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第1章 邂逅
迫り来る異変
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宇内の居処である琥珀の館は、大森林を二分して流れる清らかな小川のほとりにある。そこはすべての原礎たちの心の拠り所であり、常に多くの原礎たちが行き来や出入りをするとともに、日々さまざまな情報や報告が持ち込まれていた。周囲はその厳かな美しさと集積された知恵に惹かれて自然と集まってきた原礎たちが築いた集落でひしめいており、大森林の中でも最も高い人口密度を誇っていた。
それゆえ久遠と静夜は昨日以上に濃密な奇異の視線を浴びながら歩くこととなった。
「ごめんな静夜、みんな人間を初めて見るとか怖がってるってわけじゃなくて、この森に人間がいることがとにかく不思議で珍しいんだ」
「わかってる」
生垣に設けられた門の前まで来たとき二人は門衛に止められた。
「ここで少しお待ちください」
門衛のひとりが中に入っていき、二人は言われたとおりそこに立って待つ。と、道の脇の木に寄りかかって二人を眺めている者がいることに久遠が気づき、声をかけた。
「界!何してるんだ、こんなとこで。まさか暇なのか?」
「…ボクが暇なわけないでしょ。忙しいのを押してわざわざ見に来たんだよ。役立たずが連れ込んだ厄介者の顔を」
久遠よりもさらに若い、幼いと言っても差し支えない小さな少年が面倒臭そうに幹から身体を起こして歩み寄ってきた。
「静夜、こいつは…」
「ボクは界。氷雨・グランドン・界」
「そう。僕より年下だけど、すごく優秀で氷雨の族の中でも指折りの有望株だ」
「取って引っ付けたような言い方だね。事実だけど。…キミが静夜?」
界は据わった三白眼と仏頂面で静夜の頭のてっぺんから爪先まで無遠慮にじろじろと観察した。その目つきはこの上なく失礼で高圧的だったが、静夜はもう慣れてきたのとやむを得なさから黙って界の視線を受け止めた。
「ふーん…キミが?…本当に?」
ひとしきり検分し、少し首を傾げて静夜を解放した。
「なんでキミみたいな平凡な人間がまやかしの障壁をくぐり抜けられたのか見当もつかないけど…久遠。ただでさえ役立たずのキミが、しかも先行きが不透明なときに、これ以上厄介事を増やさないでもらいたいね」
「僕はともかく、僕のお客である静夜を厄介者扱いするのはやめてくれない?」
「そのうちはっきりするんじゃないの。…ボクはこれからしばらく星養いの旅に出る。帰ってくる頃までにはなんとかしといてよ」
「それはちょっと約束できないなあ…」
「努力して。どうせ暇なんでしょ」
つっけんどんなひと言を残して界はぷいとそっぽを向き、すたすたと立ち去っていった。
「あーあ。いつ会っても可愛くない奴」
ここでも久遠は昨日までと変わらず毒舌も侮辱もどこ吹く風、といった表情だ。だが静夜はこの扱いはさすがに不当で行き過ぎではないかと感じ、積もりに積もった疑問をとうとう口にした。
「久遠…なぜ皆、君のことをあんなふうに嘲るんだ?それに君は…なぜ反論しない?」
久遠ははっと瞬きを止めて口をつぐみ、それからぽつりとつぶやいた。
「…それは、だって…事実だから」
「えっ…」
それはどういうことなのかーー静夜がさらに踏み込もうとしたとき門衛が戻ってきて二人の前に門を開けた。
「宇内様がお待ちです。私がご案内いたします」
「はい。…行こう」
「…ああ」
先に立って門衛についていく久遠の背中は、それ以上の問いを拒んでいるように見える。
(…今はその話をしてる場合じゃないな)
しかたなく状況を受け入れて静夜も後に続いた。
柱廊のような木立と木の下陰を抜けて三人は琥珀の館を奥へ奥へと進んでいった。
館と言ってもそこは建物の中ではなく、そもそも建物や構築物自体がほとんど見られない。最初は賢人然とした優美な原礎たちと頻繁に出会えたが、その姿や気配も先に進めば進むほど少なくなり、辺りはひっそりと静まり返ってゆく。
周囲を呆然と見回しながら歩いていた静夜は少しずつこの場所の名前の由来に気づき始めた。両脇に立ち並ぶ木々の肌に黄金色の樹脂がびっしりと露出し、すでに琥珀と化して朝陽にきらめいているのである。艶めく琥珀をまとい、年経りてなお壮健な木々の威厳には、翡翠の屋根の生き生きとした緑とはまた趣を異にする美しさがある。琥珀がこのように生成され地上に現れることは通常ない。これらの木々の樹齢がいったい何年なのか、いかなる魔法の力がここに働いているのか、静夜には想像もつかなかった。しかしこの場所に流れる途方もなく長い時間と侵し難い空気により、彼はここが館という比喩を冠したある種の神域、聖所なのだと理解するに至った。
琥珀の木立の先に小川に向けて開けた空き地があり、そこは磨き抜かれた白い大理石を敷き詰めたテラスになっていた。その縁もまた道から途切れなく連なる琥珀の木々に列柱のように囲われ、まるで神官たちの祈りの場の如き神々しさを醸し出している。しかしここには玉座も階段も、会議の円卓すらもない。そして今ここには大森林中から召集された十二礎の代表たちが勢揃いしていた。彼方と麗もいる。その中心に立って待っていたのは長老の宇内だった。
「宇内様。お連れいたしました」
「うむ」
久遠と静夜を宇内の前に導くと門衛は下がっていった。
静夜の目に宇内は枯れ葉の一枚すら残していない灰色の裸の老木のように映った。丈高く厳めしく、それでいて痩せぎすで深々とした諦観をまとい、もはや何の力もないように見せかけながら圧倒的な権威と知識を秘めていた。金髪の原礎たちの中にあって唯一の銀白色の長髪を膝まで垂らし、何の飾りも刺繍もない真っ白な衣にただ黒い革の帯だけを締めている。霜の降りた眉の被さる瞳は夜の湖のような輝く漆黒だった。
「私は土門・ユリディア・宇内。大森林の長老だ。君が例の人間の、静夜殿だね」
「はい。…このたびはお招きいただきありがとうございます。お会いできて光栄です」
静夜の慇懃な挨拶と態度を好ましく受け取ったらしく、宇内は何度かゆっくりとうなずいた。久遠が静夜に言った。
「宇内様は母さんが死んだ後僕と姉さんの面倒を見てくれたんだ。僕たちの師匠であり、おじいちゃんでもある。…年齢は二百五十は軽く超えてる」
最後のささやきが静寂を突き通すと、居並ぶ有力者たちから溜め息と苦笑と苛立ちの声がばらばらに噴き出した。宇内がすかさず右手を上げると久遠は慌てて手で口を塞ぎ、原礎たちも感情を収めた。
「聞けば静夜殿は記憶を失くしてしまったとか。その後いかがかな」
「いえ…特に、何も…」
静夜が言葉を濁してうつむくと宇内はおもむろに彼に歩み寄り、驚いて顔を上げた彼の額に大きな掌を当てた。
「ふむ…負傷はしていない。しかし鍵が見つからぬ」
「…?」
静夜と久遠は顔を見合わせる。宇内はまた二人から離れて語り始めた。
「さて…まやかしの障壁が破られ、この森に人間が迷い込んだことはこの数千年間絶えてなかった。これが何を意味するのか、我々は真剣に考えなければならない」
「まやかしの障壁は誤りを犯したり無意味なことをしたりは絶対にしません」
「そこには必ず何か重大な意味があるのです」
二人の原礎の発言に久遠は溜飲を下げた得意げな顔つきで鼻の穴を膨らませた。漂着した謎の人間を見過ごさずに保護したという自負があり、静夜のことをよそ者や厄介者呼ばわりする者にも我慢がならなかったからだ。
「静夜殿。君の処遇や今後については我々は可能な限り力になる。だがこれからする話は君自身にも大きく関わってくるだろう。まずは聞いてもらいたい」
「はい」
「うむ。…皆が知るとおり、今世界ではかつてない異変が起こっている。この数年、星養いの旅をする我らの同胞たちが次々と姿を消し、世界の礎の力の均衡が急速に崩れ始めている。野山は荒れ、水は澱み、雨や風は情け容赦なく叩きつけるようになった。凶暴な魔獣が数を増やし、人間たちの平穏な暮らしが脅かされている。事態はのっぴきならない段階に進もうとしている」
「旅に出ている原礎には付近からの要請に応じて臨機応変に救援や討伐に向かうよう指示を出していますが、負担も重く、対応が追いついていないのが現状です」
宇内の隣にじっと立っていた彼方がしかつめらしく補足した。
「またこのところ人間の間でも、突然姿を消して戻ってきたかと思うと精神を病んだり異常な怪力を見せたりと奇妙な変化を示す者たちがいるという報告があります。この件については我々原礎が立ち入ってよい問題かどうか調査中で、詳しいことはわかっていません」
十二礎の代表たちの顔に危惧が色濃くにじむ。一方で記憶がなく大森林での恵み豊かで穏やかな暮らしぶりしか見ていない静夜には外の世界の窮状が俄には信じられなかった。自分もそこから来たはずなのだ。裏を返せば大森林は守られているということだが、このままでいいとはとても思えなかった。
「我々はこれまで状況の把握と情報の収集に徹してきた。けして無為無策のまま手をこまねいていたつもりはない。また私は愛する同胞たちにその煌気の強さや能力によって優劣をつけるつもりも断じてない。だが事ここに至ってとうとうこれ以上は座視できぬ不測の事態が起きた」
静夜は宇内の言葉の意味がわからず困って眉間に皺を寄せた。宇内が久遠を見つめた。
「…久遠。もしや、まだ話していないのか?」
「…はい」
久遠は少し長めの息をはーっと吐いた。十二礎たち全員の視線が久遠に注がれ、彼の次の言葉を待つ。
「姉さんは旅に出てるって言ったよね、静夜」
「ああ。永遠さんだな」
「実は…行方不明なんだ。旅に出てしばらくした後便りが途絶えて、もう三か月になる」
「行方不明…?」
静夜はすぐに昨日の朝食のときに久遠が覗かせた不安げな表情を思い出した。今久遠の白い顔を覆っている影の暗さはそのときよりもさらに深い。心配そうに麗が尋ねる。
「三か月も音信が途絶えるなんてこと、今までなかったのよね?」
「うん。姉さんは月に一度は必ず連絡をくれてたから」
「各地を旅する者たちに情報があれば連絡するよう呼びかけていますが、今のところ有力な手がかりはありません」
彼方が淡々と付け加えると宇内はかすかな溜め息とともに少しうつむいた。
「永遠はもともと責任感と自立心が強く、人に頼るのを嫌がる性格だった。当然星養いの旅もいつもひとりだった。だがやはりひとりで行かせるべきではなかった…永遠の失踪は我々にとって痛手だ。そして残された唯一の肉親である久遠にとっては…大変につらく不安なことと思う」
「…」
静夜は傍らに立つ久遠を見た。久遠は日々募る苦しみに懸命に耐えるかのように、下ろした両方の握り拳を固く震わせている。出会ったときから今朝までの無邪気で明るくて人好きのする彼とはまるで別人だった。突然知らされた現実に、かける言葉が見つからなかった。
だが静夜は迷いを捨て、勇気を持って宇内に問いかけた。
「事態が深刻であることは理解します。…ですが…なぜ永遠さんひとりの失踪がそれほどまでに痛手なんですか?他の原礎たちと永遠さんと、何が異なるというんですか?」
「異なるのだよ。明らかに。永遠は他の何者にも代え難い唯一無二の存在なのだ」
「…どういうことですか?」
肩をぴくりと反応させた久遠を、彼方が気遣わしげに見つめている。久遠の沈黙を引き取るように宇内が答えた。
「永遠の持つ煌気は特別なのだ。たったひとりで千人分の原礎に匹敵する力を発揮する、極めて強力で稀有な煌気…森羅聖煌と呼ばれている」
「森羅…聖煌…」
「森羅聖煌はひと晩で砂漠を森に、荒野を沃地に変えると言われるほどの力で、並の原礎とは比べ物にならぬゆえにその所持者は数百年に一度しか現れない。その力は無尽蔵で万能だが、正しい知識のない者や邪な意図を持つ者が近づくには非常に危険な力でもある。そのため永遠は幼い頃から厳しい修行と研鑽を積み、原礎の中で最も卓越した者となった。永遠ほどの者が危難に見舞われ消息を絶ったとしたら…もはや一刻の猶予もままならない」
久遠は誰も気づかないほど小さく唇を噛む。その周りで十二礎の代表たちが口々に疑問や憶測を並べる。
「永遠の森羅聖煌が何者かに悪用される可能性は?」
「もしも永遠が、さっき彼方が言ったような異常化した人間に捕らえられていたら?」
「仮にそうだとして、もし永遠を取り戻しても、我々は人間たち自身の問題や病にまで踏み込むことはできんぞ」
静夜は次から次へと耳に流れ込む驚くべき話に頭に混乱を来しそうな心持ちながら、どうにかしてすべて吸収しようと思考回路を必死に働かせていたが、そこへいきなり久遠が決然とした表情で宇内の前につかつかと進み出たので呆気に取られた。
「宇内様、お願いです!僕に、姉さんを捜す旅に出る許可を与えてください!」
研ぎ澄まされた刃物のような声が響き渡る。その場にいる全員が固唾を呑んで見守る中、久遠はさらに叫んだ。
「姉さんから便りが来なくなってから、ずっと考えてました。ただ待つだけなのはもう嫌なんです…僕が姉さんの出涸らしで落ちこぼれの無能なのはわかってます。でも、せめて手がかりを探すくらいのことは…みんなの手伝いくらいはさせてください…!」
(出涸らし…?無能だって?)
静夜は我が耳を疑って棒立ちになっている。すると嘲笑と悲観のさざめきがたちまち波紋のように拡散した。
「ろくに能力を持たないおまえが?大森林や宇内様の庇護のもとを離れて旅に出るだって?そんな無茶な!」
「あなたには荷が重いですよ、久遠」
「死体になって帰ってくるのが関の山では?帰ってこられればの話だが」
「そ、そんな言い方ひどい…久遠ちゃんの気持ちも考えてあげてくださらないと…!」
「皆さん。少し発言を控えてください」
「いいよ、麗さん、彼兄。たとえ死んだとしても…僕は何もしないで後悔するよりは、少しでも姉さんやみんなの役に立ちたいんだ」
小さく抑えてはいるが、久遠の声には覚悟の張り詰めた潔さがある。静夜は部外者の自分だけが何も知らず孤立していることを感じながら久遠に尋ねた。
「久遠、どういうことなんだ?君も原礎の一員で、現に俺の目の前で不思議な力を見せてくれたじゃないか」
「確かに…でも、僕の煌気はあれが限界、子供と同じ程度なんだ。もう気づいてるんだろ、静夜。僕は姉さんとは正反対…生まれつきほとんど煌気を持たないんだ。どれだけ修行しても身につかなくて、星養いの旅にも出られない。生きてても何の役にも立てないお荷物なんだよ」
「そんな…でも、君は…!」
皆からあんなにも親しく、必要とされていたのにーーそう口から出かかって静夜は思わず言葉を飲み込んだ。久遠が自分自身を卑下するように肩をすくめて笑いかけてきたのだ。
「本当なんだ。おかしいよね、原礎の役割だの、常に学び続けてるだのって、教えてる本人が無能なんだから」
「久遠…」
生まれてこれまで幾度となく打ちのめされてきたのだろう。久遠は自身の現実と侮辱を乗り越え、受け入れてむしろ清々しい笑みを浮かべて立っている。静夜は胸がだんだん冷たくなるのを感じた。それとともに出会ってまだ三日しか経っていない彼に対してこんなふうに波立っている自分の心が信じられなかった。
そのとき、ここまで沈黙を貫いていた宇内が再び右手を上げて一同を黙らせた。そして何の感情も込もらないひたとしたまなざしで久遠を見下ろし、問いかけた。
「久遠。さっきおまえが永遠を捜したい、皆の役に立ちたいと言ったことは誠に本心からか?」
「そうです」
「微弱な煌気しか持たぬおまえが大森林を離れて外の世界を旅すればいつ死ぬかわからぬ。それがいかに恐ろしいことか理解してのことか?」
「はい」
「…うむ」
宇内はきっぱりとした久遠の返答に満足を得たようにゆっくりとうなずくと、今度はなぜか静夜の顔に目を当てた。
「ところで…静夜殿。君の今後についてなのだが」
「…は、はい」
今自分にその話を振られるとは思っておらず虚を突かれた静夜は居住まいを正して宇内に向き直った。
「君はここに残って煌気による治療を受けながら記憶が戻るのを待つこともできる。戻る保証はないが。…あるいはあえて記憶を失ったまま人間たちの中に戻り、普通の生活を送りながら刺激を受けることで記憶が蘇ることに賭けるか」
「…はい」
なんとなくあまり気持ちが乗らずに静夜は相槌だけ打つ。
「そして三つ目は…久遠とともに旅をし、彼を助け守りながら記憶の扉を開ける鍵を探すか」
「えっ…」
「僕とともに旅って…」
「永遠を捜す旅だ」
二人は思わず白眼を広げて呆然と宇内を見上げ、次に互いに顔を見合わせた。すっかり傍観者と化していた重鎮たちがたちまちざわつき始める。その中から、珍しく当惑した様子の彼方が皆を代弁するように声を上げた。
「ですが宇内様、それはいささか無謀では…今の久遠には危険が大きすぎます」
「一見するとそうだろうな、彼方よ。しかし今度のことは久遠にとってまたとない良い経験の機会だし、人間界を旅するなら人間である静夜殿が側にいた方が事がうまく運ぶのではないだろうか。それに彼が元いた人間の社会に混じることが静夜殿の記憶が蘇る糸口になるとは思わぬか?また永遠の行方に関しても、双子の弟である久遠なら何か引き合うものがあるかもしれぬ」
「…おっしゃるとおりです」
宇内の見解に反論の余地を見出せず彼方は引き下がった。
「久遠、静夜殿。聞いていたな。久遠に旅立ちの許可を与える。ただし静夜殿が同行することに同意する場合のみ。静夜殿、いかがかな」
久遠と一緒に旅をし、彼を助けながら永遠の行方と自分の記憶の鍵を探すーー最も心惹かれ、はやる道に静夜は迷わず即座にうなずいていた。
「同意します。久遠は俺が守ります。…彼は俺の命の恩人ですから」
思いがけない展開に、久遠は頼もしさと誇らしさに胸を膨らませて静夜を見上げた。
「静夜…ありがと」
静夜が久遠を見つめ、微笑んでうなずくと、それまで厳粛な面持ちで成り行きを見守っていた十二礎の面々も顔を綻ばせてひとり、またひとりと二人に拍手を送った。ただ彼方だけは秀でた眉間に皺を寄せ、ひそかに睫毛を伏せた。
「これで決まったな」
今回の話し合いの成果を宇内が総括した。
「永遠の失踪と静夜殿の出現、そして異変…これらの出来事がほぼ同時に起きたことは偶然とは思えぬ。手がかりは少なく前途は多難だが、変事に恐れを抱き足踏みしている時間はない。今目の前にある謎を解き明かし礎を健全に後世につなぐため、その役割の一端を若い二人に託すことにしよう」
久遠はあどけなくも意気込んだ笑みを、静夜は凛として揺るぎない決意をそれぞれ浮かべ、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
折りしも高く昇ってきた太陽が森の上端から光り輝く腕を差し伸べ、琥珀の木立を黄金色にきらめかせた。
太陽が沈み、星空に月がかかり、慌ただしい一日が終わろうとしている。
翡翠の屋根の樹上の家では、久遠と静夜がようやく寝る支度を整え、安堵の息をついたところだった。
「今日はほんと、大変な一日だったなあ」
久遠は布団の上でうーん、と両腕を伸ばした。
「でも、明日はもっと大変だぞ。地図と街道の予習に荷造り、各方面への挨拶回り…それと僕には宇内様と諸先生方から時間がある限り座学と実技の指導。おまえは武器選びだよな?」
側に並べた布団に座っていた静夜はうなずいた。
「うん。珠鉄の皆さんが立ち会ってくれて、稽古もつけてくれるらしい」
二人の出発は明後日の朝と決まったため、ここで二人が過ごす最後の日になる明日は旅支度で一日予定がみっちりだった。
「静夜はどんな武器が使えるのかな」
「さあ…触ってみないとわからないが…麗さんが言うには身体つきを見る限りかなり鍛練してるとか」
「確かにおまえ抱えて動かすのひと苦労だったもんな…何にせよ、おまえが強いとありがたい。僕は腕っ節はからきしダメで、術も初歩中の初歩だから」
明るい口調と苦笑いの後で、久遠は急に瞳と口許に寂しさを覗かせた。
「僕は出来損ないだけど…姉さんは天才的だった」
静夜は今日一日で久遠との距離がぐっと近くなったと感じていたので、率直な質問を単刀直入に投げかけた。
「…永遠さんはどんな人なんだ?」
訊かれたことが嬉しいのか、久遠は意外にもさらさらとなめらかな口調で語り始めた。
「姉さんは昔から真面目でちょっと気難しくて、大勢の人に囲まれてるよりひとりでいるのが好きだった。でも、おかげで同年代の男の子たちからは敬遠されちゃって…逆に女の子からは人気だったみたいだけど」
僕よりモテてたかもしれない、と付け足すと二人の間にくすくす笑いが漏れた。
「きょうだいの仲は良かった?」
「良かった…と断言したいところだけど、実のところ特別仲良しだったわけじゃないんだ。双子と言っても男女だから成長すれば自然と距離は生まれるし、能力も性格も正反対だから。でもベタベタ一緒にいるだけが仲良しじゃないだろ?たとえ表面的にはそっけなくて別々に行動してても僕たち双子の絆は特別中の特別だ」
「…うん」
他人が見て仲良しに見えることと本当の意味で結ばれていることはまったく違う。久遠の目と心は本質を見抜き捉えていると静夜は直感した。
「姉さんは子供の頃から森羅聖煌の所持者として尋常じゃない期待と責任を背負わされ、厳しい修行に耐えたりしょっちゅうひとり旅したりして血のにじむような苦労を重ねてきた。ただ星と人間を守り原礎の使命を果たすことにかける熱意は誰よりも強かった…きっと姉さんの性格上、それができない僕の分までいつの間にか重荷を背負ってしまってたんだ」
ランプの優しい燈に照らされた久遠の横顔は勤勉な姉に寄せる心配と素直な思いやりにあふれて揺れていた。痛々しいと感じさせるほどに。
「僕も本当は星養いの旅がしたかったけど、現実は無理だった。それなら役に立てない分、故郷でぬくぬくしてる分僕は姉さんを支えなきゃ、姉さんがいつ帰ってきても安心できるように、思い出の詰まったこの家を守らなきゃ、って。それが僕の生き方、僕の運命だって思ってた…おまえが現れるまでは」
はっとするような柔らかなささやきを添えて、久遠の深く澄んだ瞳が不意にしなやかに静夜を射抜いた。
「おまえに会えたことで僕も少しは変われるのかもしれない…少し怖い気もするけど…おまえと一緒なら、ちょっとだけやれそうだと思う。なぜだかわからないけど、そう思えるんだ」
そこで久遠はようやく彼らしい人懐こい笑顔になった。
「一緒に姉さんと、おまえの記憶を取り戻そう。…改めてよろしくな。静夜」
白く細い手がすっと差し出される。
「ああ。…よろしく。久遠」
素直なぬくもりに満たされて、静夜はその手を固く握り返した。
それゆえ久遠と静夜は昨日以上に濃密な奇異の視線を浴びながら歩くこととなった。
「ごめんな静夜、みんな人間を初めて見るとか怖がってるってわけじゃなくて、この森に人間がいることがとにかく不思議で珍しいんだ」
「わかってる」
生垣に設けられた門の前まで来たとき二人は門衛に止められた。
「ここで少しお待ちください」
門衛のひとりが中に入っていき、二人は言われたとおりそこに立って待つ。と、道の脇の木に寄りかかって二人を眺めている者がいることに久遠が気づき、声をかけた。
「界!何してるんだ、こんなとこで。まさか暇なのか?」
「…ボクが暇なわけないでしょ。忙しいのを押してわざわざ見に来たんだよ。役立たずが連れ込んだ厄介者の顔を」
久遠よりもさらに若い、幼いと言っても差し支えない小さな少年が面倒臭そうに幹から身体を起こして歩み寄ってきた。
「静夜、こいつは…」
「ボクは界。氷雨・グランドン・界」
「そう。僕より年下だけど、すごく優秀で氷雨の族の中でも指折りの有望株だ」
「取って引っ付けたような言い方だね。事実だけど。…キミが静夜?」
界は据わった三白眼と仏頂面で静夜の頭のてっぺんから爪先まで無遠慮にじろじろと観察した。その目つきはこの上なく失礼で高圧的だったが、静夜はもう慣れてきたのとやむを得なさから黙って界の視線を受け止めた。
「ふーん…キミが?…本当に?」
ひとしきり検分し、少し首を傾げて静夜を解放した。
「なんでキミみたいな平凡な人間がまやかしの障壁をくぐり抜けられたのか見当もつかないけど…久遠。ただでさえ役立たずのキミが、しかも先行きが不透明なときに、これ以上厄介事を増やさないでもらいたいね」
「僕はともかく、僕のお客である静夜を厄介者扱いするのはやめてくれない?」
「そのうちはっきりするんじゃないの。…ボクはこれからしばらく星養いの旅に出る。帰ってくる頃までにはなんとかしといてよ」
「それはちょっと約束できないなあ…」
「努力して。どうせ暇なんでしょ」
つっけんどんなひと言を残して界はぷいとそっぽを向き、すたすたと立ち去っていった。
「あーあ。いつ会っても可愛くない奴」
ここでも久遠は昨日までと変わらず毒舌も侮辱もどこ吹く風、といった表情だ。だが静夜はこの扱いはさすがに不当で行き過ぎではないかと感じ、積もりに積もった疑問をとうとう口にした。
「久遠…なぜ皆、君のことをあんなふうに嘲るんだ?それに君は…なぜ反論しない?」
久遠ははっと瞬きを止めて口をつぐみ、それからぽつりとつぶやいた。
「…それは、だって…事実だから」
「えっ…」
それはどういうことなのかーー静夜がさらに踏み込もうとしたとき門衛が戻ってきて二人の前に門を開けた。
「宇内様がお待ちです。私がご案内いたします」
「はい。…行こう」
「…ああ」
先に立って門衛についていく久遠の背中は、それ以上の問いを拒んでいるように見える。
(…今はその話をしてる場合じゃないな)
しかたなく状況を受け入れて静夜も後に続いた。
柱廊のような木立と木の下陰を抜けて三人は琥珀の館を奥へ奥へと進んでいった。
館と言ってもそこは建物の中ではなく、そもそも建物や構築物自体がほとんど見られない。最初は賢人然とした優美な原礎たちと頻繁に出会えたが、その姿や気配も先に進めば進むほど少なくなり、辺りはひっそりと静まり返ってゆく。
周囲を呆然と見回しながら歩いていた静夜は少しずつこの場所の名前の由来に気づき始めた。両脇に立ち並ぶ木々の肌に黄金色の樹脂がびっしりと露出し、すでに琥珀と化して朝陽にきらめいているのである。艶めく琥珀をまとい、年経りてなお壮健な木々の威厳には、翡翠の屋根の生き生きとした緑とはまた趣を異にする美しさがある。琥珀がこのように生成され地上に現れることは通常ない。これらの木々の樹齢がいったい何年なのか、いかなる魔法の力がここに働いているのか、静夜には想像もつかなかった。しかしこの場所に流れる途方もなく長い時間と侵し難い空気により、彼はここが館という比喩を冠したある種の神域、聖所なのだと理解するに至った。
琥珀の木立の先に小川に向けて開けた空き地があり、そこは磨き抜かれた白い大理石を敷き詰めたテラスになっていた。その縁もまた道から途切れなく連なる琥珀の木々に列柱のように囲われ、まるで神官たちの祈りの場の如き神々しさを醸し出している。しかしここには玉座も階段も、会議の円卓すらもない。そして今ここには大森林中から召集された十二礎の代表たちが勢揃いしていた。彼方と麗もいる。その中心に立って待っていたのは長老の宇内だった。
「宇内様。お連れいたしました」
「うむ」
久遠と静夜を宇内の前に導くと門衛は下がっていった。
静夜の目に宇内は枯れ葉の一枚すら残していない灰色の裸の老木のように映った。丈高く厳めしく、それでいて痩せぎすで深々とした諦観をまとい、もはや何の力もないように見せかけながら圧倒的な権威と知識を秘めていた。金髪の原礎たちの中にあって唯一の銀白色の長髪を膝まで垂らし、何の飾りも刺繍もない真っ白な衣にただ黒い革の帯だけを締めている。霜の降りた眉の被さる瞳は夜の湖のような輝く漆黒だった。
「私は土門・ユリディア・宇内。大森林の長老だ。君が例の人間の、静夜殿だね」
「はい。…このたびはお招きいただきありがとうございます。お会いできて光栄です」
静夜の慇懃な挨拶と態度を好ましく受け取ったらしく、宇内は何度かゆっくりとうなずいた。久遠が静夜に言った。
「宇内様は母さんが死んだ後僕と姉さんの面倒を見てくれたんだ。僕たちの師匠であり、おじいちゃんでもある。…年齢は二百五十は軽く超えてる」
最後のささやきが静寂を突き通すと、居並ぶ有力者たちから溜め息と苦笑と苛立ちの声がばらばらに噴き出した。宇内がすかさず右手を上げると久遠は慌てて手で口を塞ぎ、原礎たちも感情を収めた。
「聞けば静夜殿は記憶を失くしてしまったとか。その後いかがかな」
「いえ…特に、何も…」
静夜が言葉を濁してうつむくと宇内はおもむろに彼に歩み寄り、驚いて顔を上げた彼の額に大きな掌を当てた。
「ふむ…負傷はしていない。しかし鍵が見つからぬ」
「…?」
静夜と久遠は顔を見合わせる。宇内はまた二人から離れて語り始めた。
「さて…まやかしの障壁が破られ、この森に人間が迷い込んだことはこの数千年間絶えてなかった。これが何を意味するのか、我々は真剣に考えなければならない」
「まやかしの障壁は誤りを犯したり無意味なことをしたりは絶対にしません」
「そこには必ず何か重大な意味があるのです」
二人の原礎の発言に久遠は溜飲を下げた得意げな顔つきで鼻の穴を膨らませた。漂着した謎の人間を見過ごさずに保護したという自負があり、静夜のことをよそ者や厄介者呼ばわりする者にも我慢がならなかったからだ。
「静夜殿。君の処遇や今後については我々は可能な限り力になる。だがこれからする話は君自身にも大きく関わってくるだろう。まずは聞いてもらいたい」
「はい」
「うむ。…皆が知るとおり、今世界ではかつてない異変が起こっている。この数年、星養いの旅をする我らの同胞たちが次々と姿を消し、世界の礎の力の均衡が急速に崩れ始めている。野山は荒れ、水は澱み、雨や風は情け容赦なく叩きつけるようになった。凶暴な魔獣が数を増やし、人間たちの平穏な暮らしが脅かされている。事態はのっぴきならない段階に進もうとしている」
「旅に出ている原礎には付近からの要請に応じて臨機応変に救援や討伐に向かうよう指示を出していますが、負担も重く、対応が追いついていないのが現状です」
宇内の隣にじっと立っていた彼方がしかつめらしく補足した。
「またこのところ人間の間でも、突然姿を消して戻ってきたかと思うと精神を病んだり異常な怪力を見せたりと奇妙な変化を示す者たちがいるという報告があります。この件については我々原礎が立ち入ってよい問題かどうか調査中で、詳しいことはわかっていません」
十二礎の代表たちの顔に危惧が色濃くにじむ。一方で記憶がなく大森林での恵み豊かで穏やかな暮らしぶりしか見ていない静夜には外の世界の窮状が俄には信じられなかった。自分もそこから来たはずなのだ。裏を返せば大森林は守られているということだが、このままでいいとはとても思えなかった。
「我々はこれまで状況の把握と情報の収集に徹してきた。けして無為無策のまま手をこまねいていたつもりはない。また私は愛する同胞たちにその煌気の強さや能力によって優劣をつけるつもりも断じてない。だが事ここに至ってとうとうこれ以上は座視できぬ不測の事態が起きた」
静夜は宇内の言葉の意味がわからず困って眉間に皺を寄せた。宇内が久遠を見つめた。
「…久遠。もしや、まだ話していないのか?」
「…はい」
久遠は少し長めの息をはーっと吐いた。十二礎たち全員の視線が久遠に注がれ、彼の次の言葉を待つ。
「姉さんは旅に出てるって言ったよね、静夜」
「ああ。永遠さんだな」
「実は…行方不明なんだ。旅に出てしばらくした後便りが途絶えて、もう三か月になる」
「行方不明…?」
静夜はすぐに昨日の朝食のときに久遠が覗かせた不安げな表情を思い出した。今久遠の白い顔を覆っている影の暗さはそのときよりもさらに深い。心配そうに麗が尋ねる。
「三か月も音信が途絶えるなんてこと、今までなかったのよね?」
「うん。姉さんは月に一度は必ず連絡をくれてたから」
「各地を旅する者たちに情報があれば連絡するよう呼びかけていますが、今のところ有力な手がかりはありません」
彼方が淡々と付け加えると宇内はかすかな溜め息とともに少しうつむいた。
「永遠はもともと責任感と自立心が強く、人に頼るのを嫌がる性格だった。当然星養いの旅もいつもひとりだった。だがやはりひとりで行かせるべきではなかった…永遠の失踪は我々にとって痛手だ。そして残された唯一の肉親である久遠にとっては…大変につらく不安なことと思う」
「…」
静夜は傍らに立つ久遠を見た。久遠は日々募る苦しみに懸命に耐えるかのように、下ろした両方の握り拳を固く震わせている。出会ったときから今朝までの無邪気で明るくて人好きのする彼とはまるで別人だった。突然知らされた現実に、かける言葉が見つからなかった。
だが静夜は迷いを捨て、勇気を持って宇内に問いかけた。
「事態が深刻であることは理解します。…ですが…なぜ永遠さんひとりの失踪がそれほどまでに痛手なんですか?他の原礎たちと永遠さんと、何が異なるというんですか?」
「異なるのだよ。明らかに。永遠は他の何者にも代え難い唯一無二の存在なのだ」
「…どういうことですか?」
肩をぴくりと反応させた久遠を、彼方が気遣わしげに見つめている。久遠の沈黙を引き取るように宇内が答えた。
「永遠の持つ煌気は特別なのだ。たったひとりで千人分の原礎に匹敵する力を発揮する、極めて強力で稀有な煌気…森羅聖煌と呼ばれている」
「森羅…聖煌…」
「森羅聖煌はひと晩で砂漠を森に、荒野を沃地に変えると言われるほどの力で、並の原礎とは比べ物にならぬゆえにその所持者は数百年に一度しか現れない。その力は無尽蔵で万能だが、正しい知識のない者や邪な意図を持つ者が近づくには非常に危険な力でもある。そのため永遠は幼い頃から厳しい修行と研鑽を積み、原礎の中で最も卓越した者となった。永遠ほどの者が危難に見舞われ消息を絶ったとしたら…もはや一刻の猶予もままならない」
久遠は誰も気づかないほど小さく唇を噛む。その周りで十二礎の代表たちが口々に疑問や憶測を並べる。
「永遠の森羅聖煌が何者かに悪用される可能性は?」
「もしも永遠が、さっき彼方が言ったような異常化した人間に捕らえられていたら?」
「仮にそうだとして、もし永遠を取り戻しても、我々は人間たち自身の問題や病にまで踏み込むことはできんぞ」
静夜は次から次へと耳に流れ込む驚くべき話に頭に混乱を来しそうな心持ちながら、どうにかしてすべて吸収しようと思考回路を必死に働かせていたが、そこへいきなり久遠が決然とした表情で宇内の前につかつかと進み出たので呆気に取られた。
「宇内様、お願いです!僕に、姉さんを捜す旅に出る許可を与えてください!」
研ぎ澄まされた刃物のような声が響き渡る。その場にいる全員が固唾を呑んで見守る中、久遠はさらに叫んだ。
「姉さんから便りが来なくなってから、ずっと考えてました。ただ待つだけなのはもう嫌なんです…僕が姉さんの出涸らしで落ちこぼれの無能なのはわかってます。でも、せめて手がかりを探すくらいのことは…みんなの手伝いくらいはさせてください…!」
(出涸らし…?無能だって?)
静夜は我が耳を疑って棒立ちになっている。すると嘲笑と悲観のさざめきがたちまち波紋のように拡散した。
「ろくに能力を持たないおまえが?大森林や宇内様の庇護のもとを離れて旅に出るだって?そんな無茶な!」
「あなたには荷が重いですよ、久遠」
「死体になって帰ってくるのが関の山では?帰ってこられればの話だが」
「そ、そんな言い方ひどい…久遠ちゃんの気持ちも考えてあげてくださらないと…!」
「皆さん。少し発言を控えてください」
「いいよ、麗さん、彼兄。たとえ死んだとしても…僕は何もしないで後悔するよりは、少しでも姉さんやみんなの役に立ちたいんだ」
小さく抑えてはいるが、久遠の声には覚悟の張り詰めた潔さがある。静夜は部外者の自分だけが何も知らず孤立していることを感じながら久遠に尋ねた。
「久遠、どういうことなんだ?君も原礎の一員で、現に俺の目の前で不思議な力を見せてくれたじゃないか」
「確かに…でも、僕の煌気はあれが限界、子供と同じ程度なんだ。もう気づいてるんだろ、静夜。僕は姉さんとは正反対…生まれつきほとんど煌気を持たないんだ。どれだけ修行しても身につかなくて、星養いの旅にも出られない。生きてても何の役にも立てないお荷物なんだよ」
「そんな…でも、君は…!」
皆からあんなにも親しく、必要とされていたのにーーそう口から出かかって静夜は思わず言葉を飲み込んだ。久遠が自分自身を卑下するように肩をすくめて笑いかけてきたのだ。
「本当なんだ。おかしいよね、原礎の役割だの、常に学び続けてるだのって、教えてる本人が無能なんだから」
「久遠…」
生まれてこれまで幾度となく打ちのめされてきたのだろう。久遠は自身の現実と侮辱を乗り越え、受け入れてむしろ清々しい笑みを浮かべて立っている。静夜は胸がだんだん冷たくなるのを感じた。それとともに出会ってまだ三日しか経っていない彼に対してこんなふうに波立っている自分の心が信じられなかった。
そのとき、ここまで沈黙を貫いていた宇内が再び右手を上げて一同を黙らせた。そして何の感情も込もらないひたとしたまなざしで久遠を見下ろし、問いかけた。
「久遠。さっきおまえが永遠を捜したい、皆の役に立ちたいと言ったことは誠に本心からか?」
「そうです」
「微弱な煌気しか持たぬおまえが大森林を離れて外の世界を旅すればいつ死ぬかわからぬ。それがいかに恐ろしいことか理解してのことか?」
「はい」
「…うむ」
宇内はきっぱりとした久遠の返答に満足を得たようにゆっくりとうなずくと、今度はなぜか静夜の顔に目を当てた。
「ところで…静夜殿。君の今後についてなのだが」
「…は、はい」
今自分にその話を振られるとは思っておらず虚を突かれた静夜は居住まいを正して宇内に向き直った。
「君はここに残って煌気による治療を受けながら記憶が戻るのを待つこともできる。戻る保証はないが。…あるいはあえて記憶を失ったまま人間たちの中に戻り、普通の生活を送りながら刺激を受けることで記憶が蘇ることに賭けるか」
「…はい」
なんとなくあまり気持ちが乗らずに静夜は相槌だけ打つ。
「そして三つ目は…久遠とともに旅をし、彼を助け守りながら記憶の扉を開ける鍵を探すか」
「えっ…」
「僕とともに旅って…」
「永遠を捜す旅だ」
二人は思わず白眼を広げて呆然と宇内を見上げ、次に互いに顔を見合わせた。すっかり傍観者と化していた重鎮たちがたちまちざわつき始める。その中から、珍しく当惑した様子の彼方が皆を代弁するように声を上げた。
「ですが宇内様、それはいささか無謀では…今の久遠には危険が大きすぎます」
「一見するとそうだろうな、彼方よ。しかし今度のことは久遠にとってまたとない良い経験の機会だし、人間界を旅するなら人間である静夜殿が側にいた方が事がうまく運ぶのではないだろうか。それに彼が元いた人間の社会に混じることが静夜殿の記憶が蘇る糸口になるとは思わぬか?また永遠の行方に関しても、双子の弟である久遠なら何か引き合うものがあるかもしれぬ」
「…おっしゃるとおりです」
宇内の見解に反論の余地を見出せず彼方は引き下がった。
「久遠、静夜殿。聞いていたな。久遠に旅立ちの許可を与える。ただし静夜殿が同行することに同意する場合のみ。静夜殿、いかがかな」
久遠と一緒に旅をし、彼を助けながら永遠の行方と自分の記憶の鍵を探すーー最も心惹かれ、はやる道に静夜は迷わず即座にうなずいていた。
「同意します。久遠は俺が守ります。…彼は俺の命の恩人ですから」
思いがけない展開に、久遠は頼もしさと誇らしさに胸を膨らませて静夜を見上げた。
「静夜…ありがと」
静夜が久遠を見つめ、微笑んでうなずくと、それまで厳粛な面持ちで成り行きを見守っていた十二礎の面々も顔を綻ばせてひとり、またひとりと二人に拍手を送った。ただ彼方だけは秀でた眉間に皺を寄せ、ひそかに睫毛を伏せた。
「これで決まったな」
今回の話し合いの成果を宇内が総括した。
「永遠の失踪と静夜殿の出現、そして異変…これらの出来事がほぼ同時に起きたことは偶然とは思えぬ。手がかりは少なく前途は多難だが、変事に恐れを抱き足踏みしている時間はない。今目の前にある謎を解き明かし礎を健全に後世につなぐため、その役割の一端を若い二人に託すことにしよう」
久遠はあどけなくも意気込んだ笑みを、静夜は凛として揺るぎない決意をそれぞれ浮かべ、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
折りしも高く昇ってきた太陽が森の上端から光り輝く腕を差し伸べ、琥珀の木立を黄金色にきらめかせた。
太陽が沈み、星空に月がかかり、慌ただしい一日が終わろうとしている。
翡翠の屋根の樹上の家では、久遠と静夜がようやく寝る支度を整え、安堵の息をついたところだった。
「今日はほんと、大変な一日だったなあ」
久遠は布団の上でうーん、と両腕を伸ばした。
「でも、明日はもっと大変だぞ。地図と街道の予習に荷造り、各方面への挨拶回り…それと僕には宇内様と諸先生方から時間がある限り座学と実技の指導。おまえは武器選びだよな?」
側に並べた布団に座っていた静夜はうなずいた。
「うん。珠鉄の皆さんが立ち会ってくれて、稽古もつけてくれるらしい」
二人の出発は明後日の朝と決まったため、ここで二人が過ごす最後の日になる明日は旅支度で一日予定がみっちりだった。
「静夜はどんな武器が使えるのかな」
「さあ…触ってみないとわからないが…麗さんが言うには身体つきを見る限りかなり鍛練してるとか」
「確かにおまえ抱えて動かすのひと苦労だったもんな…何にせよ、おまえが強いとありがたい。僕は腕っ節はからきしダメで、術も初歩中の初歩だから」
明るい口調と苦笑いの後で、久遠は急に瞳と口許に寂しさを覗かせた。
「僕は出来損ないだけど…姉さんは天才的だった」
静夜は今日一日で久遠との距離がぐっと近くなったと感じていたので、率直な質問を単刀直入に投げかけた。
「…永遠さんはどんな人なんだ?」
訊かれたことが嬉しいのか、久遠は意外にもさらさらとなめらかな口調で語り始めた。
「姉さんは昔から真面目でちょっと気難しくて、大勢の人に囲まれてるよりひとりでいるのが好きだった。でも、おかげで同年代の男の子たちからは敬遠されちゃって…逆に女の子からは人気だったみたいだけど」
僕よりモテてたかもしれない、と付け足すと二人の間にくすくす笑いが漏れた。
「きょうだいの仲は良かった?」
「良かった…と断言したいところだけど、実のところ特別仲良しだったわけじゃないんだ。双子と言っても男女だから成長すれば自然と距離は生まれるし、能力も性格も正反対だから。でもベタベタ一緒にいるだけが仲良しじゃないだろ?たとえ表面的にはそっけなくて別々に行動してても僕たち双子の絆は特別中の特別だ」
「…うん」
他人が見て仲良しに見えることと本当の意味で結ばれていることはまったく違う。久遠の目と心は本質を見抜き捉えていると静夜は直感した。
「姉さんは子供の頃から森羅聖煌の所持者として尋常じゃない期待と責任を背負わされ、厳しい修行に耐えたりしょっちゅうひとり旅したりして血のにじむような苦労を重ねてきた。ただ星と人間を守り原礎の使命を果たすことにかける熱意は誰よりも強かった…きっと姉さんの性格上、それができない僕の分までいつの間にか重荷を背負ってしまってたんだ」
ランプの優しい燈に照らされた久遠の横顔は勤勉な姉に寄せる心配と素直な思いやりにあふれて揺れていた。痛々しいと感じさせるほどに。
「僕も本当は星養いの旅がしたかったけど、現実は無理だった。それなら役に立てない分、故郷でぬくぬくしてる分僕は姉さんを支えなきゃ、姉さんがいつ帰ってきても安心できるように、思い出の詰まったこの家を守らなきゃ、って。それが僕の生き方、僕の運命だって思ってた…おまえが現れるまでは」
はっとするような柔らかなささやきを添えて、久遠の深く澄んだ瞳が不意にしなやかに静夜を射抜いた。
「おまえに会えたことで僕も少しは変われるのかもしれない…少し怖い気もするけど…おまえと一緒なら、ちょっとだけやれそうだと思う。なぜだかわからないけど、そう思えるんだ」
そこで久遠はようやく彼らしい人懐こい笑顔になった。
「一緒に姉さんと、おまえの記憶を取り戻そう。…改めてよろしくな。静夜」
白く細い手がすっと差し出される。
「ああ。…よろしく。久遠」
素直なぬくもりに満たされて、静夜はその手を固く握り返した。
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