眠れるΩは白い森の中

玻璃 れにか

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épisode 3  Prince enterré dans les livres

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「莉絃……莉絃ってば!」
 クロワッサンでサンドされたソーセージがはみ出て落ちそうになるくらい、サンドウィッチを手に持ったまま食堂の窓の外をぼうっと眺めていた莉絃は、何度目かの燦菜の呼びかけでようやく我に返ったように視線をテーブルへ戻した。
「あっ……」
「あ、じゃないよ。治療から帰ってきたのに、心ここにあらず、って感じじゃない」
「そんなことないよ」
 率直な指摘に、視線を彷徨わせながら莉絃は慌ててサンドウィッチにかじりついた。燦菜は呆れたようにため息を軽くついたが、彼の眼から見ても治療から戻った莉絃の頬の血色は良く、普段通り明るく元気いっぱいのようで、案じていたような酷いものではなかったことが推測された。
「じゃあ、話を戻すと。問題なく帰ってこれたのは、その槐って人のおかげなんだね」
「う、うん」
「どうだったの?」
「どうって?」
「治療の中身」
 黄緑色の美しい 双眸そうぼうに問い詰められるようにじっと見詰められ、観念したように莉絃は うつむきながらぼそぼそと言葉を 漏 らした。
「痛くはなかった……それに、苦しいとかつらいって感じでもなかった、ただ、ものすごく恥ずかしかったけど……」
 耳まで紅く染めて押し黙ってしまった莉絃の様子を見て、燦菜は治療のために行った交合に対する感想はこれ以上詳細に出てこなそうだ、と燃え上がる探求心に ふたをした。
「槐って人、どんな感じの人なの?」
「背が高くて、すらっとしてる。目もとが優し気で、綺麗な人」
 思ったままを説明しているはずなのに、槐の特徴を全く伝えられていない気がして莉絃は自分がもどかしくなる。
「でも、見た目はそうなんだけど、実際話すと意志が強いっていうか……」
「強引なの?」
「たまにそういうときもあるけど……心強いって印象。優しくて頼りになる」
 赤面しながらも一生懸命に説明する姿を見て、強力なα因子を持つ者とはいえ莉絃に危害を加えるような人物ではなさそうだと、燦菜は内心胸を撫でおろした。
「槐、全然自分のこと教えてくれないからなあ……アカデミー生なのかとか、どの地域から来たのかとか聞いても、うやむやにされちゃって」
「そっか……まあ、アカデミーも事情がある人多いしね」
 ゆっくり頷いてサンドウィッチをふたたびかじりかけ、莉絃はハッと顔を上げた。当然ながら、何者か分からないということは、今後会えるかどうかも分からないということだ。せめて携帯端末のアドレスでも交換しておけばよかったと後悔が心を蝕む。そして、そんなことも思わないくらい人工島のヴィラで自分と槐は距離が近かったことを思い出し、少し切ない気持ちになった。


 病院の診察室の壁に掛けられた大型のモニターには、平坦なところからわずかに上昇していく緩い曲線が表示されている。
「今はわずかな上昇ですが、これは奇跡といってもおかしくない」
 担当医は興奮気味にモニターの線を指差した。
「ここが治療前、そしてここが今日のΩフェロモンの数値です。今はまだ誰にも分らないくらいごく微量ですが、0だった値が上昇を続けています」
「治療が効果あった……ってことでしょうか」
「間違いないですね。本当に、決して成功率の高い治療ではありませんでしたが、上手くΩホルモンを刺激してくれたようです。今回の治療は莉絃さんの機能回復の大いなる一歩になりますよ」
 医師の笑顔につられて莉絃も満面の笑みを浮かべる。長く治療を続けても前進することはなかったが、今ようやく回復への一歩が踏み出せそうだ。莉絃はを決したように
 医師の顔を見上げた。
「あの、お礼が言いたいんですけど、槐の連絡先を教えて貰えませんか」
「そうだね、気持ちは痛いほど分かる。でも、私も彼の個人情報を教えて貰っていないんだ。今回は政府から直接指示のあった治療研究で、この病院に彼のカルテすら存在していない」
「そうですか……」
「そんなにがっかりしないで、この治療に効果があることが実証されたんだから、必ず二度目の治療も実施されると思うんだ。お礼を言う機会はきっとあると思うよ」
 うなだれていたところに、その言葉を聞いて弾かれたように顔を上げた莉絃に医師は自身に満ちあふれた表情で頷いた。
「まず経過観察を続けることが最重要課題。次は一週間後に……あ、待って」
 医師は卓上のカレンダーを確認すると、軽く思案した後顔を上げて莉絃に提案した。
「この日はアカデミーの花火大会があるから、周辺は大勢の人で溢れかえる。次の日にしておこうか」
 毎年夏の終わりに行われる花火大会は、アカデミー生が楽しみにしている行事のひとつだ。所属の科によっては、その日のために設営手伝いや催し物の実施など大会に関連する活動に専念する人も多い。莉絃は花火自体は嫌いではないが、華やかなこの催しに特に参加するわけでもなく、去年も研究室棟の屋上でひっそり闇夜を明るく染める花火を眺めていた。
 この日は大勢の人がアカデミーの北部にある人口湖の近くに押し掛ける。当然、併設された病院に行くことも一苦労するに違いない。莉絃は医師の提案に迷いなく頷いた。

 ◇◇◇

「いいじゃん、俺、人が居なくて花火よく見える場所知ってるし」
 図書館に行く手前の小道で、金髪の青年が目の前に立ちふさがった。薬学部の成績トップで有名なαの男は、見た目も 溌剌はつらつとした美しさがありアカデミーの女生徒から相当人気があると聞く。本人もその自覚があるのか半年前に交際を断ったはずなのに、めげずに花火大会に莉絃を誘いに来たようだ。
「前にも言ったけど、俺はやらなきゃいけない研究があるから、無理」
「そうやってさあ、いろんな奴の誘いを断りまくってるんでしょ。 うわさになってるの知ってる? 莉絃ちゃん自分が可愛いからってすっごい 高飛車たかびしゃだって」勝手に好きなことを言っていればいい、と眼前に立ちふさがる青年を無視して図書館へ進もうとすると、ものすごい勢いで腕を引かれた。接触した部分から伝わる体温に強い嫌悪感を感じたが、男の力は強く簡単に払いのけられそうもない。
「あんまりワガママでいると、無理やり手に入れちゃおうって思われるかもよ」
 耳元で低く囁かれて全身に鳥肌が立つ。持っていたサッチェルバッグで思い切り
 掴んでくる腕を叩き、一瞬相手の力が弱まった隙にその場から駆け出した。
 金髪の青年は、名残り惜しそうに莉絃の背中を見つめていた。


 結局図書館には行けずに、研究室に戻ってきた莉絃は深いため息をついてから、電子ケトルのスイッチを点け、ロッカーに羽織っていた薄手のカーディガンと荷物を入れた。ヴィラでの治療からまもなく二週間が経とうとしている。昔から、莉絃は他人から触れることが苦手だった。なのに、どうして槐に触れられたときは平気だったのだろうか。担当医は彼を素性の知れない人物だと言っていたが、Ωに対して何か特殊な能力を持ってるのかもしれない。そう思わずにはいられないほど、槐の体温は莉絃にとって心地良かった。
 なぜか無性に彼に会って、話をしたくなった。また本を抱えてアカデミーの小道を走っていたら、もう一度ぶつかったりしないだろうか――そんな妄想をしている自分が可笑しくて、ティーポッドに茶葉を入れながら莉絃は苦笑した。
 熱湯を注ぐと、菊花はわずかに綻んでカモミールに似た爽やかな香りを立ち昇らせた。その時ようやく、莉絃は部屋の隅のソファからかすかな呼吸音がすることに気付き、身体を強張らせた。多くの本と毛布が重なる膨らみの中に、誰かが潜んでいる。先ほどの金髪男ではないにしろ、告白を断った誰かが花火大会へ誘うために勝手に研究室に入ったのかもしれない。恐怖心で震えそうになる身体を落ち着かせて、大型の長いプラスチック製の定規を片手にそっとソファに近づき、毛布の端を静かに捲った。
「――!」
 柔らかな黒髪が見えて、一瞬で誰か悟った莉絃は、信じられない気持ちで寝息を立てる男の顔をじっと見つめた。濃い睫毛、すっと通った鼻梁、形の良い唇。ヴィラで過ごしたときより少し伸びた襟足。間違いなく、会いたくてたまらなかった槐その人だ。
 どうしてこの研究室が分かったのだろうか。莉絃は自分がアカデミーの生徒で、植物学科に在籍していることを話していたから、そのことを覚えてくれていたのかもしれない。じっと槐の顔を見つめながら、莉絃は思考を巡らせた。
「……そんな穴が開くほど見つめられたら、起きにくいんだけど」
 急に槐の瞳が開き上体を起こす。毛布とともに本がバラバラとソファから落ちた。
「槐、どうしてここに――」
 言葉を さえぎるように、槐は手に持っていた本を莉絃に差し出した。それは、以前アカデミーで本を抱えて槐とぶつかった時に図書館から借りていた本だ。
「あのとき借りてた本、覚えてたから、図書館で貸し出し履歴見た」
 オフホワイトのカットソーとストライプの黒いパンツを身に纏った槐は、ソファで折り曲げていた長い足を延ばして大きく伸びをした。
「莉絃に会いたくなって。思ったより研究室散らかってて笑ったけど」
 揶揄い混じりに片頬笑みを浮かべて見つめられ、莉絃は嬉しさと照れ隠しと片付いていなことへの反論で混乱した表情になってしまった。落ち着くため、ティーポッドの中の茶を来客用のマグカップに注いで、ソファの近くにあるローテーブルの上に置いた。
「いい匂い」
「槐、ずっとお礼が言いたくて。このあいだ病院の診察で、治療の効果が出てるって言われて……」
「本当に?」
「うんうん、俺も最初信じられなかったけど、嬉しくて、槐にも伝えなきゃって……」
 言葉を言い終える前に、槐の腕に引き寄せられ、彼の膝の上に またがるような体勢で抱き締められる。久しぶりに感じる心地良い体温を懐かしく思いながら、莉絃は槐の肩口に顔をうずめた。
「治療の役に立てたんだ……嬉しすぎるんだけど」
 少し垂れた深い青色の瞳に顔を覗かれて、莉絃はソファの上で密着している状態に今更気づき、頬が上気するのを隠すために細い指で槐の頬をつねった。
「きっと次の治療もあるだろう、って。その時はお手柔らかにしてよね」
「……練習する?」
 大きな手が伸びて、スキニーデニムを纏った莉絃の柔らかな 臀部でんぶをゆっくりと揉んだ。跨いだ槐の両脚の付け根に、衣類越しに昂ぶる熱を予感して、莉絃の鼓動が跳ね上がる。
「ばっ、馬鹿! ここは教授とか他のアカデミー生も来るんだからっ……それにここは神聖な学びの場なんだから……」
 顔を紅潮させて必死に説明する莉絃の顔を見てにやりと笑う槐の表情を見て、ようやく自分が揶揄われていることに気付いた莉絃は、今度は両方の手で槐の頬をつねり上げた。


 日が暮れ、夜空にはレモン色の半月が浮かんでいる。研究室の 硝子がらす窓からは薄い月の光が優しく差し込んでいる。莉絃がテーブルの上のランプに火を灯すと、ランプに ほどこされた装飾の形を映した温かな光がそっと部屋に広がる。
「槐のおかげで、これから少しずつ治るかもしれないって希望が持てた。……何かお礼ができればいいんだけど」
 ソファに寝そべって本を読んでいた槐は、申し訳なさそうな莉絃の言葉を聞いて軽く微笑んでいたが、 ページの間に挟まっていた図書館だよりの紙を指で挟んで 凝視ぎょうしした。
「花火大会の日、古書の販売を行います――これって本物の花火?」
「うん、アカデミーの人口湖で毎年打ち上げるんだよ」
 今の時代、花火は旧時代を忍ぶもの、という認識が一般的だ。槐の反応を見て、莉絃はやはり彼が生粋のアカデミーの生徒ではなさそうだと確信した。
「花火とかデジタルのしか見たことないかも。やっぱり本物は違う?」
「すごく綺麗で迫力があるよ。一番違うのは音かなあ……祭りの文化も再現されていて、興味深いよ」
 今まで積極的に花火大会に関わらずにいた莉絃だが、すらすらとこうして花火大会の魅力を語っている。内心は興味あったのかもしれないと、勢いづいて話す自分を恥じた。
「祭り、いいかも……莉絃にお礼してもらおうかな」
 静かに話を聞いていた槐が、ソファから起き上がり口端を上げてにやりと微笑んだ。
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