柳生の影 ―十兵衛旅日記―

いわん

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其之十六:江戸伊賀屋敷の死闘

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四谷仲町は江戸伊賀屋敷。普通、忍びの根城であるのだから、それは巧妙に隠蔽されていてもおかしくはないのだが、幕府に重用されているためか、およそ、大名なら知らない者はない場所にあった。俺はためらいもなく、その屋敷へと進む。
伊賀屋敷は、親父殿が江戸にて構えている屋敷よりも、遥かに立派であった。大名ではない伊賀者がこれだけ大きな屋敷を構えられるということは、将軍家に対して、それだけ貢献しているという事なのだろう。もちろん、その職業柄、幕府にて大きく昇進する事はかなわぬのだろうが、その代わりに、これだけの屋敷が与えられている。つまりはそういう事なのだ。
しかし、今の俺には、伊賀屋敷に対する幕府や世間の評価などどうでもよかった。この屋敷にいるであろうお菊の家族を逃がし、あとは全てたたき伏せるつもりだった。そもそも、向こうから俺に仕掛けてきた意味のない喧嘩なのだ。俺に斬り捨てられたところで、なんの言い訳があるというのだ。そもそもお菊を父親の命を肩に俺を殺すようにしむけた連中なのだ。そんな悪鬼羅刹に同情をするほど俺は寛容ではない。
俺は、門前で声を上げた。
「柳生十兵衛三厳推参!伊賀頭領と話したい議あり。開門願う!」
屋敷の内側の空気が明らかに変わった。ここが戦場か。典太から熱を感じる。
俺は、屋敷の門を蹴り開けた。ここが俺の敵のいる場所なのだ。遠慮する必要もない。

「十兵衛ーッ!」真っ先にひときわ鋭い剣気が飛んできた。俺はその刃線を身を屈めて躱す。
――なんだ、こいつは。今までの相手とは気迫が違いすぎる!
一突、二突、三突。鋭い突きが三撃。俺の首元をかすめる。
上段から振り下ろされた剣が躱せない。典太を抜いてその剣を流し、一旦距離を取り、対面する。目が血走っていた。尋常ではない形相。その剣迫に押される。下忍であろうが、意外なる強敵。これまでの忍びとは明らかに違っていた。これが本物の伊賀者の力なのか。やはり江戸にいる本物の伊賀者は違うのか。下忍ですら、この気力。下忍ごときがこの技量なら、ここを殲滅するのは苦戦するやもしれん。
「……なんじゃ、おぬしは……」俺はその剣迫を押しのけ問う。
「娘の仇に恨みを持たぬ親がどこにいるかぁ!」男は叫んだ。
――娘?女人を斬った事など……あッ!
俺は、叫びと同時に飛んできた剣戟を男の身体ごと躱す。
「ぬしの娘の名は、お菊と申さぬか?」
「そうじゃあ!ぬしが斬った女子じゃあッ!」という声とともに裂帛の一太刀。
さらにそれを紙一重で躱す。あぁ、この男がお菊の。そう気づいたとき、俺は力が抜けた。やっと見つけた。思わず俺は笑った。
「何がおかしいッ!娘を殺しておいて笑うとは、貴様は鬼か!」
「あいや、すまぬ。やっと見つけて安心してな」俺は言った。もう俺にこの男と戦う気はない。気力が一気に抜ける。
「父上殿、ご安心めされ。お菊殿は生きておりますぞ」
次の一撃のために大上段に刀を構えていた男の動きが止まる。まるで、俺の言葉が理解できない、というように。
「な、なんじゃと?」
「お菊殿には、俺の娘の世話をしてもらってる」俺は言った。
「お菊殿と約束してな。『おぬしの家族を助け出してくる』と。やっと見つけ申した」
自然と笑みが出た。それに対して、男はまだ、信じられない状態なのか、上段の構えを崩さない。
「信じられぬか?信じられぬのならここで斬り合うてもよろしいが、それだとお菊殿と再会できぬぞ?」
「ま、俺もおぬしを斬っては、お菊殿との約束が守れなくなるので困りものなのだが」
「ほ、本当に、お菊は生きているのか……?」
「嘘だと思うなら、柳生の庄に行って、この十兵衛の家を訪ねられよ。今頃、俺の娘と遊んでいるはずじゃ」
「ほ、本当に……?」男はまだ信じられないという顔だ。まぁ、気持ちはわからんでもない。
「本当じゃ。実際に柳生の庄の俺の家を訪ねられよ。仔細は妻に伝えてある。おぬしが今からすぐに訪ねて行っても何も問題はない。もし、お菊殿がいなかったら、その場で俺の娘を斬って仇を返したと思えばいい。その時は」あぁ、そうか。こういう気持ちになるのだな、と俺は思った。典太を持つ手に自然と力が入るのがわかる。
「互いに娘の仇として、斬り結ぼうぞ」
「とにかく」俺は言った。
「俺はおぬしと斬り合う気はない。おぬしは、さっさとここを抜け、ぬしの妻共々、柳生の庄に行って、お菊殿を迎えてやれ」
「……抜けられるわけなどなかろう。おれは忍びじゃぞ。伊賀の忍びじゃぞ」男は言った。
「おぬしが抜けた跡など、誰も気づかぬよ」俺は吐き捨てるように言った。「ここにいる忍びは、おぬし以外、全て、斬り捨てるからな」
そう、俺はここを殲滅するために来たのだ。このくだらない争いを仕掛けてきた忍びどもを全滅させるために。お菊の父親が見つかった以上、もはや、この俺に力を抜く理由はなかった。
後ろから忍びが不意打ちに斬りかかってきた。 半身で躱すと同時に袈裟に斬り捨てる。その忍びは声もなく絶命した。もはや、俺に斬りかかってくる相手の命を意図的に守る理由は何もない。
――まずは、一人。
俺はそう心の中でつぶやいた。さて、残るは何人か。
「早くここを去れ」お菊の父親にそういうと、俺は次の襖をそれごと袈裟斬りにした。その向こうから二人の忍びが倒れてきた。
「早くここを去るのじゃ!」 
しかし、お菊の父はまだ躊躇していた。 
「だが、おぬしは――」 
「俺の心配は無用だ。ただ――」
 俺は振り返らずに言った。 
「お菊に伝えてくれ。約束は守った、と」
俺は屋敷奥へと歩を進めた。その向こうには刀を構えた忍びが五人。さて、どのくらい奥に進めば、頭領と相見えられるのか。そやつを打ち倒すまで、誰もこの屋敷からは逃さん。

襲いかかってくる伊賀者を切り伏せ、打ち倒しつつ、廊下を進んでいると、再び、街道で出会った偉丈夫が俺の前に現れた。以前とは異なり、顔を隠していない。その偉丈夫は、やはり、あの荒木又右衛門であった。
「又右衛門」俺は問うた。「ぬしは、世間的には既に死んでいる身なれど、その命、伊賀者として終えるか?出来うれば、この十兵衛を見逃してはくれぬか?」
正直、五分五分以下の賭けだった。又右衛門が忠義に篤いのは知っている。伊賀者との繋がりと、俺との個人的繋がり。どちらをとるか俺には正直わからなかった。柳生を選ぶ理由も、こと俺と対しては効果が薄い。「廃嫡」「蟄居」を命ぜられている俺をここで斬り倒しても、伊賀者には咎はないのだ。その意味において、又右衛門がおそらくは一番厄介な相手であろう。俺は腹をくくっていた。又右衛門が相手ならば、簡単にことは済むまい、と。
一瞬の沈黙。その隙に背後から伊賀者が俺に斬りつけてきた。
振り向いて打ち倒そうとした俺の刀よりも先に、又右衛門の剣が、その伊賀者の胴を薙いでいた。
「又右衛門、ぬしまで手を汚す必要はない」
 「いいえ」又右衛門は静かに言った。
 「これは私の選択です。十兵衛様。私は、伊賀者である前に、柳生の者であり、十兵衛様の弟子にございます」
その言葉と同時に、又右衛門は後ろから斬りつけてきた伊賀者を二人同時に屠っていた。なんという剛剣。
「私と十兵衛様であれば、ここの伊賀者は殲滅できるでありましょう」
そう言った偉丈夫の笑顔に、こちらも安堵した。又右衛門が助太刀してくれるのならば、鬼に金棒である。もはや、恐れるものは何もない。

それにしても……甲賀の里よりは手応えはあるものの、お菊の父親のような裂帛の気合いは全く見られない。ここは伊賀の総本山ではないのか?それとも、総本山ですらこの程度なのか。又右衛門はこの者たちを鍛えなかったのか?しかし、ここで彼奴らを逃がすわけにはいかないのだ、一人でも逃したら、お菊の父が抜けた事が他の伊賀者に知られてしまう。それではお菊親子がその後平穏に過ごせない。そもそも、この下らぬ諍いを仕掛けてきたのは向こうなのだ。お菊親子を助けると思えば、全員斬り捨ててもかまわない。それが俺の意思だった。又右衛門もその意思に応えてくれていた。俺たちの周囲に伊賀者の断末魔と血しぶきが舞っていた。又右衛門の技倆は、俺よりも上かもしれん。

――ふむ。なるほど。三十二人程度なら、奥義を尽くすまでもないのか。そういう事らしいですぞ、沢庵和尚。
三十人あまりいた伊賀者は、既に生きていなかった。うめき声すら聞こえない。声を押し殺している者もいないようだ。彼らの返り血と死臭が衣服に染み付きそうである。これは捨てなくてはならぬな。さて、着替えはどこで調達すべきか――
「又右衛門」俺は声をかけた。「もう下忍はあらかた片付けた。ぬしは、柳生の庄に戻り、この件は知らぬ存ぜぬで逃れろ。ぬしが伊賀の頭領を斬るわけにもいかぬだろう」
俺の意図を理解したのか、又右衛門は俺に一礼すると素早く伊賀屋敷から去って行った。しばらくは又右衛門を柳生の庄で匿うことになるが、その件は、又十郎とお市がいれば大丈夫であろう。
俺は、ふと、兵庫助殿との会話を思い出していた。自らの言葉を。
――優れた者との真剣勝負でなければ、かえって鈍る、という場合もあり申す。
ふむ。例えば、お菊の父や又右衛門のような、裂帛の気合いや技倆を持った相手が三十二もあれば、それらを全て斬り倒す事は難しいだろう。ということは、それ以外の連中は気合いも含め凡庸であった、ということなのかもしれん。甲賀の時もそう思ったが、「忍び」とは名ばかりであるのか。その程度の力、覚悟で、「忍び」などとは――
「さて」と、俺は振り向いた。「ぬしが、頭領か?こやつらに、俺を襲うよう指示したのは、おぬしか?」
目の前の男に俺は尋ねた。こやつが頭領なら、甲賀同様、さすがに凡庸ではあるまい。

「裏柳生の頭領が単身で、この伊賀屋敷に単身乗り込むとは。噂に違わぬ実力。剣技。しかし、我々も、ここで引くわけにはいかんのだ」
伊賀の頭領はゆっくりと腰を上げ、佩刀を抜いた。甲賀の頭領以上の実力が見て取れる。この戦いも、簡単には済むまい。だが、俺は、ここで引くわけにはいかんのだ。「ここを殲滅」しなければ、お菊親子の安寧は保証されない。この戦いは、俺にとっても、伊賀の頭領にとっても、「引くことの出来ない」戦いなのだ。
伊賀の頭領が切先を俺に向ける。俺は右八双に構えた。そのまま時が流れる。
陽が翳ったその刹那、伊賀の頭領の鋭い胴なぎが飛んできた。俺はそれを躱さずに踏み込んで典太の峰で受ける。次の瞬間、右手で抜いた脇差しが、自然と伊賀の頭領の胴を薙ぎにいく。またしても封じた技を使ってしまった。島原であの方に師事して鍛錬して以来、使わぬようにしていたのだが。どうにも身体が覚えてしまっているらしい。甲賀頭領のときもそうだったが、周囲に俺の剣を見ているものがいなかったのが幸いであった。この剣が新陰流の「二刀」と異なる事が露見しては廃嫡どころではないのだから。将軍家の「御流儀兵法」である新陰流の遣い手が、最後の一撃に己の流派ではない剣技を使うなど、通常は考えもしないだろう。
予想していなかった俺の脇差しでの胴薙ぎを受け、伊賀の頭領は力なく膝から崩れ折れた。薙いだ腹から臓腑がこぼれ落ちた。

眼下の伊賀の頭領はもはや虫の息であった。致命の一撃。流石に死は覚悟しているだろう。
「さすがは裏柳生頭領、柳生十兵衛……強いわ」
「裏柳生頭領?……おぬし、何を言ってるんだ?」俺は吐き捨てた。一体こいつらは俺を何をどう勘違いしているのか。「頭領も何も、裏柳生なんざ、そもそも俺は関わってない。誰に騙されてるんだ、おぬしは」甲賀の頭領もそうだったが、何故、俺が「裏柳生頭領」ということになっているのか。江戸柳生と俺は、ほぼ無縁であるというのに。江戸には親父殿と、兄弟子の助九郎殿がいるという事以外、この俺とは、まるで繋がりはない。「江戸柳生」と俺との関わりは、ほぼ何もないというのに。なんで俺が「裏柳生」と関係していると思うのか。
「……今更、何を誤摩化す必要がある……これも裏柳生としての始末なのだろう……」
俺は呆れた。「だから何を言っておるのだ。俺は自分の意志でここに来ただけだ。裏も表も、そもそも柳生の家すらも関係のないことだ!俺はお菊の親を助けるためだけでここまで来ただけだ!」
「な、なんだと!」息も絶え絶えの中、伊賀頭領が愕然とする。その顔の目が大きく見開かれる。「おぬしは、裏柳生の頭領ではないのか!裏柳生を遣わして甲賀を滅ぼしたのはおぬしの命ではないのか!我々を滅ぼしにきたのは将軍家に仕える忍びの役を取って代わろうとする裏柳生の目的ではないのか!」
あまりの荒唐無稽な話に、俺は怒鳴った。「裏柳生なんざ知った事か!あれは江戸の親父殿が一人で作ったもんだ!俺には関わり合いの無い事だ!柳生の庄にいる門弟は『裏柳生』という呼称すら知らん!俺は甲賀の頭領を斬っただけだ!甲賀を滅ぼしたのは江戸柳生の助九郎殿の軍勢だ!それは親父殿の命だろうよ!俺は全く関係ない!何を勘違いしているんだ!」
「なんと……なんと……我々は偽りに踊らされ、そして、滅ぼされたと言うのか……このすべてが、すべてが偽りであったと……」
俺は、兵庫助殿の言葉を思い出していた。
――但馬守殿には気をつけろ。
「誰が言ってたのだ。俺が『裏柳生頭領』などと」
「……もっとも信頼できる情報筋からじゃ……」
「……!」
「……ぬしも気づいたか……そうよ、あの御仁、たじ」
俺は最後まで聞かずにとどめの一撃を加えた。伊賀頭領は声もなく絶命する。
「……勝手に、お前らの政の諍いに俺を巻き込むんじゃねぇ!」
俺は心の底から叫んだ。たかが政事内の権力争い。それだけのために関わり合いのない人の命が奪われるなぞ、くだらないにもほどがある。なんのための御政道なのかと。人を救う御政道のために、そのための政事のために、小さな子供の命が道具のように使われるなど――そう思ったとき、俺はこれまでの自身の行為を思い出し、身を震わせた。
俺は、いままで、何をしてきたのか、と。俺の剣は、誰の命を受けて、何をしてきたのか、と。そして、今、目の前で俺が斬った男を、本当に斬りたかったのは誰なのか、と。
――但馬守殿には、並の大名なら簡単に踊らされるであろうな――兵庫助殿の声が耳にこだました。俺は声にならない叫びを上げていた。
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