願わくば一輪の花束を

雨宮 瑞樹

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ネモフィラ

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 カランと軽快にカウベルが鳴った。
 個室を清掃していていた手を止めて、出ようとしたら、すでに三浦店長が入口へと向かって、客を迎え入れていた。談笑が始まっている。どうやら、常連客のようだ。笑い声がしたあと、老男性がくるりと向きを変えて目が合った。たくさん刻まれている皺のほうれい線と目尻の皺が深くなった。会釈をしながら、私もそちらへつま先を向ける。

「山口様、おはようございます」
「鈴木さんは今日も元気で、素敵だねぇ」
 再び三浦の元で働き始めた私の名前は、影山紅羽ではなく、鈴木まつりとなっている。
「ありがとうございます」
 人間なんて単純なもので褒められれば、単純に嬉しくて勝手に気分が上がっていくものなのだろう。とても気持ちがよかった。
 窓の外には、雲一つない青空がある。私の心を映し出したかのようだった。
 二人の会話を聞きながら、ふとカウンター横へ目をやれば、ヒマワリが一輪、きれいに咲き誇っている。

 山口を皮切りに、人が絶え間なく入店してきていた。
 昼近くに来店するたちは、若い層ばかり。この店は、初めて私が働きにきた時と違って、客層はずいぶん若返っていて、話題の喫茶店となっている。
 みんなの目当ては、ただひとつ。
 佐藤蓮。
 佐藤蓮ファンの間では、この喫茶店は聖地となっているらしい。
 カウンターの後方の壁に飾られている佐藤蓮のサインがある。ここで湊がゲリラファンサービスを行った時に、書かれたものだ。
 またいつかここに彼がやってきて、ファンサービスを突然行うのではないかと、ファンの間で噂されているらしい。熱心なファンは、今か今かと彼が現れるのを待ち構えている。そんな理由で、ファンがどんどんやってくるのだった。
 そんな場所に、私がいても大丈夫なのか心配になったが、灯台下暗しというものらしい。名前さえ変えてしまえば、誰も気づくことはなかった。

 それから、忙しく動き回り、日は落ちていく。 
 そして、あっという間に閉店時間となっていた。
 店の清掃し終え、ヒマワリの水差しの水を入れ替える。その間、コーヒーのいい香りが漂っていた。
「紅羽ちゃん、お疲れさま。どうぞ」
「ありがとうございます」
 近くの席へ二人で座る。テーブルに置かれたカップからふわふわと湯気がたっている。香ばしくて、甘い香り。
 一日のご褒美は三浦の淹れてくれるコーヒーだ。この香りだけで、疲れが吹っ飛んでしまう。更に口に運べば、全身至福で満たされていくのだ。このコーヒーを飲んだだけで、生きてよかったと、大袈裟ではなくそう思えた。

「いきなり紅羽ちゃんがテレビに映って、湊君がビックリ仰天発言してから、二か月も経ったのね」
 実際には、顔から上はテレビには映っていなかったらしいのだが、三浦店長はすぐに私だということに気づいたのだという。大騒ぎになっている状況を知ってからというもの、居てもたってもいられなくなり、わざわざ小早川事務所にやってきてくれたのだった。
 三浦が訪ねてきたくれた当時、ともかく事務所は荒れていた。


 小早川は、眉間にしわ寄せて、終始難しい顔をしていた。
「あんなにマスコミが騒いでちゃ、どうしようもねぇな。紅羽には悪いが、マスコミの騒ぎが落ち着くまで、マネージャーに戻るのはもう時間を空けてからにしてもらう」
「はい、もちろんです」
 小早川からの提案を私の横で聞いていた湊は、大いに不満そうだった。
「マスコミなんか、気にしなきゃいいんですよ」
「お前が、余計なこといったからこんなことになったんだろうが!」
 大勢のマスコミの前で、私をマネージャーとして雇った理由を聞かれた湊の発言。
『恋に落ちた』
 集まっていた人々の脳みそを破壊できるほどの衝撃を与えておきながら、湊はずっといつも通りだった。
「じゃあ、あの場でなんていえばよかったんですか?」
「マネージャーとしての資質があったからとでも、なんでも、適当に言っておけばよかったんだよ! お前なら、そのくらいの機転くらい利かせられただろ!」
「そんなんじゃ、説得力に欠けるでしょ」
 湊は悪びれる様子もなくそんなことを言うから、小早川は顔を真っ赤にして怒りを爆発させる。それが、事務所内で永遠と繰り返されていた。私は、そんな二人をどうにかしてこの状況を落ち着かせたかった。
「あの……原因は、全部私にあります。そもそも、湊さんが私を庇ったから、こんなことになったんです。私がマネージャーに戻るお話は、なかったことにしてください」
「そんなことされたら、僕が困ります!」
 湊が珍しく声を大きくしていたが、食い下がるわけにもいかなかった。
「そのお気持ちは、嬉しいです。ですが……私には、リコさんとの確執もありますし……彼女がタレントをやっている以上、私が戻ってまた顔を合わせることがあるかもしれません。また、私のせいで何か摩擦が生じるかも」
「そっちに関しては、問題ない。リコには、この世界から自ら退場してもらった」
 小早川が即答していて、驚いた。リコ――梓は、ずっと湊に近づきたかった。そのために、同じ世界へ飛び込んだと言って過言ではなかったはずだ。それなのに、退場したなんてしんじられない。
 
「本当ですか?」
「そりゃあ当然だろ。あいつら兄妹がやったことは、完全に犯罪。退場していただく以外に道はない。というか、紅羽そもそも被害届出してねぇだろ? 警察に出して、あいつらを訴えたらどうだ? 取られた金だって、戻ってくるぞ」
 確かに犯人が分かっている以上、警察へ届け出れば、逮捕に至るかもしれない。しかし、梓はもしかしたら、由紀子の毒気にやられた一人である可能性もあるのではないだろうか。由紀子がどんな言葉を使ったのか詳細はわからないが、きっとうまく唆したのだろう。梓は、利用されたにすぎない。さらには、ずっと憧れていた湊の世界から、離れなければならなくなってしまった。それを思えば、もう十分な制裁はうけたのではないだろうか。
 そして、それ以上に。 
「これ以上争う気力が、私にはないので……」
 正直な本音だった。誰かといがみ合ったり、争ったりすることに、もう疲れ果てた。
「それに、元々私が持っていたお金は母絡みのものです。もう、母の気配のあるものに近づいたくないです」
「……そうか。お前がそれでいいっていうんなら、何も言わん」
 話を元に戻すぞと、小早川は自分の頭を撫で、息を吐いた。
「今回のマスコミ騒ぎに関しては、お前が責任を感じることはねぇぞ。むしろ、お前はよくやったと俺は評価しているくらいだ。マスコミに取り囲まれても、臆することもなく、堂々としていて、誰かと違って、無駄な発言がなかった。昔のお前では想像もつかないほど、立派だった。だからこそ、お前に辞められると、純粋に俺が困るんだよ。こいつのお守りをずっとやるなんて、こりごりだ」
 結局、話は元に戻り、小早川の湊への苦言が始まる。湊は湊で、嫌味を言われても、面倒そうな顔ばかりで、反省の色が見られなかった。その態度に、また小早川の怒りをかって、言い合いになる。
 その繰り返し。
 常に空気が悪かった。私はどうすることもできないまま、時間だけが過ぎていく。
 そこへ救世主のように颯爽と現れたのが、三浦店長だった。
 今の状況を説明すれば、三浦は笑って、あっさりと道を示してくれていたのだった。
「そういうことなら、しばらくうちで紅羽ちゃんを預からせてちょうだいよ。世間が落ち着くまでじっとしていろっていうのも、酷な話だし。うちに来れば気分転換にもなるし。状況が落ち着いたら、紅羽ちゃんは元の仕事に戻るってことで、いいんじゃないかしら?」

 
 三浦の提案を受けて、私は今に至るというわけだった。

「もう、ずっとここにいてほしいのになぁ。今日で終わりだなんて、本当に残念。時々は、遊びに来てね」
 三浦の言う通り、今日で三浦の手伝いは終了となる。
 小早川から、そろそろ戻ってこいと、呼び出しがかかったのだ。
 理由は単純で、マスコミや人の興味が移り変わったからだ。人の心は、その時の風向きでガラリと変わる。芸能人の恋愛事情よりも切実な事件が起きれば、あっという間に視線はそちらへ移っていく。
 所詮、私が抱えていた問題もそんなものなのかもしれない。自分自身はその世界がすべてで、大事にとらえているけれど、
 

 明日は一日休みをもらって、明後日からいよいよ本格的にマネージャーの仕事へ復帰する予定となっている。
 
「もちろんです。お休みの時は、遠慮なく顔を出しますね」
「ありがとう」
 三浦はニッコリ笑って、コーヒーを口につける。私も、口に含む。
「明日は、湊くんこっちに来るんだっけ?」
 口の中のコーヒーを飲み込むと、甘さが広がっていく。自然と口角が上がっていた。
「はい。湊さんのオフがちょうど重なって、私の荷物を運んでくださると。ウィークリーマンションだし、荷物はないから大丈夫って言ったんですけど」
 三浦のところで再び来ると決まった際、私は不動産屋の倉木のこころに連絡し、以前と同じウィークリーマンションを紹介してもらっていたから、ほとんど荷物はない。
 
 不動産屋の倉木のところへ出向いたときのことを思い出す。 
「波乱万丈な日々でしたね」
 倉木と再会した第一声はそれだった。
「私のこと、ですか?」
 ただきょとんとする私を見て、他に誰がいますか?と、倉木は笑っていた。
 波乱万丈な人生とは、よく聞くけれど、当事者はそんな自覚できないほど、目の前のことで精一杯なものらしい。改めて振り返ってみれば、物凄く成長できた時間であったと思うと同時に、もう二度と経験したくないと心から思う。私は、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
 そして、倉木は私を送り出す時「新居をお考えのときは、是非うちで」そう言ったのだった。

 
 
 目の前のカップへと視線を戻し、最後の一口を飲みほした。
「湊さん、ぜひ三浦さんにも会いたいって言ってました」
 そっとカップを机に置くと、三浦の口元が一気に緩んでいた。唇と目が、みるみるうちに弧を描いていく。私は、首を傾け目を瞬かせる。
「娘をくださいって言われる母親気分ね」
 なんて、いうから一気に顔に熱が集中した。
「な、何を言ってるんですか!」
 危うく殻になっているカップを落としそうになる。そんな私を見て、三浦は一層目を細めた。
 
「私は、本当に紅羽ちゃんのこと娘だって思っているからね。何かあればすぐに駆けつけるし、戻っておいで」
 先ほどの表情とは一転、三浦は真面目な顔をしてそんなことをいうから、顔に集まっていた熱は、胸に落ちてがじんと熱を帯びていく。不意に目頭まで熱くなる。熱が涙に代わって俯く私の頭を、三浦は優しく撫でていた。
 その手のぬくもりを感じながら、私に手を差し伸べてくれた、たくさんの人たちのことを思う。
 色んな事があった。
 辛くて負けそうになった。
 苦しくて泣いたこともあった。
 彼らの優しさに私は、どれだけ救われてきただろう。

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