【完結】ただ好きと言ってくれたなら

須木 水夏

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約束と未来【ハーヴェイとエミリア】

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 急に失われてしまったエミリアの柔らかな笑顔。その瞬間に、自身の中に湧き上がった喪失感に、ハーヴェイは戸惑いを覚えた。

 彼女が再び浮かべた笑みは、誰の目にも明らかな取り繕ったものだった。それが心の奥にある本当の気持ちを覆い隠そうとする仮面であることを、ハーヴェイは痛いほど理解していた。


「⋯⋯ハーヴェイ殿下。私ども貴族の間では、の名は既に禁忌となっております。は、王族の血を引く者を害しました。
 私には、貴方様の前でその名を口にする勇気がございません。」


 エミリアの声は静かで平坦だったが、それはその奥底にある感情を抑えてのものだろう。


「⋯⋯。君は、彼女の幼馴染で、友人だった。」

「ええ。ずっと友人でございました。私はそう思っていたのですが、彼女にそう思われていたのかは、分かりませんの。」


 その言葉に、ハーヴェイは小首を傾げた。彼女達は学園でいつも一緒にいて、時々教室や廊下で、マルベリアが普通の少女のような顔をして、微笑んでいたのを見ていた。それは、王室で彼女を見かける時、そしてハーヴェイが彼女と接する時には見られない表情だった。


「⋯⋯何故、そう思う?」


 エミリアは一瞬だけ目を伏せ、遠くを見るようにして静かに答えた。


「彼女は、幼い頃からその身に背負った重圧に耐え続けておりました。……けれど、私にその辛さを口にしたことは一度もございません。
 ともに過ごした時間の中で、彼女が心を解きほぐしていた瞬間も確かにあったかもしれませんわ。
 少しでも笑って下さるようにと願って、彼女と共にずっと過ごしてまいりました。
 ⋯⋯ですが、私には止められませんでした。」


 静かな笑みを浮かべ、独り言のようにエミリアはそう呟いた。



「真実の友であれば、あれほどまでに苦しんでいることに気づくべきでしたの。
 ⋯⋯彼女の本当の気持ちは知っておりました。それを伝えるべきでしたのに、私にはそれが出来なかったのです。」


 ハーヴェイはエミリアの言葉を黙って聞いていた。どこか自己を責めるようなその声に、彼はふと感じたことを口にする。


「⋯⋯嫌われたくなかったのではないだろうか。」

「え?」


 反射的に出たその言葉は、ハーヴェイの本心だった。


「貴女に、友人として嫌われたくなかったのではないだろうか。
 嫉妬や劣等感……それは誰も知られたくない感情だ。」


 自分にも覚えがある。兄──マクベスへの複雑な感情が、頭をよぎった。

 幼い頃、マクベスは憧れの存在だった。誰よりも足が速く、剣技に長け、人当たりもよい。いつも朗らかに笑っていた。

 彼はマルベリアと婚約し、ハーヴェイの初恋を奪った相手でもあった。

 婚約解消となったときは胸がすっとした。それなのに、落ちぶれた今でも王であるフレデリックから目をかけられる彼に、ハーヴェイはずっと嫉妬していた。


(誰にも知られたくない。だから、口には出さない。けれど、心の中ではずっと悪態をついている。)



 ましてや、彼女は「淑女の鏡」と讃えられる存在だったのだ。誰かに心の奥底を見せること、それ自体がどれほど難しいか想像に難くない。

「──格好の悪いところを、見せたくなかっただけだよ。」

ハーヴェイの声が静かに部屋に響いた。


「……そうであるなら、」


 エミリアの言葉は、そこで止まった。
ハーヴェイが顔を上げると、彼女は小さく微笑んでいた。だが、その水色の瞳から涙がこぼれ落ちるのを止めることはできなかった。
 声もなく、ただぽろぽろと流れる涙に、ハーヴェイは息を飲む。彼女がこれほど深くを想っているとは思わなかったのだ。

 結局、ハーヴェイも何を言えばいいのか分からず、ただ静かにその場にいた。
 互いに口を閉ざしたまま、──けれどその沈黙の中で、確かに通じ合うものがあった。








「ハーヴェイ殿下。」


 しばらくの静寂の後、エミリアがハンカチで涙を拭いながら口を開いた。ぐす、と鼻を鳴らす音が、どこか子どものようで愛らしくもあった。


「婚姻を結ぶにあたり、お願いがございます。」

「……何だろうか。」

 エミリアは、少しだけ躊躇したように目を伏せた後、静かに口を開いた。

「毎年、夏にノスラルへ足を運びたいのです。」

「ノスラル……。」

 ハーヴェイはその名を反芻した。
 北部の地方都市。マルベリアが身を寄せる修道院のある土地だ。その地は厳しい冬の間、雪が道を覆い尽くし、他の土地から隔絶されてしまう。訪れることが可能なのは、わずかに日照が長くなる春から夏の間だけ。

 その理由を問う必要はなかった。


「私の願いを叶えていただけますか?」


 エミリアは目を伏せたまま、けれどどこか強い意志を感じさせる声でそう尋ねた。


「良いよ。」


 ハーヴェイの返事は簡潔だった。それ以上何も言わない。

 エミリアがハッと顔を上げた時には、ハーヴェイは穏やかに微笑んでいただろう。

 その時になって、ようやくエミリアの涙は止まった。彼女の瞳には、先ほどまでの悲しみの色が薄れ、少しの安堵の影が宿っていた。

 ハーヴェイもまた、その姿を見て微笑んだのだった。















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