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運命の出会い
「手足の取れたトルソー」
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さあ、休憩は終わり。気を取り直してまた話し始めましょうか。
オーストリア=ハンガリー帝国を構成していた諸国を喪ったオーストリア共和国のことを、フロイトが「手足の取れたトルソー」と評したのはこの前話したでしょう。それから、当時のフランス首相のクレマンソーはこんなことも言ったらしいわね。「オーストリア、それは残った部分だ!」と。新しい名前で独立することもできず、手足をもぎ取られるようにかつての構成国を喪ったか弱い小国、それが当時のオーストリアだった。戦時中から赤字国債で戦費を賄っていたし、終戦──敗戦後は、賠償金の負担も重くのしかかってきていた。独立した旧帝国領の諸国は、オーストリアとの間に関税を設けて自国の市場を守ることに腐心していた。オーストリアは、見捨てられただけでなく締め出されもしたという訳ね。
せめてドイツと寄り添おうにも、大戦の記憶は戦勝国側にも深い傷跡を残していたから、ドイツとオーストリアの「合邦」なんて許されなかった。孤立無援の状況を強いられた、という意識がヒトラーに対して付け入る隙になってしまったのは、あの段階ではまた別の話だけれど、とにかく生まれたばかりのオーストリアは、とても長く生きることはできなさそうな未熟児といった姿だったわ。
祖父と父の遺産も、私たちの先行きを明るく照らしてくれる訳ではまったくなかった。お金があっても、そもそも買うものがなかったのですもの。食べるものにも困る生活を送ることになったなんて、私ひとりのことならば自由の代償と嘯(うそぶ)くこともできたかもしれないけれど、子供たちに十分な食事をさせてあげられないことには、どれだけ心を痛めたことでしょう。何しろ私には頼れる係累がもうオーストリア国内にはいなかったもの。あのハプスブルク法によって国外に追放されてしまったか、たとえ国内に留まっていたとしても、離婚裁判で世間を騒がせるような一族の面汚しに手を差し伸べてくれる人はいなかった。母でさえも、オットーに味方して私を激しく非難したのよ。ええ、私はそれだけのことをしたのだから、不満を言うつもりはないけれど。
でも、だからこそ、祖国の未来を案じる以上に、私自身と子供たちの未来のためにも、政治の成り行きを注視せずにはいられなかったわ。帝王学なんて施されなかった私が、帝国が滅びてやっと、世間のことに目を向けるようになったのよ。身内が頼れないなら、公的な援助をどれだけあてにできるのか、新しい時代、新しい国でどう生きるべきかは真剣に考えなければならないものでしょう。だから私の思想的な転向は、何もお嬢様のお遊びのようなことではなかったのよ。あのころの私は良い大人で母親だったし、自分たちの将来について、時流を真剣に見極めなければならなかったのだもの。
世の中も、私自身の周辺も、何もかもが不安定で落ち着かなかった一九一九年の最初の総選挙の結果は、だから私にとっては大いに指針となったわ。オーストリア共和国で第一党となったのは、社会民主党だったのよ。保守的で、王党派ともいえるキリスト教社会党や、親ドイツ的なドイツ民族主義党ではなく、ね。これからの時代を率いるのはいったい誰なのかを占うのには、とても象徴的な結果といえるでしょうね。
オーストリア=ハンガリー帝国を構成していた諸国を喪ったオーストリア共和国のことを、フロイトが「手足の取れたトルソー」と評したのはこの前話したでしょう。それから、当時のフランス首相のクレマンソーはこんなことも言ったらしいわね。「オーストリア、それは残った部分だ!」と。新しい名前で独立することもできず、手足をもぎ取られるようにかつての構成国を喪ったか弱い小国、それが当時のオーストリアだった。戦時中から赤字国債で戦費を賄っていたし、終戦──敗戦後は、賠償金の負担も重くのしかかってきていた。独立した旧帝国領の諸国は、オーストリアとの間に関税を設けて自国の市場を守ることに腐心していた。オーストリアは、見捨てられただけでなく締め出されもしたという訳ね。
せめてドイツと寄り添おうにも、大戦の記憶は戦勝国側にも深い傷跡を残していたから、ドイツとオーストリアの「合邦」なんて許されなかった。孤立無援の状況を強いられた、という意識がヒトラーに対して付け入る隙になってしまったのは、あの段階ではまた別の話だけれど、とにかく生まれたばかりのオーストリアは、とても長く生きることはできなさそうな未熟児といった姿だったわ。
祖父と父の遺産も、私たちの先行きを明るく照らしてくれる訳ではまったくなかった。お金があっても、そもそも買うものがなかったのですもの。食べるものにも困る生活を送ることになったなんて、私ひとりのことならば自由の代償と嘯(うそぶ)くこともできたかもしれないけれど、子供たちに十分な食事をさせてあげられないことには、どれだけ心を痛めたことでしょう。何しろ私には頼れる係累がもうオーストリア国内にはいなかったもの。あのハプスブルク法によって国外に追放されてしまったか、たとえ国内に留まっていたとしても、離婚裁判で世間を騒がせるような一族の面汚しに手を差し伸べてくれる人はいなかった。母でさえも、オットーに味方して私を激しく非難したのよ。ええ、私はそれだけのことをしたのだから、不満を言うつもりはないけれど。
でも、だからこそ、祖国の未来を案じる以上に、私自身と子供たちの未来のためにも、政治の成り行きを注視せずにはいられなかったわ。帝王学なんて施されなかった私が、帝国が滅びてやっと、世間のことに目を向けるようになったのよ。身内が頼れないなら、公的な援助をどれだけあてにできるのか、新しい時代、新しい国でどう生きるべきかは真剣に考えなければならないものでしょう。だから私の思想的な転向は、何もお嬢様のお遊びのようなことではなかったのよ。あのころの私は良い大人で母親だったし、自分たちの将来について、時流を真剣に見極めなければならなかったのだもの。
世の中も、私自身の周辺も、何もかもが不安定で落ち着かなかった一九一九年の最初の総選挙の結果は、だから私にとっては大いに指針となったわ。オーストリア共和国で第一党となったのは、社会民主党だったのよ。保守的で、王党派ともいえるキリスト教社会党や、親ドイツ的なドイツ民族主義党ではなく、ね。これからの時代を率いるのはいったい誰なのかを占うのには、とても象徴的な結果といえるでしょうね。
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