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惨劇【父テオドール視点】
しおりを挟む「コリンヌは無事なんだろう?」
テオドールの声はいつもより低く、張り詰めたものだった。
「わ、分からないわ……」
シェアナは顔を覆いながら、か細い声で答える。
「私の、目の前で……切りつけられて……その後、ここに運ばれている最中も意識がなかったの。血が、血が……沢山……。」
言葉を紡ぎながら、彼女の肩が震え始める。その姿に耐えきれず、テオドールは彼女を強く抱きしめた。
玄関ホールに立つテオドールの目に映るランマイヤーの屋敷の様子は、どこか異様だった。
普段ならいつ訪れても明るく賑やかなこの邸宅が、今はザワザワとした不安と、何かが張り詰めたような空気が満ちている。
その時、侍女が二人、彼らの横を慌ただしく駆けて行った。その手には大量の布が積まれ、その顔色は優れず。悪い予感が胸に膨らんでいく中、家令に応接室へと案内された。
「うちの侍女はどこに?」
「今、奥の部屋にて治療を受けております。」
「状態は?」
家令は一瞬口を開きかけたが、結局答えなかった。その沈黙がテオドールの不安を一層掻き立てる。
その時、ドアの向こうから早足で歩いてくる足音が聞こえた。現れたのは、ランマイヤー家の当主フランクだった。
彼の整った顔は蒼白で、瞳には焦りと苛立ちが浮かんでいた。
「フランク。」
「ああ、テオ。すまない。」
「何を謝るんだ。」
「夫人を危険な目に合わせた。君のところの侍女も切りつけられた。」
「……夫人は大丈夫か?」
「……出血が多くてな。今主治医が治療に当たっている。」
「……暴漢は?捕まったのか。」
「いや。逃げられた。」
「何だと?従者が付いていたのだろう?」
「……二人共死んだんだ。」
「は」
フランクはきつく手を握りしめていた。
「……待て、フランク。そんな筈はないだろう?あのジュードとガイが、そんな簡単に……」
彼らの名を口にするだけで、胸が苦しくなった。ジュードとガイ――フランクがクロエ夫人の護衛としてつけた従者たち。テオドールもよく知る、類稀なる剣の達人だった。
学生時代、平民出身でありながら武術の才能を認められ、貴族の学舎に移籍した稀有な存在。さらに王家の兵士団にまで昇り詰め、前衛部隊を率いていた彼らを、フランクが夫人の護衛に引き抜いたのだ。
テオドール自身、かつて何度も彼らと手合わせをしたことがあったが、一度たりとも勝てたことがない。その二人が――死んだ?そんなことがあり得るのか?
「剣は?」
「抜かれていた。」
フランクが苦い顔で答える。彼にとっても二人は良く知る人物だった。
「だが、使われる前に切られている。反撃の余地もなかった。」
「そんな……。そんな、馬鹿な。」
テオドールの手が震えた。まるで体の芯が凍りつくような感覚が襲ってくる。
「御者も殺られていた。相手は手練だ。」
フランクの声には憤りが滲んでいた。
「恐らくは……ただの暴漢ではない。
……夫人、精神的に辛い中、大変申し訳ないんだが、騎士団に目撃した内容を伝えて欲しい。犯人を捕縛する為に動くと、こちらに知らせがあった。今から騎士がやって来る。」
「……勿論です。」
声を震わせながらも気丈に答えるシェアナの背中を、テオドールは優しくさすった。その手のひらにも、微かに震えが伝わる。
その時、扉の向こうから「旦那様」と切羽詰まった侍女の声が響いた。家令が急いで扉を開けると、戸口に立っていた女性は酷く動揺し、息も絶え絶えになりながらも言葉を紡いだ。
「う、ウィントマン伯爵家の侍女が……事切れました……。」
瞬間、時間が止まったように感じられた。
シェアナは呆然と目を見開き、言葉を探すように唇を動かす。
「……コリンヌが……?嘘よ。」
その呟きは、静まり返った室内に小石のように落ち、吸い込まれていった。テオドールは悪い予感が現実となったことに、目を伏せたまま唇を強く噛むことしかできなかった。
コリンヌ――彼女は、シェアナが嫁いできた時から、ずっと寄り添ってきた腹心の侍女だった。
「嘘……嘘よね?」
「シェアナ、落ち着いて。」
「嘘よ、だって……だってさっきまで……。」
「シェアナ……。」
彼女の声は、ひび割れたガラスのように脆く、砕けていった。
「……うちに帰ったら、刺繍の続きをする話を……してたのよ。
どうして……どうしてこんなことに……。」
シェアナの言葉は、誰に届くこともなく虚空に消えた。涙が一粒、その頬を伝って落ちていった。
哀しみはあまりに大きく、現実だと受け入れることすらできない。ただ、震える指先で握りしめたスカートの裾が、痛ましいほどに彼女の苦しみを語っていた。
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