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其之五:兵庫助と茶菓子
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「よう来たの。十兵衛殿。ここに来るのは久しいな」俺の心情とは裏腹に、最後に会ったあの頃と変わらず、兵庫助殿は俺を優しく迎えてくれた。
「兵庫助様もお変わりなく」俺は頭を下げた。尾張柳生には個人的に負い目がある。思わず弁明してしまう。「長らく不義理をかけまして申し訳ありません。任去斎殿の件に際して何もお助けできず、重ねてお詫び申し上げます」あの時、同じ島原にいたというのに、俺は任去斎殿に何も出来なかった。同じ幕府側であったのに、手助けも何も出来なかったのだ。今でも忸怩たる思いがわき上がってくる。俺は深々と頭を下げた。
「しかし、残られた御子息殿はご立派になられ、特に兵助殿は兵庫助様に似ておられ、才気煥発ですな。この分であれば、尾張はご安泰であろうかと……」
「何を言うか。おぬしらしくもない。剣だけでなく口までも達者になりおって」兵庫助殿は俺の負い目を吹き飛ばすかのように笑った。「清厳は、御政道に従ったまで。あれはその結果じゃ。知恵伊豆殿とて苦戦した戦じゃ。おぬしが気にかける事ではない。それと、兵助は、おぬしの足下にも及ばぬよ。なにせ」そうして兵庫助殿はうふふと笑う。「人を斬った事がないからの」
「……単に人を斬れば良い、というものでもありますまい」俺は言葉を返した。「優れた者との真剣勝負でなければ、かえって鈍る、という場合もあり申す」
その言葉に兵庫助殿はうふふと笑った。今の世、お前と違い、優れた者と真剣で立ち会う機会なぞそうそうないだろうに、とでも言いたげに。
そうして俺たちは大屋敷の縁側へと移った。兵庫助殿は縁側で、自らも手を入れて整えてある庭を眺めながら客と話すのが好きなのであった。侍女が茶と受け菓子を持ってくる。兵庫助殿は相変わらず茶菓子が好きらしい。あの頃と変わっていないな、と俺は思った。
小鳥のさえずりを耳にしつつ、ひとしきり、今回の件と四方山話を話した末に、兵庫助殿が口を開いた。口元にきな粉が付いている。
「それにしても、元嫡子がそういう事態にあっても江戸は動かずか。何を考えておるのか――おっと、これは言い過ぎであったかな」
「私自身、廃嫡の身故、柳生のものとは思わずに。親父殿が動かぬのは、それは私が江戸にこの件を報告をしていないからですので、どうか親父殿を責めずにいただけましたら。兵庫助様も本件はご内密にしていただけますと……」俺は言う。今回の件は、己の不始末であるのだから、江戸の親父殿を頼るわけにはいかない。そう考え、お菊の件は江戸には連絡していなかった。お菊が刺客であった事も、柳生の庄で知っているのはお市と又十郎、左門くらいであった。この件は、出来うる限り、「俺個人の問題」として済ませたかったのが俺の意思であった。
「『廃嫡』のう」ここで兵庫助殿はまたうふふと笑った。「上手い手を考えたものよのう。『廃嫡』であれば、たとえ狼藉を働き路傍で死んだところでその家はお咎めなし、だからの」
「はぁ、そもそも私は政のあの堅苦しい世界がどうも苦手で、肌に合わないですからな。そんな愚息が嫡子であれば、私のどんなヘマが原因で、大名にまでなった柳生家の取り潰しの因ともなりかねません。事実、家光公への私のヘマで、私は廃嫡になったわけですし……あれはよくお家取り潰しにならなかったものと、今更ながらに反省しております」
その俺の言葉を兵庫助殿は楽しそうに笑いながら聞いていた。まるで、全てを見通しているかのように。
「まぁ、ぬしには、その性格も含め、旅烏として、いろんなものを見聞させたかったのだろうよ。今後の大和の柳生の礎として、な。おそらく、そのための措置であるのよ。おぬしの『廃嫡』とはな」兵庫助殿は、また、うふふと笑った。
「お茶のかわりはいるかね?」兵庫助殿が言った。俺はその言葉に甘えることにした。しかし、兵庫助殿の問いは、俺のためというより、自分が茶菓子を食べたいためなんだろうな、と思わずにはいられなかった。
「……ふむ」全てを話し終えた後、兵庫助殿は少し思案したようだった。きな粉のついた口をゆっくりと開く。「江戸の情報は常に探ってはおる。今のところ、諸大名の不穏な動き、というのは聞いておらんな。あれば尾張も黙っている立場ではないしの」
「では、柳生の家に敵対する相手となれば」俺は尋ねる。
「それも……ないな」兵庫助殿は答えた。「ま、江戸の柳生をよく思っていない家がある事は事実ではあるが――動きがあるとすれば、わしらにでも簡単にわかるように表立っては動くまい。どこぞの大名や旗本、まかり間違って御三家や京の朝廷が動くとなれば、畢竟、すぐに動きはわかるでな。あれらは隠すのが下手じゃしの」そして、兵庫助殿は安倍川を口にすると、うふふと笑った。わしのところにも江戸の柳生並の情報網がある、とでも言うように。尾張柳生に限らず、この時代、情報網はどこの有力旗本、大名も持っているのが常であった。その情報が正確であるか否かが問題なのである。おそらく尾張柳生もかなり正確に情報をつかんでいるのであろう――もしかしたら、俺の敵が誰なのかも、実は知っているのかもしれない。
だが、それを兵庫助殿に詮索しても無駄であろう。兵庫助殿が言わぬ方が良いと判断した結論であるのなら、今はそれを尊重しておいた方がいい。俺はそう考える事にした。
「しかし」兵庫助殿は茶を一服すると、声をひそめて言った。「人の親を悪く言うのは好まんが……但馬守殿には気をつけなされ」
「親父殿に?」
「但馬守殿は……おそらく、おぬしが思っている以上の狸、大狸であるからな。踊らせているつもりが、こちらが踊っていた、ともなりかねん」
「はぁ」俺は頭をポリポリと掻いた。「そうでございますかねぇ?」
「剣術、剣技においては、おそらく今のおぬしの方が全て上をいっている。が、政となれば……但馬守殿には、並の大名なら簡単に踊らされるであろうな。下手をすれば御三家すらも」そういって兵庫助殿は渋い表情をした。おそらく、じい様――柳生石舟斎も、「剣よりも政」である親父殿に対して、同じ表情をしたのだろう。
「おお、そうじゃ」茶を飲み干すと、重い空気を打ち消すように兵庫助殿が言った。「おぬし、時間があるのなら、これから、兵助に稽古を付けてくれんかの?」
「私がですか?」俺は聞き返した。いきなり何という事を言うのだ。「……本当によろしいので?」
「あぁ、かまわん、かまわん。気にするな。そもそも、おぬしは『廃嫡の身』じゃろ?なにを気にする事がある?」兵庫助殿はまた、うふふと笑った。「家光公に打ち込んだ時のように、加減せずに相手してくれい。兵助も強いものとの稽古は勉強になるじゃろうて」
そう言ってうふふと笑う兵庫助殿。兵庫助殿も十分狸じゃないか。俺はそんな事を思った。
兵庫助殿のところに数日滞在した後、尾張を出立。正直、稽古を付けた兵助殿の天稟に驚かされた日々であった。まさに麒麟児。兄の利方殿も並の天稟ではなかったが、それが霞んでしまうほどであった。兵助殿は若さ故に荒い剣ではあるが、その太刀筋は、大和柳生高弟でも手こずるかもしれん。利方殿、兵助殿のような跡継ぎがいるのであれば、尾張柳生は安泰であろう。そう思った数日間であった。
そう安堵して尾張を出立したのだが、はてさて、この後どこに向かうか。正直、尾張につく前に再度襲われて、そこから今回の相手がわかると思っていたのだが、どうにも見当を外したらしい。
大和から尾張へと東に進んでいるのだから、このまま江戸に向かうのが自然か。江戸に向かえば今回の相手の情報もあるやも知れぬ。江戸に訪ねたい方もいる。さすがにこれだけの道中、賊もそろそろ襲いかかってもくるだろう。そう思い、俺は足先を東へと向けた。尾張から江戸へ向かうとなると東海道を東に向かう事になる。東海道は箱根を越えるのが骨折れではあるのだが、これも仕方あるまい。兵庫助殿の奥方からいただいた握り飯もある。これと今の路銀で、江戸までの道で飢える事もなかろう。
「十兵衛殿」出立前に奥方から声をかけられた。
「熱田様にお参りしても罰はあたりますまい」
奥方はそういってにっこりと笑った。
「兵庫助様もお変わりなく」俺は頭を下げた。尾張柳生には個人的に負い目がある。思わず弁明してしまう。「長らく不義理をかけまして申し訳ありません。任去斎殿の件に際して何もお助けできず、重ねてお詫び申し上げます」あの時、同じ島原にいたというのに、俺は任去斎殿に何も出来なかった。同じ幕府側であったのに、手助けも何も出来なかったのだ。今でも忸怩たる思いがわき上がってくる。俺は深々と頭を下げた。
「しかし、残られた御子息殿はご立派になられ、特に兵助殿は兵庫助様に似ておられ、才気煥発ですな。この分であれば、尾張はご安泰であろうかと……」
「何を言うか。おぬしらしくもない。剣だけでなく口までも達者になりおって」兵庫助殿は俺の負い目を吹き飛ばすかのように笑った。「清厳は、御政道に従ったまで。あれはその結果じゃ。知恵伊豆殿とて苦戦した戦じゃ。おぬしが気にかける事ではない。それと、兵助は、おぬしの足下にも及ばぬよ。なにせ」そうして兵庫助殿はうふふと笑う。「人を斬った事がないからの」
「……単に人を斬れば良い、というものでもありますまい」俺は言葉を返した。「優れた者との真剣勝負でなければ、かえって鈍る、という場合もあり申す」
その言葉に兵庫助殿はうふふと笑った。今の世、お前と違い、優れた者と真剣で立ち会う機会なぞそうそうないだろうに、とでも言いたげに。
そうして俺たちは大屋敷の縁側へと移った。兵庫助殿は縁側で、自らも手を入れて整えてある庭を眺めながら客と話すのが好きなのであった。侍女が茶と受け菓子を持ってくる。兵庫助殿は相変わらず茶菓子が好きらしい。あの頃と変わっていないな、と俺は思った。
小鳥のさえずりを耳にしつつ、ひとしきり、今回の件と四方山話を話した末に、兵庫助殿が口を開いた。口元にきな粉が付いている。
「それにしても、元嫡子がそういう事態にあっても江戸は動かずか。何を考えておるのか――おっと、これは言い過ぎであったかな」
「私自身、廃嫡の身故、柳生のものとは思わずに。親父殿が動かぬのは、それは私が江戸にこの件を報告をしていないからですので、どうか親父殿を責めずにいただけましたら。兵庫助様も本件はご内密にしていただけますと……」俺は言う。今回の件は、己の不始末であるのだから、江戸の親父殿を頼るわけにはいかない。そう考え、お菊の件は江戸には連絡していなかった。お菊が刺客であった事も、柳生の庄で知っているのはお市と又十郎、左門くらいであった。この件は、出来うる限り、「俺個人の問題」として済ませたかったのが俺の意思であった。
「『廃嫡』のう」ここで兵庫助殿はまたうふふと笑った。「上手い手を考えたものよのう。『廃嫡』であれば、たとえ狼藉を働き路傍で死んだところでその家はお咎めなし、だからの」
「はぁ、そもそも私は政のあの堅苦しい世界がどうも苦手で、肌に合わないですからな。そんな愚息が嫡子であれば、私のどんなヘマが原因で、大名にまでなった柳生家の取り潰しの因ともなりかねません。事実、家光公への私のヘマで、私は廃嫡になったわけですし……あれはよくお家取り潰しにならなかったものと、今更ながらに反省しております」
その俺の言葉を兵庫助殿は楽しそうに笑いながら聞いていた。まるで、全てを見通しているかのように。
「まぁ、ぬしには、その性格も含め、旅烏として、いろんなものを見聞させたかったのだろうよ。今後の大和の柳生の礎として、な。おそらく、そのための措置であるのよ。おぬしの『廃嫡』とはな」兵庫助殿は、また、うふふと笑った。
「お茶のかわりはいるかね?」兵庫助殿が言った。俺はその言葉に甘えることにした。しかし、兵庫助殿の問いは、俺のためというより、自分が茶菓子を食べたいためなんだろうな、と思わずにはいられなかった。
「……ふむ」全てを話し終えた後、兵庫助殿は少し思案したようだった。きな粉のついた口をゆっくりと開く。「江戸の情報は常に探ってはおる。今のところ、諸大名の不穏な動き、というのは聞いておらんな。あれば尾張も黙っている立場ではないしの」
「では、柳生の家に敵対する相手となれば」俺は尋ねる。
「それも……ないな」兵庫助殿は答えた。「ま、江戸の柳生をよく思っていない家がある事は事実ではあるが――動きがあるとすれば、わしらにでも簡単にわかるように表立っては動くまい。どこぞの大名や旗本、まかり間違って御三家や京の朝廷が動くとなれば、畢竟、すぐに動きはわかるでな。あれらは隠すのが下手じゃしの」そして、兵庫助殿は安倍川を口にすると、うふふと笑った。わしのところにも江戸の柳生並の情報網がある、とでも言うように。尾張柳生に限らず、この時代、情報網はどこの有力旗本、大名も持っているのが常であった。その情報が正確であるか否かが問題なのである。おそらく尾張柳生もかなり正確に情報をつかんでいるのであろう――もしかしたら、俺の敵が誰なのかも、実は知っているのかもしれない。
だが、それを兵庫助殿に詮索しても無駄であろう。兵庫助殿が言わぬ方が良いと判断した結論であるのなら、今はそれを尊重しておいた方がいい。俺はそう考える事にした。
「しかし」兵庫助殿は茶を一服すると、声をひそめて言った。「人の親を悪く言うのは好まんが……但馬守殿には気をつけなされ」
「親父殿に?」
「但馬守殿は……おそらく、おぬしが思っている以上の狸、大狸であるからな。踊らせているつもりが、こちらが踊っていた、ともなりかねん」
「はぁ」俺は頭をポリポリと掻いた。「そうでございますかねぇ?」
「剣術、剣技においては、おそらく今のおぬしの方が全て上をいっている。が、政となれば……但馬守殿には、並の大名なら簡単に踊らされるであろうな。下手をすれば御三家すらも」そういって兵庫助殿は渋い表情をした。おそらく、じい様――柳生石舟斎も、「剣よりも政」である親父殿に対して、同じ表情をしたのだろう。
「おお、そうじゃ」茶を飲み干すと、重い空気を打ち消すように兵庫助殿が言った。「おぬし、時間があるのなら、これから、兵助に稽古を付けてくれんかの?」
「私がですか?」俺は聞き返した。いきなり何という事を言うのだ。「……本当によろしいので?」
「あぁ、かまわん、かまわん。気にするな。そもそも、おぬしは『廃嫡の身』じゃろ?なにを気にする事がある?」兵庫助殿はまた、うふふと笑った。「家光公に打ち込んだ時のように、加減せずに相手してくれい。兵助も強いものとの稽古は勉強になるじゃろうて」
そう言ってうふふと笑う兵庫助殿。兵庫助殿も十分狸じゃないか。俺はそんな事を思った。
兵庫助殿のところに数日滞在した後、尾張を出立。正直、稽古を付けた兵助殿の天稟に驚かされた日々であった。まさに麒麟児。兄の利方殿も並の天稟ではなかったが、それが霞んでしまうほどであった。兵助殿は若さ故に荒い剣ではあるが、その太刀筋は、大和柳生高弟でも手こずるかもしれん。利方殿、兵助殿のような跡継ぎがいるのであれば、尾張柳生は安泰であろう。そう思った数日間であった。
そう安堵して尾張を出立したのだが、はてさて、この後どこに向かうか。正直、尾張につく前に再度襲われて、そこから今回の相手がわかると思っていたのだが、どうにも見当を外したらしい。
大和から尾張へと東に進んでいるのだから、このまま江戸に向かうのが自然か。江戸に向かえば今回の相手の情報もあるやも知れぬ。江戸に訪ねたい方もいる。さすがにこれだけの道中、賊もそろそろ襲いかかってもくるだろう。そう思い、俺は足先を東へと向けた。尾張から江戸へ向かうとなると東海道を東に向かう事になる。東海道は箱根を越えるのが骨折れではあるのだが、これも仕方あるまい。兵庫助殿の奥方からいただいた握り飯もある。これと今の路銀で、江戸までの道で飢える事もなかろう。
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