6 / 73
誰も語らない母の教え
起きなかった物語
しおりを挟む
一九一四年当時のバルカン半島が危険なことなんて誰だって知っていたわ。オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者夫妻の訪問に対しては、暗殺の予告さえされていた。だからフランツ・フェルディナント大公がわざわざサライェヴォを訪れたのを、愚かだという人もいるでしょう。でも、あの方にも言い分があったはずよ。だって、ホーエンベルク公爵夫人との身分違いの結婚を許すのに、祖父は条件をつけていたの。たとえ大公が将来帝位に就かれても、夫人は皇后にはならない。おふたりの間の御子たちも、帝位継承権を有さない。つまりは、大公はお妃であるはずの方と公の場に出ることはできないということだったのよ。あらゆる儀式や式典の場で、ホーエンベルク公爵夫人はご夫君と遥かに離れた席に着かなければならなかった。おふたりの間には、「歴とした」大公や大公女、公子や公女が何十人と並んでいたの。その中に、私がいたこともあったわね。本来の身分には相応であっても、もちろん帝位継承者の伴侶としては屈辱的にも思えたでしょう。だからでしょうね、ホーエンベルク公爵夫人はいつも少し──刺々しいと感じられたわ。ええ、私にしてみれば母がいたかもしれない場所にいる方だったから、好意的ではない物言いになってしまうのかもしれないけれど。そうね、祖父に取り成すなんて考えたこともなかったわ。それを薄情と言われてしまうのは心外だけど。私だって、あのころは色々とあったのよ。でも、だからといってあんな恐ろしい最期を迎えて当然だったとは思わなかった。それこそ、当然のことでしょう。
とにかく──サライェヴォ行きは、おふたりにとって特別な機会だったの。皇族としてよりも先に、軍の任務でのことだったから。だから、夫婦で揃って歓迎されることができたの。長いこと冷遇されてきたおふたりだもの、危険だからまたの機会に、なんてことはできなかったのでしょうね。皇族だって、血の通った人間なのだもの。ああ、そんなことを言うのは許されない立場なのは分かっているのだけど。思い上がった言い分だと、貴方の顔が語っているのは分かるけれど。慎重でない行動によって全世界を巻き込んだ戦端を開かせた──それだけ多くの人の死の切っ掛けになってしまったのだとしても、あの方たちなりの事情があったということを、私は知っている。それだけのことよ。
私は今でもたまに考えることがあるのよ。フランツ・フェルディナント大公が母と結婚していたらどうなっていたのかしら、って。固い愛や絆で結ばれてはいなくても、立場に相応しい振る舞いをして、相応に義務を果たす夫婦になられていたことでしょう。格別の思いがないからこそ、危険を冒してサライェヴォを訪れたりしない──あの大戦も、起きなかったのではないかしら、って。そう考えると、私の母は歴史を動かしたと言えるのではないかしら。父や祖父や祖母の物語では常に脇役だったあの方にも、物語があったのよ。
ええ、結局は起きなかった物語よ。貴方の言う通りね。でも、母の実際の物語は少なくとも私には大きな意味がある。自分の人生は自分で決めるということ。決められたように見える道も、自分自身の選択によって変えられるということ。母の道は私が選んだものとは違うけれど、それはとても大事な教訓だったわ。
私のことを祖母や父に似ているという人は多いわね。皇室に生まれながら伝統や権威を嫌い、自由や新しい時代を求めたのだと。それを否定はしないわ。でも、私は母の娘でもあるのよ。祖母や父に比べれば知られていないし、私の生き方を嫌った方でもあるけれど、それでも母と娘の繋がりは強いものよ。私は確かに母の血を引いているし、母から自分の人生を切り拓くとはどういうことかを学んだの。
私の道はどんなものだったか──それは、貴方に言う必要があることかしら。今日会ったばかりの、何も知らない人なのに。何もかもをすぐに聞き出そうとするなんて、ずいぶん欲張りなことではないのかしら。こんなに萎れた私を、何時間も付き合わせようというのかしら。年寄りの話にうんざりしたのでなければ、日を改めてまた来れば良いわ。歓迎するかどうかは約束できないけれど。ええ、私にも気分や体調があるのだもの。ちょうど昔話をしたい気分の時に来たなら、またほかのことも話してあげても良いでしょう。
それではもうお帰りなさいな。犬に吠えられないように気を付けて。牙も身体も大きな、立派なジャーマンシェパードよ。あの子たち、私以外の言うことを聞かないから。
とにかく──サライェヴォ行きは、おふたりにとって特別な機会だったの。皇族としてよりも先に、軍の任務でのことだったから。だから、夫婦で揃って歓迎されることができたの。長いこと冷遇されてきたおふたりだもの、危険だからまたの機会に、なんてことはできなかったのでしょうね。皇族だって、血の通った人間なのだもの。ああ、そんなことを言うのは許されない立場なのは分かっているのだけど。思い上がった言い分だと、貴方の顔が語っているのは分かるけれど。慎重でない行動によって全世界を巻き込んだ戦端を開かせた──それだけ多くの人の死の切っ掛けになってしまったのだとしても、あの方たちなりの事情があったということを、私は知っている。それだけのことよ。
私は今でもたまに考えることがあるのよ。フランツ・フェルディナント大公が母と結婚していたらどうなっていたのかしら、って。固い愛や絆で結ばれてはいなくても、立場に相応しい振る舞いをして、相応に義務を果たす夫婦になられていたことでしょう。格別の思いがないからこそ、危険を冒してサライェヴォを訪れたりしない──あの大戦も、起きなかったのではないかしら、って。そう考えると、私の母は歴史を動かしたと言えるのではないかしら。父や祖父や祖母の物語では常に脇役だったあの方にも、物語があったのよ。
ええ、結局は起きなかった物語よ。貴方の言う通りね。でも、母の実際の物語は少なくとも私には大きな意味がある。自分の人生は自分で決めるということ。決められたように見える道も、自分自身の選択によって変えられるということ。母の道は私が選んだものとは違うけれど、それはとても大事な教訓だったわ。
私のことを祖母や父に似ているという人は多いわね。皇室に生まれながら伝統や権威を嫌い、自由や新しい時代を求めたのだと。それを否定はしないわ。でも、私は母の娘でもあるのよ。祖母や父に比べれば知られていないし、私の生き方を嫌った方でもあるけれど、それでも母と娘の繋がりは強いものよ。私は確かに母の血を引いているし、母から自分の人生を切り拓くとはどういうことかを学んだの。
私の道はどんなものだったか──それは、貴方に言う必要があることかしら。今日会ったばかりの、何も知らない人なのに。何もかもをすぐに聞き出そうとするなんて、ずいぶん欲張りなことではないのかしら。こんなに萎れた私を、何時間も付き合わせようというのかしら。年寄りの話にうんざりしたのでなければ、日を改めてまた来れば良いわ。歓迎するかどうかは約束できないけれど。ええ、私にも気分や体調があるのだもの。ちょうど昔話をしたい気分の時に来たなら、またほかのことも話してあげても良いでしょう。
それではもうお帰りなさいな。犬に吠えられないように気を付けて。牙も身体も大きな、立派なジャーマンシェパードよ。あの子たち、私以外の言うことを聞かないから。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】新・信長公記 ~ 軍師、呉学人(ごがくじん)は間違えない? ~
月影 流詩亜
歴史・時代
その男、失敗すればするほど天下が近づく天才軍師? 否、只のうっかり者
天運は、緻密な計算に勝るのか?
織田信長の天下布武を支えたのは、二人の軍師だった。
一人は、“今孔明”と謳われる天才・竹中半兵衛。
そしてもう一人は、致命的なうっかり者なのに、なぜかその失敗が奇跡的な勝利を呼ぶ男、“誤先生”こと呉学人。
これは、信長も、秀吉も、家康も、そして半兵衛さえもが盛大に勘違いした男が、歴史を「良い方向」にねじ曲げてしまう、もう一つの戦国史である。
※ 表紙絵はGeminiさんに描いてもらいました。
https://g.co/gemini/share/fc9cfdc1d751
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる