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あざみ3
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あれほど鋭利に研ぎ澄まされていたリコの瞳が、突然不気味なほどゆったりと弧を描いた。
急激な変化に、全身鳥肌が立つのと一緒に、電流も流れたような気がした。ぴりぴりとした感覚に、左腕が痛み出す。その痛みを散らすために、腕を撫でる。
リコは、私へ満面の笑顔を向けてきたかと思えば、今度は私の存在を消し去ったかのように、湊の方へ視線をやっていた。すでに、意識は湊へくぎ付けのようだった。
「光くん、またね」
リコは手を振って、湊の方へ駆け足で向かっていく。
リコが遠く離れるほど、全身から安堵が漏れるようだった。
その横で、川島は遠くなっていくリコの背中を無表情に見つめていた。
「あの子、気を付けた方がいいぜ。悪い噂、ずっとあるからな」
「悪い噂?」
「リコにもマネージャーがついていて、御手洗っていう恰幅のいい中年女性がいるんだ。ともかく、リコをのし上げようと必死で、いろんな情報をかき集めている。リコのライバルとなりそうな奴がいるとなれば、片っ端から調べ上げてそいつの弱みを握る。そして、上げ足とって、すっ転ばせて、踏みつける。つい最近もリコと同い年くらいの俳優が昔悪い奴とつるんでいたとかっていう情報を得て、本人を脅した。そして、もともとその俳優がやるはずだった役を、リコが横取りしやがった」
談笑している湊の横に、リコが並んでいた。笑顔で何かを話ながら、湊の腕に絡みつこうとしている。湊はそれをうまくよけて、他の人へと声をかけていく。そして、その輪から外れていった。
「リコは、蓮をいたくお気に入りのようだが、一向に相手にされない。ストレスは、相当溜まっている状態だ」
リコは、思い通りにならなかった不満を隠そうともしない。
それに気づいた周囲のスタッフは、何とかリコの機嫌を取ろうと必死になっている。リコの口は、深いへの字になるばかりだった。
「まつりちゃんは蓮を守る立場だ。リコは当然、まつりちゃんの存在が面白くないだろう。そのことは、御手洗の耳にも入っているはず。まつりちゃんがターゲットにされないように、気を付けた方がいい」
川島が私へはっきりと告げられて、私は心に刻む。
この時、リコの鋭い瞳が再びこちらへと向いていことに、気づいていなかった。
それから、俳優たちや映画スタッフの打ち合わせがホテルの会議室で始まった。
みんな会議室へ缶詰になっている間、私は雑務をこなす。
廊下の隅に飾られている梅の花が、私をじっと監視しているようだった。
そして、会議が終了。
会議室から解散していく人たちは、その流れで食堂へと向かっていた。
それぞれオーダーした食事が運ばれてくる。カレー、カツ丼、ラーメン、パスタ……バラバラの食事が同じテーブルに運ばれてくる。湊を中心とした俳優や監督たちは、雑談しながらそれらに口をつけ食べ終えると、真面目な雰囲気にかわっていた。打ち合わせも兼ねているのだろう。湊の普段穏やかな目元は、キリっと上がっていて、いつもと違う雰囲気だ。川島やリコもその中にいる。
私は、そこから少し離れた場所で食事をとり終え、空になった食器を横に避けて、スマホへ目を落とす。社長からの連絡が入っていた。
問題ないかという内容に、返信しようと指先を滑らせる。そこに、私とテーブルを挟んだ正面で、誰かが立ち止まっていた。
様々な食事が混じり合った混沌とした匂いが漂った。画面から、意識を外してそちらを見やると小さな目と合う。食事トレイをもった女性が立っていた。長い黒髪にパーマをかけているせいで、さらに体格よく見える。
「蓮さんのマネージャーさんですよね? 私、リコのマネージャーをしている御手洗と申します」
よく通る声で、ついびくっと肩が跳ねてしまう。
この人が、川島の言っていた人。
御手洗は、机にトレイを置いて名刺を差し出していた。私も細心の注意を払い、名刺を差し出す。私は、立ち上がって腰を折った。
「鈴木まつりと申します。よろしくお願いいたします」
御手洗は、私の名刺と私自身をよく検分しているようだった。体系は、お世辞にもリコとはそっくりとは言えないが、どことなく、似ている雰囲気がある。目が少し怖い。
苦手意識がどうしても出ていしまいそうになるが、気づかれないように息を吐いて追い出して、笑顔で取り繕う。御手洗も営業スマイルを返していた。
御手洗は、そのまま私の正面に座る。そして、自分が持ってきていたトレイへを自分の方へ引き寄せた。パックに入った餃子、白米、醤油が乗っている。どこかのスーパーで買ってきて、持ち込んできたものらしい。
御手洗は、割り箸を手に取り、割った。ぱきっと、乾いた音が響く。
「お噂は、かねがねリコから聞いております。お仕事は、もう慣れました?」
川島からのアドバイスが、よみがえる。
「まだまだ、至らぬことはたくさんありますが、何とか」
御手洗は、餃子のパックの蓋を開けた。ニンニクの強い香が漂ってくる。
「そうですか。私はこの業界に長くいますので、何かあったら遠慮なく声をかけてください。お力になりますから」
御手洗は、下手な笑みを浮かべる。目が笑っていなかった。あまり関わってはいけない部類の人間特有の、歪な笑みだ。
「ありがとうございます。それでは、これで」
食事を終えて、横によけていた自分のトレイへと手を伸ばす。
その時、だった。
御手洗が、餃子に添付されていた醤油の袋を両手で引きちぎった。醤油がぴゅーっと、机に飛び散り、私の白いワイシャツの左袖に付着していた。白にじっとりと、大きめの茶色いシミが染み込んでいく。
「あら、大変! ごめんなさい! 醤油は、すぐ洗わないと落ちなくなってしまうわ! どうしましょう!」
御手洗が慌てているが、演技が下手だった。
私を困らせるためにやったことなのだろう。
「お気になさらず。替えはありますので。それでは、失礼します」
あまりのわざとらしさに、怒りもわいてこなかった。
私は、隣の席に置いておいた鞄とジャケットを手にし、ぺこりとお辞儀をしてその場から立ち去った。
食堂を出て、ふうっと息をつく。
汚れた左袖を見やる。かなり濃い茶色をしていて、目立ってしまっていた。醤油汚れは、色素が繊維に固着するのを防ぐために、冷水で汚れた部分を軽くすすいでおいた方がいいと聞いたことがある。
私は、お手洗いへと向かった。
左袖のワイシャツのボタンをはずして、左手をすぼめる。長袖の中に左手を入れて、汚れている部分へ手を添えた。そして、その上から水を軽く流して、右手で軽くこする。
はっきりとしていた茶色い輪郭が、少しだけ薄くなる。完全には消えてはくれないが、これである程度誤魔化せるだろう。
水を含んだ袖を軽く右手で絞る。そして、ポケットからハンカチを取り出そうとしたとき。
「本当に、ごめんなさいね」
御手洗の声に、心臓と一緒に体全体が跳ねた。汚れを落とすことに必死で、御手洗の存在に気付かなかった。バクバク心臓が早打ちして、固まってしまう。
「汚れが薄くなったみたいで、よかったわ。でも、袖が濡れてしまって気持ち悪いでしょう」
御手洗はそういうと、突然私の左袖をまくり上げていた。避ける暇もなかった。私の左腕に残されているざっくりとナイフで切られた跡が、露になる。
私は、御手洗の手を反射的に振り払っていた。袖をもとの位置に戻すが、御手洗の記憶から私の傷が消えることはなかった。まるで獲物を見つけた動物のような目になっていた。
「その傷、どうしたの?」
私に同情するように痛そうな顔をする。眉間にしわを寄せて、顔をしかめた目がギラリと光っていた。
「大したことありません。失礼します」
私は、変に上がる息を押し殺して、会釈をする。そして、逃げるようにその場を後にした。
傷を見られたから、何だというのか。
そう思うのに、心臓が嫌な音をまき散らし続ける。
冷えた傷口が、鋭く痛みだす。
水が滴るほど濡れている左腕のワイシャツを、右手で抑えた。
血が止まるほど強く、この不気味な感覚が消えていくように、必死に握り込んでいく。
急激な変化に、全身鳥肌が立つのと一緒に、電流も流れたような気がした。ぴりぴりとした感覚に、左腕が痛み出す。その痛みを散らすために、腕を撫でる。
リコは、私へ満面の笑顔を向けてきたかと思えば、今度は私の存在を消し去ったかのように、湊の方へ視線をやっていた。すでに、意識は湊へくぎ付けのようだった。
「光くん、またね」
リコは手を振って、湊の方へ駆け足で向かっていく。
リコが遠く離れるほど、全身から安堵が漏れるようだった。
その横で、川島は遠くなっていくリコの背中を無表情に見つめていた。
「あの子、気を付けた方がいいぜ。悪い噂、ずっとあるからな」
「悪い噂?」
「リコにもマネージャーがついていて、御手洗っていう恰幅のいい中年女性がいるんだ。ともかく、リコをのし上げようと必死で、いろんな情報をかき集めている。リコのライバルとなりそうな奴がいるとなれば、片っ端から調べ上げてそいつの弱みを握る。そして、上げ足とって、すっ転ばせて、踏みつける。つい最近もリコと同い年くらいの俳優が昔悪い奴とつるんでいたとかっていう情報を得て、本人を脅した。そして、もともとその俳優がやるはずだった役を、リコが横取りしやがった」
談笑している湊の横に、リコが並んでいた。笑顔で何かを話ながら、湊の腕に絡みつこうとしている。湊はそれをうまくよけて、他の人へと声をかけていく。そして、その輪から外れていった。
「リコは、蓮をいたくお気に入りのようだが、一向に相手にされない。ストレスは、相当溜まっている状態だ」
リコは、思い通りにならなかった不満を隠そうともしない。
それに気づいた周囲のスタッフは、何とかリコの機嫌を取ろうと必死になっている。リコの口は、深いへの字になるばかりだった。
「まつりちゃんは蓮を守る立場だ。リコは当然、まつりちゃんの存在が面白くないだろう。そのことは、御手洗の耳にも入っているはず。まつりちゃんがターゲットにされないように、気を付けた方がいい」
川島が私へはっきりと告げられて、私は心に刻む。
この時、リコの鋭い瞳が再びこちらへと向いていことに、気づいていなかった。
それから、俳優たちや映画スタッフの打ち合わせがホテルの会議室で始まった。
みんな会議室へ缶詰になっている間、私は雑務をこなす。
廊下の隅に飾られている梅の花が、私をじっと監視しているようだった。
そして、会議が終了。
会議室から解散していく人たちは、その流れで食堂へと向かっていた。
それぞれオーダーした食事が運ばれてくる。カレー、カツ丼、ラーメン、パスタ……バラバラの食事が同じテーブルに運ばれてくる。湊を中心とした俳優や監督たちは、雑談しながらそれらに口をつけ食べ終えると、真面目な雰囲気にかわっていた。打ち合わせも兼ねているのだろう。湊の普段穏やかな目元は、キリっと上がっていて、いつもと違う雰囲気だ。川島やリコもその中にいる。
私は、そこから少し離れた場所で食事をとり終え、空になった食器を横に避けて、スマホへ目を落とす。社長からの連絡が入っていた。
問題ないかという内容に、返信しようと指先を滑らせる。そこに、私とテーブルを挟んだ正面で、誰かが立ち止まっていた。
様々な食事が混じり合った混沌とした匂いが漂った。画面から、意識を外してそちらを見やると小さな目と合う。食事トレイをもった女性が立っていた。長い黒髪にパーマをかけているせいで、さらに体格よく見える。
「蓮さんのマネージャーさんですよね? 私、リコのマネージャーをしている御手洗と申します」
よく通る声で、ついびくっと肩が跳ねてしまう。
この人が、川島の言っていた人。
御手洗は、机にトレイを置いて名刺を差し出していた。私も細心の注意を払い、名刺を差し出す。私は、立ち上がって腰を折った。
「鈴木まつりと申します。よろしくお願いいたします」
御手洗は、私の名刺と私自身をよく検分しているようだった。体系は、お世辞にもリコとはそっくりとは言えないが、どことなく、似ている雰囲気がある。目が少し怖い。
苦手意識がどうしても出ていしまいそうになるが、気づかれないように息を吐いて追い出して、笑顔で取り繕う。御手洗も営業スマイルを返していた。
御手洗は、そのまま私の正面に座る。そして、自分が持ってきていたトレイへを自分の方へ引き寄せた。パックに入った餃子、白米、醤油が乗っている。どこかのスーパーで買ってきて、持ち込んできたものらしい。
御手洗は、割り箸を手に取り、割った。ぱきっと、乾いた音が響く。
「お噂は、かねがねリコから聞いております。お仕事は、もう慣れました?」
川島からのアドバイスが、よみがえる。
「まだまだ、至らぬことはたくさんありますが、何とか」
御手洗は、餃子のパックの蓋を開けた。ニンニクの強い香が漂ってくる。
「そうですか。私はこの業界に長くいますので、何かあったら遠慮なく声をかけてください。お力になりますから」
御手洗は、下手な笑みを浮かべる。目が笑っていなかった。あまり関わってはいけない部類の人間特有の、歪な笑みだ。
「ありがとうございます。それでは、これで」
食事を終えて、横によけていた自分のトレイへと手を伸ばす。
その時、だった。
御手洗が、餃子に添付されていた醤油の袋を両手で引きちぎった。醤油がぴゅーっと、机に飛び散り、私の白いワイシャツの左袖に付着していた。白にじっとりと、大きめの茶色いシミが染み込んでいく。
「あら、大変! ごめんなさい! 醤油は、すぐ洗わないと落ちなくなってしまうわ! どうしましょう!」
御手洗が慌てているが、演技が下手だった。
私を困らせるためにやったことなのだろう。
「お気になさらず。替えはありますので。それでは、失礼します」
あまりのわざとらしさに、怒りもわいてこなかった。
私は、隣の席に置いておいた鞄とジャケットを手にし、ぺこりとお辞儀をしてその場から立ち去った。
食堂を出て、ふうっと息をつく。
汚れた左袖を見やる。かなり濃い茶色をしていて、目立ってしまっていた。醤油汚れは、色素が繊維に固着するのを防ぐために、冷水で汚れた部分を軽くすすいでおいた方がいいと聞いたことがある。
私は、お手洗いへと向かった。
左袖のワイシャツのボタンをはずして、左手をすぼめる。長袖の中に左手を入れて、汚れている部分へ手を添えた。そして、その上から水を軽く流して、右手で軽くこする。
はっきりとしていた茶色い輪郭が、少しだけ薄くなる。完全には消えてはくれないが、これである程度誤魔化せるだろう。
水を含んだ袖を軽く右手で絞る。そして、ポケットからハンカチを取り出そうとしたとき。
「本当に、ごめんなさいね」
御手洗の声に、心臓と一緒に体全体が跳ねた。汚れを落とすことに必死で、御手洗の存在に気付かなかった。バクバク心臓が早打ちして、固まってしまう。
「汚れが薄くなったみたいで、よかったわ。でも、袖が濡れてしまって気持ち悪いでしょう」
御手洗はそういうと、突然私の左袖をまくり上げていた。避ける暇もなかった。私の左腕に残されているざっくりとナイフで切られた跡が、露になる。
私は、御手洗の手を反射的に振り払っていた。袖をもとの位置に戻すが、御手洗の記憶から私の傷が消えることはなかった。まるで獲物を見つけた動物のような目になっていた。
「その傷、どうしたの?」
私に同情するように痛そうな顔をする。眉間にしわを寄せて、顔をしかめた目がギラリと光っていた。
「大したことありません。失礼します」
私は、変に上がる息を押し殺して、会釈をする。そして、逃げるようにその場を後にした。
傷を見られたから、何だというのか。
そう思うのに、心臓が嫌な音をまき散らし続ける。
冷えた傷口が、鋭く痛みだす。
水が滴るほど濡れている左腕のワイシャツを、右手で抑えた。
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