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其之十五:十兵衛の帰還―柳生の庄にて―
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俺は馬を走らせ、急ぎ柳生の庄へ戻っていた。
柳生の庄の山門は、焼けこげや傷はあるものの、おおむね、問題ないようだった。
誰かが声を上げた。子供の声だった。
「十兵衛様が帰ってきたぞ!」
あぁ、子どもたちが無事だ。西江の子も、荘田の子も。子たちが無事であるということは、左門も又十郎もその役目をやり遂げたのだろう。俺は幾分安堵した。
「十兵衛様、村田様のところにいってあげてください」
「どうしたのだ?」
「平太が、賊の矢を受けて……」声がだんだんか細くなり、泣き声へと変わっていく。
俺はその子を抱き上げて、村田与三の家へと急いだ。
「平太!」俺は、入るなり、平太が怪我人である事も忘れて大音声で言った。
村田与三が、安堵とも不安とも取れる表情で俺を見る。
「十兵衛様……」平太の母親は今にも泣きそうだ。
俺は取る物も取り敢えず、布団で横になっている平太のそばにいった。
肩を負傷している。熱があるようだが、毒によるものではないらしい。命に関わる事態ではなさそうだが、なにぶん子供の体力だ、何が致命傷になるかわからない。
「傷はこれだけか?」母親に尋ねる。母親は、手ぬぐいで涙を拭いつつ、うなずいた。
そのとき、
「……十兵衛様?……」平太が目を開けた。
「坊、無理するでない。ぬしは怪我をしておる。動くな。今はしっかりと休む事じゃ」俺は言った。子供にまで危害を加える敵への憤怒を抑えつつ、静かに静かに。
「十兵衛様。あいつら、いきなり襲ってきたんだ。だから、俺は、俺はどうにかしたくて……」平太の目に涙がたまる。俺は頭を振った。
「もういい。それ以上言わなくていい。ぬしの活躍で、柳生の庄は無傷じゃ。安心して、傷を治す事に専念するがいい」
「本当?本当に、何ともなかったの?」
「あぁ」俺は精一杯の笑みで答えた。「この十兵衛、嘘を申した事があるか?」
平太は笑って答えた。「十兵衛様はいつも嘘ばかり言うじゃありませんか」
こやつ、との頭をなでた。大事ない。これだけの元気があれば、平太は元通り回復するだろう。何かあればすぐ連絡するよう言付けて、俺は村田与三の家を辞した。
そういえば、こういう事態には真っ先に駆けつけ、怪我人の介護をしているはずのお市の姿が見えない。いつもなら、平太の看病をしていてもおかしくはないのだ。俺は不安になって、家へ駆けつけた。
俺の家は……静かだった。攻撃を受けた様子も無い。燃えていたと思われる箇所も無い。ただ、静かだった。
門をくぐり、玄関に入る。無音。「誰か。誰かおらぬか」
その声に、まず、娘二人が駆け寄ってきた。今にも泣きそうな顔であった。一言も発しない。娘の後を追うようにお菊が俺にかけよる。「お市様が……お市様が……」それ以上は嗚咽に変わって聞き取れない。
俺は、お市の寝室に駆け込んだ。
お市が横になっていた。静かな表情で。まるで生きているかのように。白く美しい顔で。
「……お市……」俺は、お市のそばに近づいた。眼前で頭を足れる。
「俺が、俺がいれば、おぬしをこんな目に遭わす事はなかっただろうに……」
「お市ーッ!」
俺は心の限り叫んだ。誰よりも愛しい妻、愛しい人、お市。その亡骸が目の前に――
「あなた。耳元で騒がれてはうるさくて眠れやしませんよ」
お市の亡骸が不意に言葉を発した。
お市は横になったまま言葉を継ぐ。
「不覚を取りました。賊の矢を一撃受けてしまいました。柳生十兵衛の妻として、一生の不覚」お市は悔しさに歯がみした。
俺は、お市にすりより、どこに矢を受けたのかと尋ねた。
「右肩にございます」どこかしょんぼりとしたお市。「柳生十兵衛の妻として、玉の肌を守るつもりが、賊ごときに傷を付けられてしまいました。なんたる屈辱」お市の両肩が震える。「この傷のせいで、庄の中の怪我人を助けにいくこともできませぬ。それでは、皆に顔向けが――」
俺は、その肩を掴み、人目もはばからずお市を抱きしめた。
「矢傷ごときで、おぬしの美しさは微塵も変わらぬ。気にするでない。気にするでない。そんなことより、この柳生の庄を守ってくれたおぬしに、俺は頭が上がらぬ。ありがとう。ありがとう」
「おぬしを失う悲しみに比べたら、矢傷の一つや二つなんのことがある。俺はそれごとおぬしを愛してみせる。頼む。俺より先に逝かないでくれ」
俺は、お市を抱きしめながら、泣いていた。お市が生きている。今、生きて俺の腕の中にいる。これほど嬉しい事はなかった。
「あなた、そんな風にされると肩の傷が、痛いではありませんか」
そんな言葉を聞きながら、俺はお市を抱きしめ続けた。
しかし、悲しい現実を、俺は又十郎から聞くことになった。
左門の死――それは鬼神のごとき働きで、この柳生の庄を救い、最大の敵を倒してから逝った、とのことだった。最期まで、俺との約束を守った、愛しき弟の死であった。
「又十郎」俺は静かに言った。「左門の死に顔はどうだった?」
「満足げな死に顔でしたよ。まるで、己の使命を全うしたかのような……」
「そうか……」そう言うと、俺と又十郎は、左門の墓前で黙した。最期の時まで柳生新陰流であった男。疾風のようにその美しき剣を見せた男。おそらく、労咳にならずに生きながらえることがあれば、俺ごときなど軽く、さらには尾張の兵庫助殿、伝説の「剣聖」石舟斎すら越える事ができたかもしれない孤高の天才の死――
俺も、又十郎も、左門に対して思う気持ちは、一言では語り尽くせない。
ただ、柳生の庄に死者が出なかったのも、平太やお市の命を救ったのも、お藤殿や六丸が無事だったのも、又十郎の差配だけでなく、左門の活躍があればこそ、だったのだろう。
「ありがとう」と、感謝の言葉を俺は心の中でつぶやいた。
「……左門は、兄上に、これを託された」
俺の目の前には、左門の愛刀「菊一文字則宗」が。
「……おそらくは、これからの兄上の道程において、この刀が必要になると思ったのでしょう。典太一振りでは、心もとないと」
又十郎が、菊一文字則宗を俺に差し出す。
「兄上。脇でも構いません。左門の心を察してくだされば……」
俺は首を横に振った。驚く又十郎。
「兄上!左門の願いは聞き入れられないとおっしゃるのですか!」
俺は再度首を横に振った。
「又十郎、それを受け取るわけにはいかんのだ。左門の心がわかるからこそ、なおさら、俺はそれを受け取れん。それに」
俺は左門の菊一文字則宗を見た。名刀である。名刀であるが故に――
「……それに、この典太を欠けさせる事があって、それ故に俺が命を落とす事があったとしても、そのときは俺自身の技量の低さを悔やめば良いだけだ。だが、左門の則宗を持ってしてそのような事になったら、それこそ、俺は一生をかけても悔やみきれない思いを持つ事になる。そんな重荷は引き受けたくない」
俺は、ふと、江戸の事を思い出した。おそらく、我々以上に左門の死を悲しむ人間が、江戸にいるではないか。しかし、あの方にも菊一文字則宗は重すぎるだろう。
「又十郎」
「なんでございましょうか、兄上」
「……左門の脇差を、江戸に送ってはくれまいか」
「脇差を、ですか?」
「江戸には、俺たち同様に、いや、それ以上に左門の死を悲しむ人がいるだろう」
「……あぁ!」
「形見分け、として、脇差をお渡ししても良かろう。則宗は重すぎるかもしれん。が、何も渡さないのは……」
「兄上の差配、承りました」又十郎は頭を下げた。「左門の脇差と髪の一房、江戸にお送りしようかと思います。それでお上の……」
「……それ以上は言うな。名は出すでない」
「左門の則宗はいかが致しますか?」又十郎が問いかける。
「……その太刀を引き継ぐべき人物は、この大和柳生の家督を継ぐ、おぬし、柳生宗冬しかおらん。俺のような、廃嫡になったものが受け取ってはおかしな話であろう」
そして、俺は腰の太刀を触れ、言葉を継ぐ。
「この典太をもってしても、この俺が破れるようであれば、俺は所詮その程度の男だったという事だ。この相棒と死ねるのなら、それほど悪くない人生だ。こ度の件は、そういうことなのだ。柳生の家を巻き込む事はまかりならん。俺、柳生十兵衛三厳個人の問題にしかすぎん。そう思わぬか、左門」
そして、俺は左門の墓前で大きく声を出して笑った。左門の心に届くようにと。左門の想いは受け取った。それで十分だ。左門の太刀まで受け取るわけにはいかん。お前の気持ちだけで十分なのだ。俺はそう思いながら笑った。俺の涙を隠すほどに。
「お菊」家に戻り、お菊に二本の棒手裏剣を渡した。
「使いやすい方で俺を狙ってみろ」
数瞬後、お菊の右手が煌めく。
俺に向かってくるそれを俺はなんとか受け止めた。「お菊。少しは加減せい」俺は笑った。やはり、この娘の技倆は並ではない。俺を襲う刺客に選ばれるのもうなずける。
お菊の投げた棒手裏剣。それはやはり伊賀のものであった。
もう一本もお菊に投げてもらい、俺は江戸への出立の準備にかかった。お市の病状は非常に気になるが、そんなことをおくびにでも出したら、逆にお市に何を言われるか、わかったものではない。お市の事はお菊に任せるのが吉だ。お菊はその信頼に応えてくれる。
「お菊。お市と娘たちのこと、よろしく頼むぞ。俺は、お前との約束を果たしに、再び江戸に行ってくる」そういって、お菊の頭を撫でた。
お菊は、ただ黙ってうなずいた。それは信頼に足る首肯であった。
「これはこれは、十兵衛様」俺は、柳生の庄を出、東海道に差し掛かったところで声をかけられた。見ると、木村助九郎殿が馬上にあった。背後には江戸柳生門弟が二十名ほど。全員が戦装備であった。
「……助九郎殿、何事でござるか。これはいったい」
すると、助九郎殿が呆れたように言った。「左門様の弔い戦でござるよ。先日、柳生の庄を襲ったのは甲賀者と聞いて。まずはその事を左門様の墓前に報告し、その後、甲賀の里に向かう予定でござる」
「甲賀に?」俺が出立しようとする前に親父殿が命を江戸柳生に出すとは珍しい。素早い沙汰だな……家光公直々の命だろうか。左門の死が理由であれば、そうなのかもしれない。
「……そうか、ぬしらが左門の仇を討ってくれるか」俺は言った。助九郎殿が先陣を切るのならば、頭領のいないあの腑抜けた甲賀を全滅させる事などいとも容易いであろう。俺の出る幕すらなかろう。ここは引いておいて――
「ならば、助九郎殿、左門の仇をお願いするよ。俺は――」助九郎殿に伝えた。
「江戸に行ってくるよ」
「……そうでござるか。では、左門様の仇は我々に任せられい」俺の言葉に、どこか納得していない助九郎殿ではあったが、親父殿の指示を優先したようだ。馬首を柳生の庄に向け走らせた。それに続く江戸柳生門弟たち。
――これで甲賀の方は片付けられるか。では、俺は、江戸に行って、伊賀者を片付けてくるか。
俺は改めて東へと足を向けた。
お菊が投げたのは伊賀の棒手裏剣だった。ならば、江戸の伊賀者のところに行かなくてはなるまい。そこにお菊の父親がいるのだから。左門は俺との約束を守った。ならば、俺は、お菊との約束を守らねばならん。
柳生の庄の山門は、焼けこげや傷はあるものの、おおむね、問題ないようだった。
誰かが声を上げた。子供の声だった。
「十兵衛様が帰ってきたぞ!」
あぁ、子どもたちが無事だ。西江の子も、荘田の子も。子たちが無事であるということは、左門も又十郎もその役目をやり遂げたのだろう。俺は幾分安堵した。
「十兵衛様、村田様のところにいってあげてください」
「どうしたのだ?」
「平太が、賊の矢を受けて……」声がだんだんか細くなり、泣き声へと変わっていく。
俺はその子を抱き上げて、村田与三の家へと急いだ。
「平太!」俺は、入るなり、平太が怪我人である事も忘れて大音声で言った。
村田与三が、安堵とも不安とも取れる表情で俺を見る。
「十兵衛様……」平太の母親は今にも泣きそうだ。
俺は取る物も取り敢えず、布団で横になっている平太のそばにいった。
肩を負傷している。熱があるようだが、毒によるものではないらしい。命に関わる事態ではなさそうだが、なにぶん子供の体力だ、何が致命傷になるかわからない。
「傷はこれだけか?」母親に尋ねる。母親は、手ぬぐいで涙を拭いつつ、うなずいた。
そのとき、
「……十兵衛様?……」平太が目を開けた。
「坊、無理するでない。ぬしは怪我をしておる。動くな。今はしっかりと休む事じゃ」俺は言った。子供にまで危害を加える敵への憤怒を抑えつつ、静かに静かに。
「十兵衛様。あいつら、いきなり襲ってきたんだ。だから、俺は、俺はどうにかしたくて……」平太の目に涙がたまる。俺は頭を振った。
「もういい。それ以上言わなくていい。ぬしの活躍で、柳生の庄は無傷じゃ。安心して、傷を治す事に専念するがいい」
「本当?本当に、何ともなかったの?」
「あぁ」俺は精一杯の笑みで答えた。「この十兵衛、嘘を申した事があるか?」
平太は笑って答えた。「十兵衛様はいつも嘘ばかり言うじゃありませんか」
こやつ、との頭をなでた。大事ない。これだけの元気があれば、平太は元通り回復するだろう。何かあればすぐ連絡するよう言付けて、俺は村田与三の家を辞した。
そういえば、こういう事態には真っ先に駆けつけ、怪我人の介護をしているはずのお市の姿が見えない。いつもなら、平太の看病をしていてもおかしくはないのだ。俺は不安になって、家へ駆けつけた。
俺の家は……静かだった。攻撃を受けた様子も無い。燃えていたと思われる箇所も無い。ただ、静かだった。
門をくぐり、玄関に入る。無音。「誰か。誰かおらぬか」
その声に、まず、娘二人が駆け寄ってきた。今にも泣きそうな顔であった。一言も発しない。娘の後を追うようにお菊が俺にかけよる。「お市様が……お市様が……」それ以上は嗚咽に変わって聞き取れない。
俺は、お市の寝室に駆け込んだ。
お市が横になっていた。静かな表情で。まるで生きているかのように。白く美しい顔で。
「……お市……」俺は、お市のそばに近づいた。眼前で頭を足れる。
「俺が、俺がいれば、おぬしをこんな目に遭わす事はなかっただろうに……」
「お市ーッ!」
俺は心の限り叫んだ。誰よりも愛しい妻、愛しい人、お市。その亡骸が目の前に――
「あなた。耳元で騒がれてはうるさくて眠れやしませんよ」
お市の亡骸が不意に言葉を発した。
お市は横になったまま言葉を継ぐ。
「不覚を取りました。賊の矢を一撃受けてしまいました。柳生十兵衛の妻として、一生の不覚」お市は悔しさに歯がみした。
俺は、お市にすりより、どこに矢を受けたのかと尋ねた。
「右肩にございます」どこかしょんぼりとしたお市。「柳生十兵衛の妻として、玉の肌を守るつもりが、賊ごときに傷を付けられてしまいました。なんたる屈辱」お市の両肩が震える。「この傷のせいで、庄の中の怪我人を助けにいくこともできませぬ。それでは、皆に顔向けが――」
俺は、その肩を掴み、人目もはばからずお市を抱きしめた。
「矢傷ごときで、おぬしの美しさは微塵も変わらぬ。気にするでない。気にするでない。そんなことより、この柳生の庄を守ってくれたおぬしに、俺は頭が上がらぬ。ありがとう。ありがとう」
「おぬしを失う悲しみに比べたら、矢傷の一つや二つなんのことがある。俺はそれごとおぬしを愛してみせる。頼む。俺より先に逝かないでくれ」
俺は、お市を抱きしめながら、泣いていた。お市が生きている。今、生きて俺の腕の中にいる。これほど嬉しい事はなかった。
「あなた、そんな風にされると肩の傷が、痛いではありませんか」
そんな言葉を聞きながら、俺はお市を抱きしめ続けた。
しかし、悲しい現実を、俺は又十郎から聞くことになった。
左門の死――それは鬼神のごとき働きで、この柳生の庄を救い、最大の敵を倒してから逝った、とのことだった。最期まで、俺との約束を守った、愛しき弟の死であった。
「又十郎」俺は静かに言った。「左門の死に顔はどうだった?」
「満足げな死に顔でしたよ。まるで、己の使命を全うしたかのような……」
「そうか……」そう言うと、俺と又十郎は、左門の墓前で黙した。最期の時まで柳生新陰流であった男。疾風のようにその美しき剣を見せた男。おそらく、労咳にならずに生きながらえることがあれば、俺ごときなど軽く、さらには尾張の兵庫助殿、伝説の「剣聖」石舟斎すら越える事ができたかもしれない孤高の天才の死――
俺も、又十郎も、左門に対して思う気持ちは、一言では語り尽くせない。
ただ、柳生の庄に死者が出なかったのも、平太やお市の命を救ったのも、お藤殿や六丸が無事だったのも、又十郎の差配だけでなく、左門の活躍があればこそ、だったのだろう。
「ありがとう」と、感謝の言葉を俺は心の中でつぶやいた。
「……左門は、兄上に、これを託された」
俺の目の前には、左門の愛刀「菊一文字則宗」が。
「……おそらくは、これからの兄上の道程において、この刀が必要になると思ったのでしょう。典太一振りでは、心もとないと」
又十郎が、菊一文字則宗を俺に差し出す。
「兄上。脇でも構いません。左門の心を察してくだされば……」
俺は首を横に振った。驚く又十郎。
「兄上!左門の願いは聞き入れられないとおっしゃるのですか!」
俺は再度首を横に振った。
「又十郎、それを受け取るわけにはいかんのだ。左門の心がわかるからこそ、なおさら、俺はそれを受け取れん。それに」
俺は左門の菊一文字則宗を見た。名刀である。名刀であるが故に――
「……それに、この典太を欠けさせる事があって、それ故に俺が命を落とす事があったとしても、そのときは俺自身の技量の低さを悔やめば良いだけだ。だが、左門の則宗を持ってしてそのような事になったら、それこそ、俺は一生をかけても悔やみきれない思いを持つ事になる。そんな重荷は引き受けたくない」
俺は、ふと、江戸の事を思い出した。おそらく、我々以上に左門の死を悲しむ人間が、江戸にいるではないか。しかし、あの方にも菊一文字則宗は重すぎるだろう。
「又十郎」
「なんでございましょうか、兄上」
「……左門の脇差を、江戸に送ってはくれまいか」
「脇差を、ですか?」
「江戸には、俺たち同様に、いや、それ以上に左門の死を悲しむ人がいるだろう」
「……あぁ!」
「形見分け、として、脇差をお渡ししても良かろう。則宗は重すぎるかもしれん。が、何も渡さないのは……」
「兄上の差配、承りました」又十郎は頭を下げた。「左門の脇差と髪の一房、江戸にお送りしようかと思います。それでお上の……」
「……それ以上は言うな。名は出すでない」
「左門の則宗はいかが致しますか?」又十郎が問いかける。
「……その太刀を引き継ぐべき人物は、この大和柳生の家督を継ぐ、おぬし、柳生宗冬しかおらん。俺のような、廃嫡になったものが受け取ってはおかしな話であろう」
そして、俺は腰の太刀を触れ、言葉を継ぐ。
「この典太をもってしても、この俺が破れるようであれば、俺は所詮その程度の男だったという事だ。この相棒と死ねるのなら、それほど悪くない人生だ。こ度の件は、そういうことなのだ。柳生の家を巻き込む事はまかりならん。俺、柳生十兵衛三厳個人の問題にしかすぎん。そう思わぬか、左門」
そして、俺は左門の墓前で大きく声を出して笑った。左門の心に届くようにと。左門の想いは受け取った。それで十分だ。左門の太刀まで受け取るわけにはいかん。お前の気持ちだけで十分なのだ。俺はそう思いながら笑った。俺の涙を隠すほどに。
「お菊」家に戻り、お菊に二本の棒手裏剣を渡した。
「使いやすい方で俺を狙ってみろ」
数瞬後、お菊の右手が煌めく。
俺に向かってくるそれを俺はなんとか受け止めた。「お菊。少しは加減せい」俺は笑った。やはり、この娘の技倆は並ではない。俺を襲う刺客に選ばれるのもうなずける。
お菊の投げた棒手裏剣。それはやはり伊賀のものであった。
もう一本もお菊に投げてもらい、俺は江戸への出立の準備にかかった。お市の病状は非常に気になるが、そんなことをおくびにでも出したら、逆にお市に何を言われるか、わかったものではない。お市の事はお菊に任せるのが吉だ。お菊はその信頼に応えてくれる。
「お菊。お市と娘たちのこと、よろしく頼むぞ。俺は、お前との約束を果たしに、再び江戸に行ってくる」そういって、お菊の頭を撫でた。
お菊は、ただ黙ってうなずいた。それは信頼に足る首肯であった。
「これはこれは、十兵衛様」俺は、柳生の庄を出、東海道に差し掛かったところで声をかけられた。見ると、木村助九郎殿が馬上にあった。背後には江戸柳生門弟が二十名ほど。全員が戦装備であった。
「……助九郎殿、何事でござるか。これはいったい」
すると、助九郎殿が呆れたように言った。「左門様の弔い戦でござるよ。先日、柳生の庄を襲ったのは甲賀者と聞いて。まずはその事を左門様の墓前に報告し、その後、甲賀の里に向かう予定でござる」
「甲賀に?」俺が出立しようとする前に親父殿が命を江戸柳生に出すとは珍しい。素早い沙汰だな……家光公直々の命だろうか。左門の死が理由であれば、そうなのかもしれない。
「……そうか、ぬしらが左門の仇を討ってくれるか」俺は言った。助九郎殿が先陣を切るのならば、頭領のいないあの腑抜けた甲賀を全滅させる事などいとも容易いであろう。俺の出る幕すらなかろう。ここは引いておいて――
「ならば、助九郎殿、左門の仇をお願いするよ。俺は――」助九郎殿に伝えた。
「江戸に行ってくるよ」
「……そうでござるか。では、左門様の仇は我々に任せられい」俺の言葉に、どこか納得していない助九郎殿ではあったが、親父殿の指示を優先したようだ。馬首を柳生の庄に向け走らせた。それに続く江戸柳生門弟たち。
――これで甲賀の方は片付けられるか。では、俺は、江戸に行って、伊賀者を片付けてくるか。
俺は改めて東へと足を向けた。
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