんよ。意外と、真理を突いていたりするものなんですから」
一つ年上の美弥に諭されて、辰之介はまた黙り込んだ。
昔から、美弥に口で勝てた試しがないのだ。拗ねたのか、またしてもまあ坊の手を頬にこすりつけている。
「話に聞くところだと、とても気さくで、誰にも気軽に声をかける方だそうですね。……だから余計、そんな噂がたつのかもしれません」
ふてくされたらしい夫を差し置き、美弥が楽しげに香代を見やった。
「もちろん、既に夫を得た私にご縁はないでしょうけれど……香代ちゃんは分からないものね?」
そんな話をしてはいるが、美弥とて本当にそんな話があるとは思っていないだろう。
これという娯楽のない中、華やかな夢を楽しんでいるだけだ。
そう分かりながら、香代は冗談でも、うなずくことができなかった。
愛想笑いだけを返して、美弥が淹れてくれた茶を口に含んだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
麗しき未亡人
石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。
そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。
他サイトにも掲載しております。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる