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冥界の門
暗躍、そして蜂起す
しおりを挟む左大臣である九条夢之進は、いつも通りの黒い束帯姿で、皇城内のとある部屋に居た。陰陽術であらゆる方角からも目からも隠れる仕様になっている、特別な部屋だ。
その目の前には、並んで跪坐(片膝立ちで跪くように座ること)する黒雨一位と二位が居る。一位は大きな体に太い骨格、二位は子供と見紛う程小柄で華奢であるが、ふたりとも覆面と忍装束でその面貌は分からない。
「用意した九条殿の替え玉が先程、絶命致しました。何らかの術であるとのこと。全てお見通しとは……げに恐ろしいですぞ、左大臣」
口を開くのは、一位。野太い声で、存在自体に威圧感がある。
「私ではない。夕星だ」
九条は、懸盤の上に碗をとん、と置いた。香ばしい茶で口の中をゆすぐようにしてから、また口を開く。
「国宝の力には限りがあるに違いないと、ずっと訴えていたからな。その証拠に、年々穢れの強まる陛下へ密かに解毒術を施しておった。さらには、継承の儀をせぬまま冥界へ渡られることも見通していた。陛下の情は龍樹にあるが、素養は魅侶玖であるからして、決断せず逝かれるのではと」
「涼月と夕星が姿を消したのは、十年以上前のことでありまするぞ!」
隠密が感情を荒らげることは珍しい。それほどまでに、希代の陰陽師の作った盤の上で事が進んでいるようにしか思えず、そら恐ろしいのだ。
九条は、両袖口に反対の手を差し込んで腕を組む。
「私も半信半疑であったがな……まさか娘に力の一部を託して、生きたまま冥界へ渡る賭けに出るとは思わなんだ。それもこれもみな」
「っ、ギー様の御為であらせられる」
「うむ」
ふー、と九条は眉間に深いしわを寄せ目を閉じる。
夕星の、瑠璃色の瞳を思い出す。強い意思を内包した煌めきは、いつでも九条の心をざわつかせた――ひょっとして、人あらざる者なのではないかと。そんな女が選んだのが、涼月という類稀なる武人だったというのもまた、頷ける。いったい誰が、鬼より強い人間がいるなどと想像できただろうか。
実際、試合稽古であれギーに片膝を突かせたのは、数百年の中でも彼のみだという。
――老いたものよなぁ。
楽しそうに笑って紫電一位を譲ったギーよりも、悔しそうに顔を歪める夕星の方を覚えている。
九条はそんな過去から現実へと、思考を無理やりに引き戻した。
「とはいえ、青剣までお隠れになるとは想定外であった。民の犠牲はとどまるところを知らぬ。まったく胸の痛むことよの……」
夕星の一人娘である沙夜に危機が迫った場合、黒雨の者が皇都へ導く手筈を整えたのは、他でもない九条だ。夕宮陛下――夕の字を夕星に与えるほど可愛がっていた――の印をついた書状を預け、後宮司所へ現れたらそのまま自身で囲う。
ところが、愚闇はギーの元へと連れていった。
想定外であったものの離宮で会った沙夜は、顔立ちこそ涼月によく似ていたが、意思の強そうな目が夕星に似ていて思わず微笑んでしまった。
雑仕女として預かる訳にはいかない、さてどうしたものかと悩んだのもひと時のことで、九条は魅侶玖の心の機微を悟った。試しに茶化すと――まさか更衣に召し抱えるとは思ってもいなかったことだが、嬉しいことでもあった。魅侶玖の頑なに閉じた心を、九条なりに心配していたからだ。
「未来を切り開こうぞ。そのためには」
「……粛清はこちらにて」
暗黙の了解とばかりに、一位と二位が深く頭を下げてから姿を消す。
九条は、何もない空間に向かって小さく言を放つ。
「龍樹殿下は、殺しすぎた……直接でないにしろ、恨みは穢れを助長するぞ。皇帝の座に近い魅侶玖殿下の方が先かと思うておったが」
その身に皇帝の血を受け継ぐものは、過去数百年の穢れをも受け継ぐ――実際先に倒れたのは、魅侶玖だった。
「早く決着をつけねばな……いくらそなたの『先見の明』あれど、間に合わなくなるぞ。夕星よ」
◇ ◇ ◇
その頃龍樹は、自室でひとり笏を振り回しながら激高していた。
「なんで……!」
あれほど周りをうろちょろしていた、ぬえが消えた。
幾度呼んでも現れないことに、一人で焦っている。
皇都近郊にもいよいよあやかしが出没したらしい、との報せが何度も来ている。城内は慌ただしいし、早くも屋敷に引きこもって、参内しない貴族が出て来ているそうだ。が、知ったことかと部屋にある物に八つ当たりをしていた。
今まで、腹違いの兄である魅侶玖は、皇帝の座に興味がなさそうだった。おまけに「龍樹様こそふさわしい」「栄華の世を、共に過ごしましょうぞ」などと持ち上げられ、満更でもなかった。
ところが、あやかしが出没し始めてから状況が一変する。
地方官吏から
「できるだけ早く軍を派遣してくれ」
「陰陽師はもういないのか」
「補給はまだか」
と手紙だけならまだしも、使いが直接皇城までやってくると、皆が皆震えあがったのである。
おしゃべりをしたり歌を歌ったり、楽器を奏でたりして過ごす優雅な日々は、平和であればこそ。
次々と舞い込んでくる逼迫した状況は、皇都に暮らす貴族たちの不安感を煽るのに十分で、龍樹から魅侶玖に鞍替えする勢力が続発した。
なぜなら魅侶玖は、幼少時から武家筋の稽古に交じり、剣の腕を磨いてきたことも良く知られているからだ。当然、紫電を動かすのも容易い。
恵まれた身長や体躯、泰然とした雰囲気は、皇帝というよりは武人と言われた方がしっくりくる。
そのことが、龍樹の神経を逆なでした。
なぜなら、遥か昔に国宝を戴いて皇雅国を平定したという皇帝『羽玖』は――体格良く勇猛果敢であったと伝わっているからだ。
「いやだっ! ぼくが、皇帝になるんだ……!」
もはや自分の居場所が分からない。
そのことにすら気づかず、龍樹は『皇帝』に固執するしかなかった。
――ちりりん。
手元にある鈴を鳴らすと、いくらもせず紫の直衣を身に着けた狐顔の男がやって来た。しずしずと入室し慣れた様子で立礼後、たおやかに座す。
「内大臣。九条は?」
龍樹が振り乱した頭髪を整えもせず尋ねると、
「お隠れになりました。手筈は整っておりますゆえ、今こそ、お立ちになるべきかと」
内大臣は狐目を一層つり上げて微笑んでから、畏まって深々と座礼をする。その仕草を見て、龍樹は満たされたような気持ちになった。
「あいわかった」
――皇雅国にてあやかしあふるる時、第二皇子が皇帝位を簒奪せしめんと目論見、内大臣を引き連れて蜂起す。
後の世ではそのたった一行で書かれた出来事であるが、今この時代の人々には、間違いなく大きな混乱と悲しみをもたらした。
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