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母へ
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――旅行当日
母の運転で美羽を横浜駅まで送ってくれていた車内は、楽しげな会話のラジオと軽快な音楽が充満していた。だが、母はそんな陽気さに染められることなく、運転している横顔はずっと曇りっぱなしだ。
本当に旅行に行って大丈夫なんだろうか。先生はなるべく安静にといわれている。親として止めるべきなのだろうか。けれども、数少ない楽しみを奪ってはいけない。
そんな迷いと葛藤が、内に収まりきれず顔前面に押し出されていた。手に取るようにわかるくらいわかりやすく。怜が美羽のことをわかりやすいという理由を、そのまま見ている気がして笑いそうになる一方で、ズキリと胸が痛む。
思い返せば母には最初から最後まで一番迷惑をかけたなと思う。母の人生は、ずっと私中心に回ってがんじがらめだった。
何とか母の気持ちを少しでも軽くさせてあげられる言葉をかけたいと思い昔の記憶を掘り起こしてみるけれど、病気になる前の楽しい思い出ばかりだ。そんな数多くの思い出の中で、なぜか鮮明に再生されたのは、何気ない日常のリビングで交わした母との会話の一端。
『お母さんとお父さん、美羽が大学生になったら二人で旅行に行っちゃうからね』
『え? 酷い。美羽も連れてってよ』
『大丈夫よ。その頃はきっと美羽にも好きな人ができて、お父さんやお母さんと一緒に旅行に行きたいなんて、言わなくなってるから』
『そんなのわかんないじゃん』
『じゃあ、その時に好きな人がいなかったら、仕方ないから連れてってあげる』
『仕方ないなら連れて行ってくれなくて結構です。お母さんって、自由奔放だよね』
『ふふ。いいじゃないの。こんな母でも立派な可愛い娘がちゃんと育ってくれているんだもの。お母さんは幸せよ。あとは、あなたが素敵な人と結婚して巣立っていってくれたらいうことないわ』
そういって、明るく笑っていた母。そんなとるに足りない些細な夢さえ見せることができないなんて、あの頃は思いもしなかった。
母を元気づけようしていたはずの思考がいつの間にか後ろ向きに変わっていて苦笑していると、駅に到着してゆっくりと車が停まった。
「着いたわよ」
そういう母の声は、楽しい旅行に出かける娘を送り出す明るさはなく、消えかかった娘の身体を案じるほの暗さを纏っていた。美羽は微笑みながら、その暗さをすべて引き受けたいと思う。
「ねぇ、お母さん。親不孝ばっかりでごめんね。湿っぽいこというの、これで最初で最後にするから聞いてくれる?」
そういいながら、美羽が母へと向けた瞳は陽だまりのように温かかった。何もかもが包みこむような優しさが、母のずっと隠してきた何かを刺激したのか、みるみる母の目には 分厚い水の層ができあがっていた。それに気付かないふりをして美羽は吐息を吐くように静かに続けた。
「人生、皆平等……とは私は残念ながら思えないけど、雨が降った後には必ず虹がかかる。それは、私信じられるようになったよ」
ラジオの雑音の合間から、息を詰まらせている音が聞こえる。母が泣く姿は、初めての病気の宣告を受けたときのただ一度きりだ。美羽のいない間に一人で涙することは、きっと数えきれないほど多くあったはずだ。隠れて泣いて、また次の日には娘の前で笑顔を見せる。そんな日々を繰り返して、母は強い母であろうとしたんだと思う。そして、最後まできっと、そうあろうとするんだろう。
きっと、今だって私の前で泣くことは望んでいない。 だから、美羽は母から視線を外して、外の景色へと移す。
視界に入ってくるのは、曇りのない青い空。その下で何かに追われ忙しく歩いていく足音。楽しげな声。明るい笑顔。今よりずっと先を見据えてみんなは、歩いていく。ラジオからは笑い声が流れていた。美羽は全身でこの先を思い描きながら、どこまでも柔和な表情を浮かべていた。
「谷底に落ちた時は本当に辛かったけどさ。でも、そんな中でもお母さんやお父さんに助けられて、周りの人にも支えられて楽しい日々を過ごして、最後には大切な人に出会えた。 本当に虹がかかったみたいだったよ。だから、お母さんもきっと辛いことの後にはいいことばかりだよ」
「あ。まだ死なないけどね」と付け加えて冗談っぽく笑いながらそういう。母は耐えきれず俯いて肩を震わせていた。その背に美羽は手をのせながら、また母の顔に皺を刻ませてしまったことに申し訳なく思う。掌から母の体温が伝わると、そんなこと言わないで。いなくならないで。そんな悲痛な叫びが掌から痛いほど伝わってくるようだった。不意に美羽の目頭も熱くなる。ラジオから流れ始めたバラードが流れ始める。それは、まるでこの胸の内を代弁してくれるかのような切ない別れの曲で、思わずそのままその流れに乗せられてしまいそうになるけれど、美羽はぐっと涙を押し返す。
「ありがとね、お母さん。じゃあ、行ってきます」
美羽は俯く母にカラリと笑って、母の熱くなっている背からそっと手を引き荷物を持ちドアを開ける。足をアスファルトに着けた直後。母の咽び泣く声が足に絡み付いてきて思わず動作を止めた。だが、それを振りきるように美羽はドアをパタリと閉めて真っ直ぐ歩き始めていた。
美羽は人混みに紛れ、自分の残してきた足跡を丁寧に消していくようにゆっくりと集合場所へと進んでいった。
母の運転で美羽を横浜駅まで送ってくれていた車内は、楽しげな会話のラジオと軽快な音楽が充満していた。だが、母はそんな陽気さに染められることなく、運転している横顔はずっと曇りっぱなしだ。
本当に旅行に行って大丈夫なんだろうか。先生はなるべく安静にといわれている。親として止めるべきなのだろうか。けれども、数少ない楽しみを奪ってはいけない。
そんな迷いと葛藤が、内に収まりきれず顔前面に押し出されていた。手に取るようにわかるくらいわかりやすく。怜が美羽のことをわかりやすいという理由を、そのまま見ている気がして笑いそうになる一方で、ズキリと胸が痛む。
思い返せば母には最初から最後まで一番迷惑をかけたなと思う。母の人生は、ずっと私中心に回ってがんじがらめだった。
何とか母の気持ちを少しでも軽くさせてあげられる言葉をかけたいと思い昔の記憶を掘り起こしてみるけれど、病気になる前の楽しい思い出ばかりだ。そんな数多くの思い出の中で、なぜか鮮明に再生されたのは、何気ない日常のリビングで交わした母との会話の一端。
『お母さんとお父さん、美羽が大学生になったら二人で旅行に行っちゃうからね』
『え? 酷い。美羽も連れてってよ』
『大丈夫よ。その頃はきっと美羽にも好きな人ができて、お父さんやお母さんと一緒に旅行に行きたいなんて、言わなくなってるから』
『そんなのわかんないじゃん』
『じゃあ、その時に好きな人がいなかったら、仕方ないから連れてってあげる』
『仕方ないなら連れて行ってくれなくて結構です。お母さんって、自由奔放だよね』
『ふふ。いいじゃないの。こんな母でも立派な可愛い娘がちゃんと育ってくれているんだもの。お母さんは幸せよ。あとは、あなたが素敵な人と結婚して巣立っていってくれたらいうことないわ』
そういって、明るく笑っていた母。そんなとるに足りない些細な夢さえ見せることができないなんて、あの頃は思いもしなかった。
母を元気づけようしていたはずの思考がいつの間にか後ろ向きに変わっていて苦笑していると、駅に到着してゆっくりと車が停まった。
「着いたわよ」
そういう母の声は、楽しい旅行に出かける娘を送り出す明るさはなく、消えかかった娘の身体を案じるほの暗さを纏っていた。美羽は微笑みながら、その暗さをすべて引き受けたいと思う。
「ねぇ、お母さん。親不孝ばっかりでごめんね。湿っぽいこというの、これで最初で最後にするから聞いてくれる?」
そういいながら、美羽が母へと向けた瞳は陽だまりのように温かかった。何もかもが包みこむような優しさが、母のずっと隠してきた何かを刺激したのか、みるみる母の目には 分厚い水の層ができあがっていた。それに気付かないふりをして美羽は吐息を吐くように静かに続けた。
「人生、皆平等……とは私は残念ながら思えないけど、雨が降った後には必ず虹がかかる。それは、私信じられるようになったよ」
ラジオの雑音の合間から、息を詰まらせている音が聞こえる。母が泣く姿は、初めての病気の宣告を受けたときのただ一度きりだ。美羽のいない間に一人で涙することは、きっと数えきれないほど多くあったはずだ。隠れて泣いて、また次の日には娘の前で笑顔を見せる。そんな日々を繰り返して、母は強い母であろうとしたんだと思う。そして、最後まできっと、そうあろうとするんだろう。
きっと、今だって私の前で泣くことは望んでいない。 だから、美羽は母から視線を外して、外の景色へと移す。
視界に入ってくるのは、曇りのない青い空。その下で何かに追われ忙しく歩いていく足音。楽しげな声。明るい笑顔。今よりずっと先を見据えてみんなは、歩いていく。ラジオからは笑い声が流れていた。美羽は全身でこの先を思い描きながら、どこまでも柔和な表情を浮かべていた。
「谷底に落ちた時は本当に辛かったけどさ。でも、そんな中でもお母さんやお父さんに助けられて、周りの人にも支えられて楽しい日々を過ごして、最後には大切な人に出会えた。 本当に虹がかかったみたいだったよ。だから、お母さんもきっと辛いことの後にはいいことばかりだよ」
「あ。まだ死なないけどね」と付け加えて冗談っぽく笑いながらそういう。母は耐えきれず俯いて肩を震わせていた。その背に美羽は手をのせながら、また母の顔に皺を刻ませてしまったことに申し訳なく思う。掌から母の体温が伝わると、そんなこと言わないで。いなくならないで。そんな悲痛な叫びが掌から痛いほど伝わってくるようだった。不意に美羽の目頭も熱くなる。ラジオから流れ始めたバラードが流れ始める。それは、まるでこの胸の内を代弁してくれるかのような切ない別れの曲で、思わずそのままその流れに乗せられてしまいそうになるけれど、美羽はぐっと涙を押し返す。
「ありがとね、お母さん。じゃあ、行ってきます」
美羽は俯く母にカラリと笑って、母の熱くなっている背からそっと手を引き荷物を持ちドアを開ける。足をアスファルトに着けた直後。母の咽び泣く声が足に絡み付いてきて思わず動作を止めた。だが、それを振りきるように美羽はドアをパタリと閉めて真っ直ぐ歩き始めていた。
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