ガラス越しの宝石

尾高 太陽

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黒い塊

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「れんちゃーん?お醤油切れたからお隣さんから貰って来てー!」
 そんな大きな声が、すぐ奥の台所から響いた。
「そんなに大声を出さなくても聞こえるよ!」

 蝉たちが本格的に鳴き出した夏休み。
 れんちゃん、そう呼ばれた多神 鏡(たがみ れんず)は、冷房の無い部屋で寝転がっていた。

 パジャマ同然の部屋着から着替え、玄関で靴に足を入れながら台所に届くように少し声を張る。
「婆ちゃん!お隣さんってどうやって行けばいい?」
 すると、先ほどよりもさらに大きな声で返事が返って来た。
「ああ!れんちゃんはまだこの辺りを知らないからね!家の前の道を右に曲がったら後は道なりだよ。」
「分かった!」
 靴紐を結び終わり、ド田舎特有の防犯のカケラもない重い引き戸を両手で力いっぱい開くと夏の暑い空気と共に、爆音のような蝉の声が家中に響き渡った。
 その音が聞こえたのか、外に出たと同時に家の中から祖母の声が聞こえる。
「あっ!れんちゃ」
 出かける前に祖母が口うるさく言う外での注意が長くなる事を知っていた鏡は、気づかないふりをして扉を閉めた。


「痛たたた……。」
 空気の綺麗な田舎でのんびりと暮らせると思っていた鏡だったが朝5時に起こされ昼まで畑仕事、昼からは家事と都会暮らしの長い鏡にとっては肉体的にハードな生活で。それでいてその忙しさは嫌な事を思い出す暇がなく、精神的には楽なものだった。
 畑仕事で筋肉痛になった腕をほぐすように肩を回しながら、何の舗装もされていない、ただ人や車が通って草が生えなくなっただけの道を歩いて行く。
「それにしても本当に何も無いな。コンビニが10㎞先って…お隣さんもそれくらいあったりして。って日が暮れる!」


「迷った………。」
 気付けば森の中にいた。
 日は完全に暮れ、周りの森からは何かが動くような物音や鳴き声のような音が聞こえ、鏡の不安感を煽っていた。
「僕バカでしょ!確かに一本道だったのに!いやそれよりもどうする。朝まで待つ?いやでもなぁ…。」
 そんな独り言を大声で言いながら立ち尽くしていると、突然鏡の掛けていた眼鏡が横に飛んでいった。
「えっ?」
 風で揺れた木の枝にでも当たったのかと思い、飛んで行った方向の草むらにしゃがみ込む。
 しかし、街灯以前に生い茂った木の葉に遮られて月明かりもない森は暗闇になれた目でもほぼ手探りの状態だった。
 さすがに爺ちゃんの形見を無くしたら婆ちゃんに怒られる!!そんな事を考えながら手を動かしていく。

 地面に片膝をついて眼鏡を探していると、手の甲に何かの液体がポトリと落ちた。
 一瞬雨かと思ったが、それには雨にはない暖かさと粘り気があり、手の上を流れている。
 すると強い風が吹き抜け、鏡を覆っていた木々が揺れ、葉の隙間から月明かりが差し込んだ。
「っ!?」
 月明かりに照らされた鏡の手は真っ赤に濡れていた。
 それが何なのか、なぜそうなったのか、焦りと不安で理解できず戸惑っていると、目の前の低い木に眼鏡が引っかかっていた。
 まずは眼鏡を掛け、混乱しながらも立ち上がると考える暇もなく目の前の黒い塊に気付く。
 まるで、何もかもを吸い込む闇のような黒い塊。
 それは風が止み、月明かりの消えた森に溶け込んでいた。
「く、ま?」
 真っ赤な手のことなどとっくに忘れた鏡は、腰が抜け木の根元に座り込んでしまう。
 熊はうめき声のような声を出しながら、ゆっくりと近づいてくる。
 何もする事が出来ないまま熊を見ていると、熊の爪には鏡の手と同じ赤い液体が付いていた。
「ああ、なるほど………。」
 鏡はその液体の付いていない左手で鼻を触ると激痛に襲われた。
 左手には赤い液体がベットリと付いていた。

 暗闇で迷っている途中、いつの間にか熊の縄張りに入ってしまっていたのだ。
 そして、攻撃してきた熊の爪が眼鏡を飛ばすと同時に鼻を引っ掻き幅2cm深さ0.5mほどの傷を負っていた。

「許しては…。」
 熊は地面をバンバンと叩くように威嚇してくる。
「くれない…か。」
 そう呟くと、熊を刺激しないようにゆっくりと立ち上がり、目を合わせて後ろへ歩く。
 すると距離を保つように熊もこちらに近付いてくる。
 その行動は完全に敵対行動と鏡は知っていた。
 友達のいない小学校時代、図書室の本を読み漁って手に入れた知識。
 しかしその知識の中には熊に攻撃される前の対処法しか載っていない。
 走馬灯のように思い出す知識の中で、ニュースで見た一か八かの勝負に出る。
 一か八かの勝負。
 それは大きく両腕を広げ。
「あああああ!!!」
 大声を出す。

 熊は一般的に知られているほど凶暴ではなく、むしろ臆病である。臆病だからこそ鈴の音で人から逃げ、臆病だからこそ威嚇行動を取る。
 そして、それよりも圧倒的な威嚇をすれば争いにはならない。

 大声を出した後はありったけの殺気を熊に向ける。
 しかし熊は動じる事なく、のっしりと前足を持ち上げ2本足で立ち上がった。
「グルァァァァァ!!!」
「あ、」
 ダメだ。鏡とは比にならない声と殺意にそう理解した鏡は、すぐさま後ろを向き全力で走った。
 出来るだけ狭い木と木の間や蛇行で走り、熊に時速60㎞という最高速度を出させない。
 それは知識ばかりで、畑仕事で筋肉痛になるような鏡には難しい事だった。
「くそ!こんな事ならもっと体力付けとけば良かった!」
 後ろからはドスドスと言う足音と枝や草の踏まれる音が聞こえていた。

 徐々に足が上がらくなり、息が乱れ、視界が暗くなっていく中、鏡は最後の力を振り絞り足を上げる。
「あぁぁぁぁぁ!!!」
 しかし最後の力も虚しく、何かにつまづき、背の高い草むらに突っ込むように転けた。
「っ!」
 恐怖で動く事が出来ず、転んだ状態のまま体に力を入れる。
 しかし、いつまでたとうと襲われる事は無く、足音も聞こえない。

 念には念を入れて、数分間足音がしない事を確認し恐る恐る立ち上がった。
 周りを見渡してもどこにも熊の姿はなくホッとため息を付いた瞬間、足の上にズッシリと重みのある何かが乗った。
「っ!」
 驚いて足を見ると、つま先の上には血の付いた熊の手が乗っていた。
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