13 / 18
其之十三:柳生の庄、急襲
しおりを挟む
「あれ?」友人たちと遊んでいた平太は、遠くから見える馬群に気がついた。
――あれ?あれはなんだかおかしいぞ?
そう思い、平太は、友人たちから離れ、半鐘に登った。
――間違えてたなら、あとで俺が怒られれば良い!それよりも!
平太は半鐘を思いっきり叩いた。
その音が柳生の庄に鳴り響いた次の瞬間。平太に向けて、馬群から一筋の矢が飛び、平太を地面へとたたき落とした。
それが、甲賀忍軍の襲撃の合図であった。
柳生の庄はその山門の造りから、一度に大量の馬が侵入出来ないようになっている。賊は、なんとか馬で乗り入れようとしていたが、それを諦め、槍や太刀を片手に侵入してきた。後ろに控えている者は火矢を繰り出してくる。それらの賊を迎え撃つは柳生新陰流門弟たち。理由は解らねど、この柳生に刃を向ける賊は我々が屠る。「十兵衛様が出立前におっしゃってたのはこの事だったのか」と村田与三は腹をくくった。十兵衛様にこの庄を任せられた以上、柳生の庄に被害など与えてたまるものか。と、門弟の誰もが思っていた。門弟たちの手の白刃がゆっくりときらめいた。
柳生門弟と賊との戦いを、お市は遠巻きに見ていた。傍らには娘たちとお菊。
「お菊」お市は静かに尋ねた。「あの賊の中に、あなたの見知ってる顔はいる?」
「ううん」お菊は泣きそうだった。自分が疑われていると。自分が疑われているのだと思った。「知らない。あの人たちを私は知らない。お市様、信じてください」
お市はにっこりと笑ってお菊の頭をなでた。
「誰もあなたが内通したなんて思ってませんよ。あなたはそんな子じゃないもの。ただ、あの賊の正体を、あなたが知っているか知りたかっただけ」
そう言って、お市は、お菊と娘を連れて外に出た。大屋敷、但馬守の屋敷に行く。
「お藤様!」お市は声を張り上げた。「どちらにいらっしゃいますか?」
「お市殿!」屋敷の奥から声が聞こえた。そちらにお市は向かう。ついでお菊と娘たちが続く。
お藤は屋敷の奥に息子と一緒にいた。お藤は脅えていた。それに感化されたのか、四歳になる息子の六丸はお藤にしがみつき、今にも泣きそうであった。
「お藤様」お市はほっとして言った。「ご無事でしたか」
「えぇ」お藤は震えながら言った。「何事でございますの?この騒ぎは?」
「賊が柳生の庄を襲っているようでございます」お市は淡々と答える。「柳生門弟たちが奮戦しておりますので、ここまで賊が来る事はないかと思われますが――」そう言ってお市はお菊を見た。
「万が一のための懐刀をお持ちしました」お市はにっこりと微笑む。
「お菊」振り向いてお市は言った。「お藤様と、娘たちの守り、頼みますよ」と一振りの刀を渡す。
「えっ」お菊は驚く。
「……私に任せて……いいんですか?」
「お菊。あなただからお願いしているの」お市は力強く言った。
「この家で、この子たちを守れるのはあなたしかいないの。あなただから頼めるの。お願い。娘たちを守って」
お市のその言葉に、数瞬、お菊は逡巡したが、何かを決意したように唇を結ぶと、力強くうなずいた。
「ありがとう」お市はにっこりと微笑む。
「ほら、お松、お竹、お菊お姉ちゃんのそばにいらっしゃい」
お市は娘を呼んだ。娘たちに語りかける。
「いい?お菊お姉ちゃんのそばから離れちゃだめよ?わかった?」
「うん」
「お菊お姉ちゃんのそばにいる」
娘の答えに満足げにうなずくと、お市はお菊を再び見た。
「お願いね」
「お藤様、お菊に任せておけば、賊は蹴散らせます。仮にここまで賊に襲われたとしても、どうぞご安心ください」
そうお藤に言うと、お市は部屋を出た。向かうは夫、十兵衛の部屋。夫の部屋にある薙刀を前にして、お市は襷がけをする。脳裏には、夫、十兵衛の姿があった。
――お菊も娘たちも傷つけてたまるもんですか。ねぇ、あなた。
お市は薙刀を手に取ると、外に向かった。
柳生門弟出淵平八の目に、薙刀片手にお市が出て来るところが見えた。思わず叫ぶ。
「お市殿!お下がりくだされ!」
その言葉に、お市は怒鳴り返す。
「浅井家のお市殿は立派だったが、柳生の市は頼りない、などと言われては柳生家末代までの恥。下がりませぬぞ。この薙刀にて、賊どもを蹴散らしてくれよう!」
そういってお市は薙刀をしごいた。あまりの剣気に味方敵方両方の動きが一瞬止まる。
「さぁ、柳生十兵衛三厳が室、市がお相手いたそう。命が惜しくなければかかってくるが良い!」
その言葉に呼応して賊が斬りかかる。お市は薙刀を一閃、その首を空に舞わせた。屋敷の廊下――賊より高い位置に陣を取っている――からの薙刀一閃。これは相当な手練でも崩せない位置。どうやら、お市殿には強固な援護は無用なようだ。そう感じた平八は、弓を片手にお市の傍らについた。
「助太刀無用!」お市は叫ぶ。
「助太刀ではありませぬ。私が弓で賊を射止めます。私が討ち漏らした賊を、お市殿、その薙刀で」
お市は平八の意図を理解し、その言葉ににこりとうなずくと、再び薙刀をしごいた。「柳生の庄に刃を向けるとは、どういうことかわかっているのか!わかってなお、その所行なら、こちらも容赦せぬ!」
また、お市の薙刀で、賊の臑が打たれ、その首が飛んだ。平八は、「十兵衛殿は、実に恐ろしい女子を正室にしたものだ」と改めて心の中で思った。これは柳生の男としても負けてはいられない。
柳生の女たちは火矢がついたところに水をかけて鎮火に努めている。柳生の者は男も女も戦における自分の役割を理解していた。「よし、俺も女房に負けず、目一杯働かなければ」平八は自分の妻の行動を見やり、それに負けじと賊に矢を放ち続けた。
平八は、その矢がなくなると「お市殿、御免」と言い残し、刀を抜き賊へと突進していく。今こそ新陰流の鍛錬の成果を見せる時。平八は、柳生家の恩に報いるために自らの身体を投げ出す事しか考えていなかった。
「まったく、いったい何事なんだ」左門の背後で又十郎はつぶやいた。
「兄上が関わっている件、であろうな。前惣目付の本家に刀を向けるなど正気の沙汰とも思えんが……相手はそこまで焦っているのだろう」
又十郎を守る左門が答える。
「兄上の予想を超えた反応、とでも言ったところかな。さて、又十郎……」
又十郎は左門を見た。左門はこちらを振り向き微笑んでいた。
「こ度の件、兄上に責を求めた方がいいであろうかな?」
左門は不敵に微笑む。
又十郎も応えるように笑った。
「兄上に責?さて、なんのことやら。廃嫡になった兄上に柳生の家が、その家を賊が襲ってきた事に責を求めるなど、笑止千万」
「であれば、おそらくは今回の件に絡んでいるであろう、お菊という下女を詰問するかね」左門は言葉を継ぐ。
「何を馬鹿な事を。兄上の家の下女を詰問することなど、思ってもおらぬよ。この賊は我ら『柳生の庄』を襲っている。であるのなら、我らのみで片をつけるが筋であろう。理由はわからねど、実際に我らを襲っている『敵』であるのだ。旅に出ている兄上や、兄上が雇った下女など関係がなかろう。奴らを打ち倒す。それだけだ。兄上にも下女にも是非も無い」
又十郎は笑って答えた。
「……で、あるな」
又十郎の言葉に、左門は嬉しそうに笑った。
賊相手に奮戦している柳生門弟達に向かって、左門の背後にいる又十郎が叫ぶ。
「いいか!賊は撤退させれば良い!深追いするな!討ち死にしようと思うな!かなわぬと思ったら引け!強いものは高弟たちに任せろ!彼らを信頼しろ!お前たちは、この柳生の宝なのだからな!私を置いて黄泉へ行こうなどと思うな!生きることを第一にせよ!」
又十郎の差配を聞き、左門は安心していた。これなら、柳生の庄は守れる、と。みな又十郎を信頼してくれる、と。又十郎の指示に皆安心出来る、と。あとは――その時、左門は、右側前方に酷い瘴気を感じた。同時に、又十郎が佩刀に手をかける。
「又十郎」左門が言う。
「下がっておれ。ぬしが『西江水』を使うまでもない。ただ、私が相手をすべき賊がいる」
そして、左門は叫ぶ。
「又十郎を守れ!又十郎に賊を近づけるな!皆、下がって又十郎を守れ!」
「では、出陣つかまつる」左門は又十郎に振り返り、にっこりと微笑んだ。
――兄上、「本物」がいたようでござるよ。
それは、巨大な塊だった。柳生の庄一番の大男、高科仁衛門ですら見上げないといけない大きさだった。
しかも、間合いが遠い。向こうの斬撃を躱す事が精一杯で、懐に飛び込めない。
横薙ぎの一閃が飛んできた。それを太刀で受けた身体ごと吹き飛ばされる。刀が曲がった。これはもはや尋常の力ではない。
自分の力量では叶わない。それでも、と、仁衛門が覚悟を決めたそのとき。
「仁衛門!下がれ!そいつの相手は私だ!」
その塊と仁衛門の間に左門が割って入った。
「柳生但馬守が次男、左門友矩がお相手いたそう。ぬしの名は?」
「……厳石。俺の通った道には敵の屍しか残らない」塊からくぐもった声が聞こえた。
「奇遇であるな」左門が不敵に笑った。
「私の通った道にも、敵の屍しか残らん」
又十郎のいた位置から、厳石のところに辿り着くまでの間、既に幾人もの賊が血を流し絶命していた。
「厳石!助太刀いたす!」と叫びながら他の賊が左門に襲いかかってくる。
が、左門は厳石の斬撃を躱しつつ、自分に襲いかかってくる賊を一人一人、一太刀で打ち倒していった。左門に斬りかかる賊の腕が、胴が、首が、血しぶきが、左門の周りで舞う。
「……邪魔は控えよ。力のない者は逃げた方が身のため」
左門は不敵に笑った。
その左門を捉えようと、厳石の剣が、縦に横に神速で繰り出される。が、その全てを微笑みながら難なく躱す左門。あたかも、風に揺れる柳の枝のように、とらえどころがない。厳石の剣は空を切るのみだった。
厳石は、左門の笑みが鬼のそれに見えた。
――こやつ、何者だ!これは……これは一体なんなんだ!
そうして、いつしか、左門のまわりには賊の屍しかいなくなった。左門の眼前に残るは、厳石ただ一人。
「……やっと、邪魔が失せたようでござるな。これで……」多数の返り血を浴びた左門は顔を拭い、再び悪鬼のような笑みを浮かべる。
「ぬしと一対一で戦える、というもの」
左門のその凄惨な笑みは、厳石や他の賊だけでなく、その場に居合わせた柳生高弟すら凍りつかせた。
「……私は労咳の身でな」左門の口角が上がる。まるで悪鬼羅刹のように。
「長期戦はあまり得意ではない」
そして、左門は再び厳石を見る。左門を見る厳石の表情は、すでに恐怖により強ばっていた。
「仕合いは短期で済まさせていただきたいと思うが、よろしいか?」
左門は再び悪鬼のような笑顔を浮かべた。
狂おしいまでの緊張に耐えられなかったのか、厳石は咆哮を上げた。空気が震える。同時に、大上段からの渾身の、神速の一撃を左門に打ち据えた。
柳生高弟すらその太刀筋が見えなかった。一瞬にして上段から地面を突き通す高速の太刀。その場にいる誰もが、「左門が唐竹に斬られた」と見えた。
しかし。
一寸の間もなく、左門はその斬撃を躱していた。厳石の太刀は左門に触れることなく地面を叩いていた。まさに「寸毫の見切り」。
左門が再びニヤリと笑う。
次の瞬間、左門の菊一文字則宗が、厳石の首元をかすめた。その白刃のきらめきを、何人の目が目撃していたか。
ただ、周りのものの目に映ったのは、大上段からの神速の斬撃の後、その斬撃を放った主の首が、盛大な血しぶきとともに宙を舞った、面妖な光景であった。
そして、首を失った厳石の身体は、膝を折り、力なく後ろに倒れる。
その影から現れる、柳生左門友矩。
自らの血は一滴も付いていない。その白き衣を朱に染めているのは全て、打ち倒した敵の返り血だった。
――これが、左門様の技倆……。
我々とはまるで異なる次元の太刀捌き。圧倒的に異なる技倆の剣技。同じ柳生新陰流とは思えないその異能の力。そこにいる柳生高弟の全員が、左門の「化物」としか言えないその見えない太刀筋に戦慄した。ましてや、柳生の庄を襲った賊は、言うに及ばず。
「た……退却だ!」
厳石が攻撃の切り札だったのか、その厳石が打ち倒されたのを目の当たりにし、賊の頭目と思われる人物が叫び声をあげた。その声に合わせて、賊たちはうってかわって山門に向かい、柳生の庄から退散する。
それを追い打ちしようとする柳生の者を、左門は手を挙げて制止した。
「又十郎を守れ。賊を殲滅する必要はない」
敵の血によって朱に染まった左門の怜悧なその声に、柳生門弟全てが恐怖し、従った。今の左門の言葉に逆らうなど考えられない。そういう状況であった。
「左門……」周囲の門弟が左門に恐れおののいているなか、又十郎が左門に近づいた。
「又十郎。私は兄上との約束を守った。ただそれだけだ」そう言って振り向く左門。そこには、悪鬼羅刹のごとき鬼神の表情はなく、いつもの、優しい左門の笑顔があった。
「左門……お主……」又十郎が左門に近づく。と同時に、左門は身体の力が抜けたように崩れ折れた。
「左門!」又十郎は左門に駆け寄り、抱き抱える。左門の顔からは、血色が失せ、死人のような青白い顔になっていた。
「左門!左門!」又十郎の言葉に、左門は答える。
「又十郎……少し、身体に無理をかけてしまったようだ……兄上には会えぬかもしれん。兄上に……兄上に……約束は守った、と伝えてくれ」
左門が咳き込む。同時に左門の口から、とめどなく大量の血が溢れてきた。
「又十郎……兄上……約束通り、柳生の庄は守りましたぞ……又十郎……兄上に、この則宗を……」
左門は、又十郎に、己の太刀「菊一文字則宗」を託した。菊一文字則宗を受け取る又十郎を見て、左門は満足げな笑みを浮かべる。己が魂を兄に預けられると信じて。それが柳生左門友矩の最期の顔だった。その微笑みは、鬼神のような剣技を見せ、敵の返り血にまみれた死人とは思えない穏やかな表情であった。
「左門……」又十郎の噛み締めた口から、かすかに漏れた音は、柳生の庄、すべての人間の声を代弁しているものであった。
――あれ?あれはなんだかおかしいぞ?
そう思い、平太は、友人たちから離れ、半鐘に登った。
――間違えてたなら、あとで俺が怒られれば良い!それよりも!
平太は半鐘を思いっきり叩いた。
その音が柳生の庄に鳴り響いた次の瞬間。平太に向けて、馬群から一筋の矢が飛び、平太を地面へとたたき落とした。
それが、甲賀忍軍の襲撃の合図であった。
柳生の庄はその山門の造りから、一度に大量の馬が侵入出来ないようになっている。賊は、なんとか馬で乗り入れようとしていたが、それを諦め、槍や太刀を片手に侵入してきた。後ろに控えている者は火矢を繰り出してくる。それらの賊を迎え撃つは柳生新陰流門弟たち。理由は解らねど、この柳生に刃を向ける賊は我々が屠る。「十兵衛様が出立前におっしゃってたのはこの事だったのか」と村田与三は腹をくくった。十兵衛様にこの庄を任せられた以上、柳生の庄に被害など与えてたまるものか。と、門弟の誰もが思っていた。門弟たちの手の白刃がゆっくりときらめいた。
柳生門弟と賊との戦いを、お市は遠巻きに見ていた。傍らには娘たちとお菊。
「お菊」お市は静かに尋ねた。「あの賊の中に、あなたの見知ってる顔はいる?」
「ううん」お菊は泣きそうだった。自分が疑われていると。自分が疑われているのだと思った。「知らない。あの人たちを私は知らない。お市様、信じてください」
お市はにっこりと笑ってお菊の頭をなでた。
「誰もあなたが内通したなんて思ってませんよ。あなたはそんな子じゃないもの。ただ、あの賊の正体を、あなたが知っているか知りたかっただけ」
そう言って、お市は、お菊と娘を連れて外に出た。大屋敷、但馬守の屋敷に行く。
「お藤様!」お市は声を張り上げた。「どちらにいらっしゃいますか?」
「お市殿!」屋敷の奥から声が聞こえた。そちらにお市は向かう。ついでお菊と娘たちが続く。
お藤は屋敷の奥に息子と一緒にいた。お藤は脅えていた。それに感化されたのか、四歳になる息子の六丸はお藤にしがみつき、今にも泣きそうであった。
「お藤様」お市はほっとして言った。「ご無事でしたか」
「えぇ」お藤は震えながら言った。「何事でございますの?この騒ぎは?」
「賊が柳生の庄を襲っているようでございます」お市は淡々と答える。「柳生門弟たちが奮戦しておりますので、ここまで賊が来る事はないかと思われますが――」そう言ってお市はお菊を見た。
「万が一のための懐刀をお持ちしました」お市はにっこりと微笑む。
「お菊」振り向いてお市は言った。「お藤様と、娘たちの守り、頼みますよ」と一振りの刀を渡す。
「えっ」お菊は驚く。
「……私に任せて……いいんですか?」
「お菊。あなただからお願いしているの」お市は力強く言った。
「この家で、この子たちを守れるのはあなたしかいないの。あなただから頼めるの。お願い。娘たちを守って」
お市のその言葉に、数瞬、お菊は逡巡したが、何かを決意したように唇を結ぶと、力強くうなずいた。
「ありがとう」お市はにっこりと微笑む。
「ほら、お松、お竹、お菊お姉ちゃんのそばにいらっしゃい」
お市は娘を呼んだ。娘たちに語りかける。
「いい?お菊お姉ちゃんのそばから離れちゃだめよ?わかった?」
「うん」
「お菊お姉ちゃんのそばにいる」
娘の答えに満足げにうなずくと、お市はお菊を再び見た。
「お願いね」
「お藤様、お菊に任せておけば、賊は蹴散らせます。仮にここまで賊に襲われたとしても、どうぞご安心ください」
そうお藤に言うと、お市は部屋を出た。向かうは夫、十兵衛の部屋。夫の部屋にある薙刀を前にして、お市は襷がけをする。脳裏には、夫、十兵衛の姿があった。
――お菊も娘たちも傷つけてたまるもんですか。ねぇ、あなた。
お市は薙刀を手に取ると、外に向かった。
柳生門弟出淵平八の目に、薙刀片手にお市が出て来るところが見えた。思わず叫ぶ。
「お市殿!お下がりくだされ!」
その言葉に、お市は怒鳴り返す。
「浅井家のお市殿は立派だったが、柳生の市は頼りない、などと言われては柳生家末代までの恥。下がりませぬぞ。この薙刀にて、賊どもを蹴散らしてくれよう!」
そういってお市は薙刀をしごいた。あまりの剣気に味方敵方両方の動きが一瞬止まる。
「さぁ、柳生十兵衛三厳が室、市がお相手いたそう。命が惜しくなければかかってくるが良い!」
その言葉に呼応して賊が斬りかかる。お市は薙刀を一閃、その首を空に舞わせた。屋敷の廊下――賊より高い位置に陣を取っている――からの薙刀一閃。これは相当な手練でも崩せない位置。どうやら、お市殿には強固な援護は無用なようだ。そう感じた平八は、弓を片手にお市の傍らについた。
「助太刀無用!」お市は叫ぶ。
「助太刀ではありませぬ。私が弓で賊を射止めます。私が討ち漏らした賊を、お市殿、その薙刀で」
お市は平八の意図を理解し、その言葉ににこりとうなずくと、再び薙刀をしごいた。「柳生の庄に刃を向けるとは、どういうことかわかっているのか!わかってなお、その所行なら、こちらも容赦せぬ!」
また、お市の薙刀で、賊の臑が打たれ、その首が飛んだ。平八は、「十兵衛殿は、実に恐ろしい女子を正室にしたものだ」と改めて心の中で思った。これは柳生の男としても負けてはいられない。
柳生の女たちは火矢がついたところに水をかけて鎮火に努めている。柳生の者は男も女も戦における自分の役割を理解していた。「よし、俺も女房に負けず、目一杯働かなければ」平八は自分の妻の行動を見やり、それに負けじと賊に矢を放ち続けた。
平八は、その矢がなくなると「お市殿、御免」と言い残し、刀を抜き賊へと突進していく。今こそ新陰流の鍛錬の成果を見せる時。平八は、柳生家の恩に報いるために自らの身体を投げ出す事しか考えていなかった。
「まったく、いったい何事なんだ」左門の背後で又十郎はつぶやいた。
「兄上が関わっている件、であろうな。前惣目付の本家に刀を向けるなど正気の沙汰とも思えんが……相手はそこまで焦っているのだろう」
又十郎を守る左門が答える。
「兄上の予想を超えた反応、とでも言ったところかな。さて、又十郎……」
又十郎は左門を見た。左門はこちらを振り向き微笑んでいた。
「こ度の件、兄上に責を求めた方がいいであろうかな?」
左門は不敵に微笑む。
又十郎も応えるように笑った。
「兄上に責?さて、なんのことやら。廃嫡になった兄上に柳生の家が、その家を賊が襲ってきた事に責を求めるなど、笑止千万」
「であれば、おそらくは今回の件に絡んでいるであろう、お菊という下女を詰問するかね」左門は言葉を継ぐ。
「何を馬鹿な事を。兄上の家の下女を詰問することなど、思ってもおらぬよ。この賊は我ら『柳生の庄』を襲っている。であるのなら、我らのみで片をつけるが筋であろう。理由はわからねど、実際に我らを襲っている『敵』であるのだ。旅に出ている兄上や、兄上が雇った下女など関係がなかろう。奴らを打ち倒す。それだけだ。兄上にも下女にも是非も無い」
又十郎は笑って答えた。
「……で、あるな」
又十郎の言葉に、左門は嬉しそうに笑った。
賊相手に奮戦している柳生門弟達に向かって、左門の背後にいる又十郎が叫ぶ。
「いいか!賊は撤退させれば良い!深追いするな!討ち死にしようと思うな!かなわぬと思ったら引け!強いものは高弟たちに任せろ!彼らを信頼しろ!お前たちは、この柳生の宝なのだからな!私を置いて黄泉へ行こうなどと思うな!生きることを第一にせよ!」
又十郎の差配を聞き、左門は安心していた。これなら、柳生の庄は守れる、と。みな又十郎を信頼してくれる、と。又十郎の指示に皆安心出来る、と。あとは――その時、左門は、右側前方に酷い瘴気を感じた。同時に、又十郎が佩刀に手をかける。
「又十郎」左門が言う。
「下がっておれ。ぬしが『西江水』を使うまでもない。ただ、私が相手をすべき賊がいる」
そして、左門は叫ぶ。
「又十郎を守れ!又十郎に賊を近づけるな!皆、下がって又十郎を守れ!」
「では、出陣つかまつる」左門は又十郎に振り返り、にっこりと微笑んだ。
――兄上、「本物」がいたようでござるよ。
それは、巨大な塊だった。柳生の庄一番の大男、高科仁衛門ですら見上げないといけない大きさだった。
しかも、間合いが遠い。向こうの斬撃を躱す事が精一杯で、懐に飛び込めない。
横薙ぎの一閃が飛んできた。それを太刀で受けた身体ごと吹き飛ばされる。刀が曲がった。これはもはや尋常の力ではない。
自分の力量では叶わない。それでも、と、仁衛門が覚悟を決めたそのとき。
「仁衛門!下がれ!そいつの相手は私だ!」
その塊と仁衛門の間に左門が割って入った。
「柳生但馬守が次男、左門友矩がお相手いたそう。ぬしの名は?」
「……厳石。俺の通った道には敵の屍しか残らない」塊からくぐもった声が聞こえた。
「奇遇であるな」左門が不敵に笑った。
「私の通った道にも、敵の屍しか残らん」
又十郎のいた位置から、厳石のところに辿り着くまでの間、既に幾人もの賊が血を流し絶命していた。
「厳石!助太刀いたす!」と叫びながら他の賊が左門に襲いかかってくる。
が、左門は厳石の斬撃を躱しつつ、自分に襲いかかってくる賊を一人一人、一太刀で打ち倒していった。左門に斬りかかる賊の腕が、胴が、首が、血しぶきが、左門の周りで舞う。
「……邪魔は控えよ。力のない者は逃げた方が身のため」
左門は不敵に笑った。
その左門を捉えようと、厳石の剣が、縦に横に神速で繰り出される。が、その全てを微笑みながら難なく躱す左門。あたかも、風に揺れる柳の枝のように、とらえどころがない。厳石の剣は空を切るのみだった。
厳石は、左門の笑みが鬼のそれに見えた。
――こやつ、何者だ!これは……これは一体なんなんだ!
そうして、いつしか、左門のまわりには賊の屍しかいなくなった。左門の眼前に残るは、厳石ただ一人。
「……やっと、邪魔が失せたようでござるな。これで……」多数の返り血を浴びた左門は顔を拭い、再び悪鬼のような笑みを浮かべる。
「ぬしと一対一で戦える、というもの」
左門のその凄惨な笑みは、厳石や他の賊だけでなく、その場に居合わせた柳生高弟すら凍りつかせた。
「……私は労咳の身でな」左門の口角が上がる。まるで悪鬼羅刹のように。
「長期戦はあまり得意ではない」
そして、左門は再び厳石を見る。左門を見る厳石の表情は、すでに恐怖により強ばっていた。
「仕合いは短期で済まさせていただきたいと思うが、よろしいか?」
左門は再び悪鬼のような笑顔を浮かべた。
狂おしいまでの緊張に耐えられなかったのか、厳石は咆哮を上げた。空気が震える。同時に、大上段からの渾身の、神速の一撃を左門に打ち据えた。
柳生高弟すらその太刀筋が見えなかった。一瞬にして上段から地面を突き通す高速の太刀。その場にいる誰もが、「左門が唐竹に斬られた」と見えた。
しかし。
一寸の間もなく、左門はその斬撃を躱していた。厳石の太刀は左門に触れることなく地面を叩いていた。まさに「寸毫の見切り」。
左門が再びニヤリと笑う。
次の瞬間、左門の菊一文字則宗が、厳石の首元をかすめた。その白刃のきらめきを、何人の目が目撃していたか。
ただ、周りのものの目に映ったのは、大上段からの神速の斬撃の後、その斬撃を放った主の首が、盛大な血しぶきとともに宙を舞った、面妖な光景であった。
そして、首を失った厳石の身体は、膝を折り、力なく後ろに倒れる。
その影から現れる、柳生左門友矩。
自らの血は一滴も付いていない。その白き衣を朱に染めているのは全て、打ち倒した敵の返り血だった。
――これが、左門様の技倆……。
我々とはまるで異なる次元の太刀捌き。圧倒的に異なる技倆の剣技。同じ柳生新陰流とは思えないその異能の力。そこにいる柳生高弟の全員が、左門の「化物」としか言えないその見えない太刀筋に戦慄した。ましてや、柳生の庄を襲った賊は、言うに及ばず。
「た……退却だ!」
厳石が攻撃の切り札だったのか、その厳石が打ち倒されたのを目の当たりにし、賊の頭目と思われる人物が叫び声をあげた。その声に合わせて、賊たちはうってかわって山門に向かい、柳生の庄から退散する。
それを追い打ちしようとする柳生の者を、左門は手を挙げて制止した。
「又十郎を守れ。賊を殲滅する必要はない」
敵の血によって朱に染まった左門の怜悧なその声に、柳生門弟全てが恐怖し、従った。今の左門の言葉に逆らうなど考えられない。そういう状況であった。
「左門……」周囲の門弟が左門に恐れおののいているなか、又十郎が左門に近づいた。
「又十郎。私は兄上との約束を守った。ただそれだけだ」そう言って振り向く左門。そこには、悪鬼羅刹のごとき鬼神の表情はなく、いつもの、優しい左門の笑顔があった。
「左門……お主……」又十郎が左門に近づく。と同時に、左門は身体の力が抜けたように崩れ折れた。
「左門!」又十郎は左門に駆け寄り、抱き抱える。左門の顔からは、血色が失せ、死人のような青白い顔になっていた。
「左門!左門!」又十郎の言葉に、左門は答える。
「又十郎……少し、身体に無理をかけてしまったようだ……兄上には会えぬかもしれん。兄上に……兄上に……約束は守った、と伝えてくれ」
左門が咳き込む。同時に左門の口から、とめどなく大量の血が溢れてきた。
「又十郎……兄上……約束通り、柳生の庄は守りましたぞ……又十郎……兄上に、この則宗を……」
左門は、又十郎に、己の太刀「菊一文字則宗」を託した。菊一文字則宗を受け取る又十郎を見て、左門は満足げな笑みを浮かべる。己が魂を兄に預けられると信じて。それが柳生左門友矩の最期の顔だった。その微笑みは、鬼神のような剣技を見せ、敵の返り血にまみれた死人とは思えない穏やかな表情であった。
「左門……」又十郎の噛み締めた口から、かすかに漏れた音は、柳生の庄、すべての人間の声を代弁しているものであった。
0
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
焔と華 ―信長と帰蝶の恋―
幸
歴史・時代
うつけと呼ばれた男――織田信長。
政略の華とされた女――帰蝶(濃姫)。
冷えた政略結婚から始まったふたりの関係は、やがて本物の愛へと変わっていく。
戦乱の世を駆け抜けた「焔」と「華」の、儚くも燃え上がる恋の物語。
※全編チャットGPTにて生成しています
加筆修正しています
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる