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五章 まこと、ひとつ
2.夏から秋へ
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清吾が神田の裏長屋に着くころには、東の空が白み始めていた。大方の庶民が起き出す時刻には、ほんの少し早い。「信乃」は、安らかな夢を見てくれているだろうか。
若い男の朝帰りは、悪所で遊んだゆえだとでも思ったのだろう、木戸番は意味ありげな笑みで彼を通した。まあ、当たらずとも遠からずではあるし、清吾が晴れやかな顔をしていたのは恐らく間違いない。
(早く早く、信乃を安心させてやらないと)
今の彼の頭にあるのは、それだけだ。眠るあの女を置いて吉原に向かったのは、まったく非道なことだった。あの時はまだ、信乃の偽者にどう接すれば良いか、肚を決めかけていた。唐織こそが本物かも、などという淡い希望を抱いてもいた。
唐織への怒りも憤りも、疑問も期待も憧れも、一夜にして砂上の楼閣と崩れ落ちた。信乃への想いも、そうだった。
清吾は、信乃を想っていたとは言えない。見つけ出したとして、身請けも駆け落ちもする気はなかった──思いつかなかった。見せかけの偽の痣に騙されて思い込んで、かつての思い出に立ち入って語ろうとはしなかった。唐織に美談を売りつけようとした彼こそが、美談の主役になることに酔っていたのだ。幼馴染を苦界から救い出してやるのだ、と。
その思い上がりを懇切丁寧に突き付けられた感覚は、悪い酔いから醒めるのに似ていた。己の狡さ醜さを認めてしまえば──まことなど、彼にはないのだと認めれば──嘘吐きなりにやるべきことも分かってくる。
(嘘は、心を隠してくれる)
闇にも輝くみそかの月を見ることができるのは、羨ましいほどに想いを貫ける者たちだけだ。どうせ手の届かぬ者と諦めてしまえば、嘘が塗り潰す真っ暗闇も悪くない。むしろ、安心しさえするだろう。居心地の良い闇で、「信乃」の最後の日々を包み込んでやるのだ。その一心が、清吾の足を急がせた。
誰のものとも知れぬ名を負って死ぬことになるであろう女のために、彼ができるせめてもの償いがそれだろうと思うからだ、
* * *
住まいの戸を開けた瞬間、清吾は中から転がるように飛び出した「信乃」に鉢合わせた。
「清、吾……っ」
涙声の呼びかけで、彼女が目を覚ました時に間に合わなかったのを悟る。否、辛うじて間に合った、と言うべきか。清吾の足音を聞き分けたということはないだろうから、もう少しでも遅れていたら、「信乃」は這ってでも彼を探しにさ迷い出ていたのかもしれない。
「ああ、すまねえな。ちょっとだけ──朝の空気が吸いたくてな」
これ以上衰弱させなくて良かった、という安堵。そして、一瞬でも心細い想いをさせてしまった、という悔恨を隠して、清吾は精いっぱい優しい笑みを繕った。夜明け前の散歩など、今まで一度たりともしたことがなかったのに。彼の舌は、すっかり嘘に馴染んでいるようだ。
「だって……布団が、冷たかったから!」
「信乃」は、痩せ枯れた指で爪を立てるように清吾にしがみつくが、その身体は哀しくなるほどにもう軽い。骨と皮ばかりの身体を難なく受け止める、清吾は「信乃」を大事に腕に抱えて屋内に戻った。
裸足で飛び出そうとしていた「信乃」の足を拭くべく、まずは上がり框に座らせてから立ち上がると──清吾の背を、涙声の訴えが追いすがった。
「あたし、捨てられたかと……今日こそ、もう終わったのかって──」
「俺がお前を置いていく訳ないだろう、信乃」
土間の隅の水瓶から、桶に水を汲んで布を絞る。「信乃」の着た切りの寝間着の裾が乱れて、例の痣を模した刺青が露になっているのをそっと直して、土を踏んだ足を清めていく。清吾に触れられるのが耐えられないというかのように、力なく暴れるのを抑えて手を動かしていると、「信乃」が手で顔を覆う気配が伝わってきた。
「で、でも。あたし、あたしは……っ」
信乃ではないのに、と言おうとしたのだろう。一度は暴かれ、この女も打ち明けたことではある。それでも再び言うことは難しいようだった。哀れなことだった。
「大丈夫だって。当分は家でできる仕事にしようと思ってるんだ。桶とか踏み台とか、そんなのを作ってさ。それならお前も安心だろう?」
息を乱して震える「信乃」を見上げて、清吾は笑んだ。まるで、何ごともなかったかのように。
「良いんだ、信乃。何も言わないで、良い」
嘘は嘘のままで良い、と。伝えることができただろうか。昨日までのように、相手を宥めるための方便ではない。心からの言葉だと、分かってもらえただろうか。
幼子にするように、清吾は「信乃」の背を撫で、さすり、甘やかした。大丈夫だ、何も言うなと繰り返しながら。それを信じたのか、抗うのに疲れたのか──やがて、本当の名の知れぬ女は脱力して彼に身体を預けた。
* * *
幼馴染同士が寄り添う振りで、清吾と「信乃」はひと月ほどを共に過ごした。最初はぎこちなく、それでも最後のほうは演技もなかなか様になっていたのではないだろうか。清吾のほうも、「信乃」のほうも。河岸見世とはいえ吉原にいた女だったのだから、唐織ほどでなくても嘘を操る術を心得ていたのかもしれない。内心ではどうだったのか──踏み込んで尋ねることは、できなかったが。
七夕は、ささやかながら五色の糸を飾った笹を立てた。信乃の短冊は、裁縫の上達を願っていた。廓では、女郎が針を持つことはなかったから、と。お前に繕ってもらえるなら嬉しいと、清吾はまたもあり得ぬ未来を語った。
蛍を買って室内に放したこともあれば、ふたりして月を眺める夜もあった。仲秋の月は、揃っては見られぬだろうと、互いに予感はしても口にはしなかった。
過去のことも先のことも、語れば嘘に綻びが出てしまうから。清吾も「信乃」も、「今」の和やかさを保つので精一杯だったのだ。それぞれの心の裡では、偽りのものだと分かり切っていたとしても。
「信乃──お前は、幸せだったか。ほんの短い間でも、安らいでくれたか……?」
だから、清吾が問うたのは女の死に顔に対してだった。答えはもう返らないと、分かった時でないと聞けなかった。
残暑から秋へと季節が移り変わる七月の末、「信乃」は死んだ。目を閉ざした表情は安らかではあったが、その内心も同様だったなどとは、清吾には言い切ることはできなかった。
若い男の朝帰りは、悪所で遊んだゆえだとでも思ったのだろう、木戸番は意味ありげな笑みで彼を通した。まあ、当たらずとも遠からずではあるし、清吾が晴れやかな顔をしていたのは恐らく間違いない。
(早く早く、信乃を安心させてやらないと)
今の彼の頭にあるのは、それだけだ。眠るあの女を置いて吉原に向かったのは、まったく非道なことだった。あの時はまだ、信乃の偽者にどう接すれば良いか、肚を決めかけていた。唐織こそが本物かも、などという淡い希望を抱いてもいた。
唐織への怒りも憤りも、疑問も期待も憧れも、一夜にして砂上の楼閣と崩れ落ちた。信乃への想いも、そうだった。
清吾は、信乃を想っていたとは言えない。見つけ出したとして、身請けも駆け落ちもする気はなかった──思いつかなかった。見せかけの偽の痣に騙されて思い込んで、かつての思い出に立ち入って語ろうとはしなかった。唐織に美談を売りつけようとした彼こそが、美談の主役になることに酔っていたのだ。幼馴染を苦界から救い出してやるのだ、と。
その思い上がりを懇切丁寧に突き付けられた感覚は、悪い酔いから醒めるのに似ていた。己の狡さ醜さを認めてしまえば──まことなど、彼にはないのだと認めれば──嘘吐きなりにやるべきことも分かってくる。
(嘘は、心を隠してくれる)
闇にも輝くみそかの月を見ることができるのは、羨ましいほどに想いを貫ける者たちだけだ。どうせ手の届かぬ者と諦めてしまえば、嘘が塗り潰す真っ暗闇も悪くない。むしろ、安心しさえするだろう。居心地の良い闇で、「信乃」の最後の日々を包み込んでやるのだ。その一心が、清吾の足を急がせた。
誰のものとも知れぬ名を負って死ぬことになるであろう女のために、彼ができるせめてもの償いがそれだろうと思うからだ、
* * *
住まいの戸を開けた瞬間、清吾は中から転がるように飛び出した「信乃」に鉢合わせた。
「清、吾……っ」
涙声の呼びかけで、彼女が目を覚ました時に間に合わなかったのを悟る。否、辛うじて間に合った、と言うべきか。清吾の足音を聞き分けたということはないだろうから、もう少しでも遅れていたら、「信乃」は這ってでも彼を探しにさ迷い出ていたのかもしれない。
「ああ、すまねえな。ちょっとだけ──朝の空気が吸いたくてな」
これ以上衰弱させなくて良かった、という安堵。そして、一瞬でも心細い想いをさせてしまった、という悔恨を隠して、清吾は精いっぱい優しい笑みを繕った。夜明け前の散歩など、今まで一度たりともしたことがなかったのに。彼の舌は、すっかり嘘に馴染んでいるようだ。
「だって……布団が、冷たかったから!」
「信乃」は、痩せ枯れた指で爪を立てるように清吾にしがみつくが、その身体は哀しくなるほどにもう軽い。骨と皮ばかりの身体を難なく受け止める、清吾は「信乃」を大事に腕に抱えて屋内に戻った。
裸足で飛び出そうとしていた「信乃」の足を拭くべく、まずは上がり框に座らせてから立ち上がると──清吾の背を、涙声の訴えが追いすがった。
「あたし、捨てられたかと……今日こそ、もう終わったのかって──」
「俺がお前を置いていく訳ないだろう、信乃」
土間の隅の水瓶から、桶に水を汲んで布を絞る。「信乃」の着た切りの寝間着の裾が乱れて、例の痣を模した刺青が露になっているのをそっと直して、土を踏んだ足を清めていく。清吾に触れられるのが耐えられないというかのように、力なく暴れるのを抑えて手を動かしていると、「信乃」が手で顔を覆う気配が伝わってきた。
「で、でも。あたし、あたしは……っ」
信乃ではないのに、と言おうとしたのだろう。一度は暴かれ、この女も打ち明けたことではある。それでも再び言うことは難しいようだった。哀れなことだった。
「大丈夫だって。当分は家でできる仕事にしようと思ってるんだ。桶とか踏み台とか、そんなのを作ってさ。それならお前も安心だろう?」
息を乱して震える「信乃」を見上げて、清吾は笑んだ。まるで、何ごともなかったかのように。
「良いんだ、信乃。何も言わないで、良い」
嘘は嘘のままで良い、と。伝えることができただろうか。昨日までのように、相手を宥めるための方便ではない。心からの言葉だと、分かってもらえただろうか。
幼子にするように、清吾は「信乃」の背を撫で、さすり、甘やかした。大丈夫だ、何も言うなと繰り返しながら。それを信じたのか、抗うのに疲れたのか──やがて、本当の名の知れぬ女は脱力して彼に身体を預けた。
* * *
幼馴染同士が寄り添う振りで、清吾と「信乃」はひと月ほどを共に過ごした。最初はぎこちなく、それでも最後のほうは演技もなかなか様になっていたのではないだろうか。清吾のほうも、「信乃」のほうも。河岸見世とはいえ吉原にいた女だったのだから、唐織ほどでなくても嘘を操る術を心得ていたのかもしれない。内心ではどうだったのか──踏み込んで尋ねることは、できなかったが。
七夕は、ささやかながら五色の糸を飾った笹を立てた。信乃の短冊は、裁縫の上達を願っていた。廓では、女郎が針を持つことはなかったから、と。お前に繕ってもらえるなら嬉しいと、清吾はまたもあり得ぬ未来を語った。
蛍を買って室内に放したこともあれば、ふたりして月を眺める夜もあった。仲秋の月は、揃っては見られぬだろうと、互いに予感はしても口にはしなかった。
過去のことも先のことも、語れば嘘に綻びが出てしまうから。清吾も「信乃」も、「今」の和やかさを保つので精一杯だったのだ。それぞれの心の裡では、偽りのものだと分かり切っていたとしても。
「信乃──お前は、幸せだったか。ほんの短い間でも、安らいでくれたか……?」
だから、清吾が問うたのは女の死に顔に対してだった。答えはもう返らないと、分かった時でないと聞けなかった。
残暑から秋へと季節が移り変わる七月の末、「信乃」は死んだ。目を閉ざした表情は安らかではあったが、その内心も同様だったなどとは、清吾には言い切ることはできなかった。
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