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Return Trip 12
しおりを挟む前田千代(まえだちよ)が西部公民館前でタクシーを降りると、辺りはまだ仄暗くタクシーが遠ざかれば風の音すらしない。
手には黒光りする鉄バットが握られており、地面に着くたびにカン、と高い音を立てる。
数十分前、タクシーの運転手は鉄バットが乗り込んだ瞬間に身体を強張らせていたが、苦笑いで「野球部の同窓会で……」と溢せば「ああ、なるほど……」と幾分か納得したように、されど時折ミラー越しに後ろを見ながら車を走らせた。
自分ではうまい理由だと思っていたが、よくよく考えれば違和感の方が勝るかもしれない。
静かな住宅街を見渡して、誰もいないことを確認した後、空にバットを掲げる。
世界を変えてやると意気込んだ昨夜、結局何も変わらずに今日を迎えた。
世界とミスマッチな自分と鉄バット。
お酒に弱いタイプではないが、酔ったかのようにふわふわとして愉快だ。
「クルッ」
「ポッポちゃんおはよう」
樫夏小学校の飼育小屋をフェンス越しに覗き込めば早起きなニワトリ達が首を傾げながら近付いてくる。
樫夏小学校は千代の母校で、この飼育小屋は昔のままに古い。
当時は自分の膝上ほどあるニワトリの大きさや、無遠慮に歩き回る姿を怖がっていたものだが今となっては近寄ってくる様子は可愛い。
このポッポちゃんは、当時のポッポちゃんとは違うのかもしれないが、もっとお世話をすれば良かったと少し後悔するほどだ。
「またね」
また、いつか。
フェンスに沿って歩いて行くと、背の低い遊具が並んでいるのが見えた。カラフルな鉄棒のポールは所々剥げて黒が露出している。
逆上がりが出来ない千代はいつも足を引っ掛けてぶら下がる『愚者』のポーズをしながら、隣で軽快に回転する友人を眺めていた。
運動神経が良くて、ちょっと喧嘩っ早い元気な女の子。
小学二年生になる時に転校してきた千代にとって、はじめての友達ーー『親友』。
公務員宿舎に住んでいた数年、部屋が近いこともあっていつも一緒に遊んでいた。小さなことで大喧嘩をしたこともあったけれど、部屋が近いのだから必然的に同じ道を帰る。
細やかな抵抗で数メートルの距離をキープするやり取りがだんだんと可笑しくなって、結局喧嘩は終わった。
遊具の向こうに走り回るかつての自分が見える気がする。フェンスをなぞりながら歩く。
「あれ、最後に会ったの……いつだっけ」
「ーーあれ?」
心臓が跳ねた。
誰かがいるなど考えもせず独り言を垂れ流していた。
そろり、と声のした方を見ればTシャツにGパン、上に茶色のカーディガンを羽織った女性が立っていた。
薄暗い中でも面影に見覚えがある。
「ーーちーちゃん?」
「ーーーーもっちゃん?」
予想で名前を呼んだものの、確信が持てずお互いに上から下までマジマジと見てしまう。
少し空が明るくなってその姿は鮮明に映るが常識が邪魔をする。
「ーールージュ?」
「! アクア! ちーちゃんだあああ!」
「しーっ! しーっ!」
昔付けた、二人だけのあだ名を千代が呼べば途端に確信を得たもっちゃんこと津田百伽(つだももか)が顔を綻ばせて千代に抱き着く。
百伽の大きな声が住宅街に響いて、近くの木に止まっていた鳥達が一斉に飛び立つ。
「ああああもう会いたかったああああ」
「待っ、首……しま、」
もう二十七歳にもなるというのに、まるでプレゼントをもらった子供のように喜びを隠しもせず百伽は千代を全力で抱き締める。
いつも、百伽が千代を抱き締める時は首元に手を回す所為で、毎度苦しさを味わうのだが、今日ばかりはそれすらも懐かしい。
なんだか、涙が出た。
フェンスとフェンスの間、校庭への出入り口には緩いロープが張られているが大人になった自分たちには一切妨害とならない。
こっそりと乗り越えて小さな山に登る。
樫夏山。
名目ばかりの秘密基地。
それでも必ず、放課後はここから始まっていた。
山の周りにあるフェンスには蔦が絡まって向こう側からこちらはほとんど見えない。
少しの罪悪感に蓋をして並んで寝転がり少し濡れた草の感触を堪能する。
深呼吸を数回して自然と一体化していると百伽が口を開いた。
「嘘みたい……こんな場所でこんな時間にちーちゃんに会うなんて。運命って言葉でも足りない」
「ほんと。ここ数年、誕生日おめでとうのメッセージ一往復だけだったのに。……最後に会ったの」
「五年前、だね。就職祝いに会ったのが最後」
「……そっか」
お互いに就職して、お金を貯めたら旅行に行こうだなんて話していた。
けれど、業種の全く違う二人は時間も休みも繁忙期も合わず、次こそはと口癖のように打ち込むだけとなった。
横目で百伽を見つめると、最後に会った時より少し頬が痩けただろうか。不健康、というよりは何処か疲れているような無気力さを感じる。
「ちーちゃん、」
「ん?」
百伽の視線が横に置いている鉄バットに向けられる。
だが三秒程見つめて、目を逸らす。
「ーーなんでもない」
「…………そっか」
百伽は笑っただけで、千代も追及しなかった。
言葉にはならない絶対的な信頼がそこにあるような気がして、少しむず痒く身を捩る。
空には緩やかに雲が流れ始め、風も出てきた。
もうすぐ起きなければ朝の散歩に来た早起きな誰かに自分たちのことが見つかってしまうかもしれない。
けれど、もう少しこのまま非現実的な現実に浸っていたかった。
「この場所はさ、いつも冒険の始まりの場所だったよね」
「そうそう。授業終わったら世界がファンタジーになるの」
「うちは剣士で」
「わたしは魔法使い」
「「まほうけんしごっこ!」」
思わず重なった声に笑いが込み上げる。
脳裏に蘇る夢に溢れた自分たち。
いつかは世界を救うのだと信じていた。
折り畳みの傘を毎日持ち歩いては剣や杖に見立てて振り回す。
人がいれば危ないと怒られるから人がいれば大人しく歩く。
そしていなくなったら決まって言うのだーー
「危ない……正体がバレるところだった」と。
「敵がうちらの兄ちゃんでさ」
「魔王設定だったもんね。実は兄が敵のボスとか、あの時は思わなかったけど、ベタだなぁ」
「王道なのよ。最強最悪の敵なんだけど、パーティはうちらだけ。なんてったって最強の剣士と魔法使いだったからね」
「わたし未来予知出来る魔法使いだったからよく敵の罠を躱してた」
「あったあった! うちらの泊まっている宿屋のトイレに爆弾が仕掛けられているってちーちゃんが予知した瞬間ちょう笑ったわ」
「小学生だからね!」
二人して思い出しては、お腹を抱える。
もう二十年近くも前の話だが次から次へと記憶が蘇ってくる。
春夏秋冬三百六十五日、夢と笑いにあふれていた日々。
「ねえ、ちーちゃん……いや、アクア」
百伽が体を起こして千代を見つめる。
太陽が登り始め、街も二人も光に包まれる。
「そのエクスカリバー、使えるかな?」
百伽の視線の先には先程まで千代が持っていた鉄バットがあり、朝日に照らされて鈍い光を反射している。
意図に気付いた千代は悪戯な笑みを浮かべ、鉄バットを両手で差し出す。
「大丈夫だよルージュ。エクスカリバーのメンテナンスしておいた。バッチリだよ」
「ありがとう。うちも力込めておいたから渡すね。ケーリュケイオン」
百伽はショルダーバッグの中からよれた折り畳み傘を取り出して千代に渡す。
「まだ同じやつ使ってたんだね」
小学生の頃から百伽の折り畳み傘は迷彩柄で取手が蛇の頭の形をした特殊なものだった。
雨の降る日は、千代はいくつもある傘の中からいつもほぼ唯一の迷彩柄を探した。草むらではうまく溶け込む色彩も、カラフルな街の中ではむしろ存在を主張する。
千代にとっては『旗』だった。
「懐かしい握りごごち。こんなに小さかったっけ」
「折り畳み……じゃなかった、まだ魔力を込めてないから本来の姿じゃないんだよ」
「あはは、そっか。ーーよーっし。わが伝説の杖ケーリュケイオン! 本来の姿を現せ!」
空に折り畳み傘を掲げてから瞬時に引き伸ばす。カション、と音がして柄の部分が現れる。
蛇の頭も相まって命を宿したように輝く。
ただそれだけのことなのに、二人には朝日を受けて封印から解かれた特別な武器に思えた。
「完璧だよ! 旅立ちに相応しい!」
身を乗り出して喜ぶ百伽は身長が伸びたくらいで昔と変わりない。
その懐かしさだけで千代は涙が出そうになり、もケーリュケイオンを握り締める。
「じゃあ、久しぶりに冒険行っちゃう?」
「うん。行こう。ーー悪い奴らを倒しにさ」
足が朝露に濡れた草で滑りそうになりながら、緩い山を駆け下りていく。
ロープを跨いで道路に出るとすっかり街は明るくなり、飼い主の起床を待ちわびる犬の遠吠えが何処かから聞こえてくる。
「ルージュ。今日も戦いの合図が鳴ったみたい」
「任せてアクア。もうどんな敵が来てもぶった斬ってみせるから」
先程千代がやったように百伽もエクスカリバーを空に掲げる。
昔は傘で代用していたことに比べると鉄バットはゴツいかもしれない。
変わらず鈍い光を反射しているが、百伽がそれをエクスカリバーと呼んだだけでこれ以上相応しいものはないような気すらしてくる。
「うん」
分かれ道に来ればエクスカリバーはバットに、ケーリュケイオンは傘に、二人は日常に戻る。
二十七歳の二人は今日も同じ世界でそれぞれの旅をする。
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