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五章 まこと、ひとつ
3.瓦版
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「信乃」が死んでなお、清吾は長屋界隈ではできた男だと称えられた。痩せ細った女──つまりは家事もできないし抱くこともできない──女を苦界から救い上げ、甲斐甲斐しく世話をした上に、最期まで看取って弔ってやった、と。
(大したことじゃないだろうによ)
あの女を身請けしたと言っても金を出したのは唐織だし、弱った女を放り出すはずもないだろう。……どうせ、先は長くないと見えていたのだ。そして、ほんのふた月ほどの間とはいえ、ひとつ屋根の下で暮らした女の遺体を、野ざらしにするなどあり得ない。
どう考えても人として当たり前のことをしただけだというのに、近所の者も仕事仲間も清吾にやたらと甘いのだ。閉じこもって「信乃」の位牌を眺めてばかりの彼に、いまだに差し入れをしてくれたりする。女房を喪って、さぞ気落ちしているとでも思っているのだろうか。お陰で、ろくに仕事をしていないのに食いつなぐことができているのだが。
(まったく、俺には過ぎたことだな)
薄暗い長屋に寝転がって。彼は確かに、あの女のことを考え続けている。
だが、それは周囲の者が都合よく考えているように好いた女房が忘れらえないからでは決してない。あの女の本当の名を尋ねることもなく、「信乃」と呼び続けたのが正しかったのか否か──相手が土に埋められ、家の中に残るのはちっぽけな位牌ひとつになった今になって、迷いを覚え始めてしまったのだ。
位牌に記されているのは、当然のことながら信乃の名だ。戒名をつけてもらうほどの寺への寄進は、さすがに賄うことができなかった。死んだ後まで他人の名で呼ばれ、他人の名で供養されるのは、いったいどのような想いがすることだろう。
(尋ねるなんて、無理なことだった。あいつの寿命を縮めるだけで)
線香の匂いが鼻を刺すのを感じながら、清吾は何度となく自身に言い聞かせてきた。本当の名を尋ねれば、嘘を認めさせることになる。清吾に捨てられ追い出される恐怖を、思い出させることになる。あの女の最後の日々が穏やかなものであったのは、清吾が誇って良いことのはずだ。
腹を割って語らって、蟠りを解いておきたかった──そんなことをしても、彼の心がいくらか晴れやかになるというだけ、あの女の胸の裡を思うなら嘘を貫くことこそ優しさだったはずだ。そのように結論することさえ、自らを慰めるためだけに過ぎないのかもしれないが。
(まことは遠くて──嘘はやっぱり辛いな、花魁)
そして、ひと通り思考が一巡すると唐織のことを思い浮かべるのだから、本当に勝手な話だった。ただ、心というものは自分自身でもどうにもならない。
「信乃」との短い暮らしの間だけでも、嘘で心を塗り潰すのは苦しかった。唐織は、同じことをもう何年続けているのだろう。姉貴分の先代と、その情人と。愛を貫いたふたりがいたことに目を背け、人は忘れる、金がすべてだと嘯いて。
「ああ──」
ぐるぐると、堂々巡りしていた考えが、ようやく壁に突き当たった気がして。清吾は声を漏らしていた。吐息が零れる勢いに任せて、半身を起こし、頭を抱える。掌にざらりとした感覚があったから、月代に髪が伸びてひどい有り様になっていそうだった。
(あれはやっぱり、嘘じゃねえか)
唐織だって、偽り続けることに疲れ、傷ついていたのだ。彼ごときに、あれほどの剣幕で身の上話を打ち明けたのも、それだけしまっておくのが難しかったからだ。吐き出さないではいられないほど、怨みも妬みも憧れも、強く激しくあの女の中に渦巻いていた。澄ました顔で装う手管があるとしても、心の裡の葛藤を、まるでなかったことにできる訳ではないのだ。
「身請けされれば、無理に嘘を吐く必要はない、のか……? 和泉屋は、あんたに惚れてるんだよな……? 無体はしないだろうし、姫様みたいに大事にされる、よな……?」
考えたことをそのままぶつぶつと呟く。近ごろろくに人と話していないせいか、掠れた声は自分のものとは思えなかったが。
(いつまでも引き籠っていても仕方ない。俺にできることは、ない)
自身に言い聞かせながら、よろよろと立ち上がる。唐織の内心に思いを馳せたところで、二度と来るなと言われている身だ。花魁の身請けなど叶わない貧乏人でもある。きっと幸せになるだろう、あの女なら上手くやるだろう、と──「信乃」の時と同じく、自分を誤魔化して目を閉ざし、心に蓋をすれば良いのだ。
『身請けなど、しょせんはひとりの男に買い切られるだけのものでありんすに』
菖蒲の着物を纏ったあの女が吐き捨てた声が、耳に蘇るけれど。あれも、彼の気を惹く手管の一環に違いなかったのだ。だから、その声を振り払うように首を振って、清吾は顔を洗うべく水瓶に向かった。
* * *
清吾は、大工の親方に頭を下げてまたまともに働き始めた。例によって「信乃」との美談が知れ渡っていたから、仲間は快く彼を受け入れてくれた。
そうして、久しぶりに陽射しの下で汗を流してから数日経ったときのことだった。
「瓦版だ! 吉原は錦屋、唐織花魁の身請けの日が決まったよ!」
日本橋の大通りにて、とある店の屋根を直していた清吾の目の前に、紙片がひらひらと舞い上がってきた。眼下を通りすがった瓦版売りの手元から、風に乗って逃げた一枚があったらしい。
(唐織……ついに、か!)
縁ある名前も聞こえたから、つい、手を伸ばしてその瓦版を引っ掴む。市中で話題になるほどに、唐織花魁の評判は高いのだと思えば感慨深い。だが──
「降るほどの身請け話の中で、競り勝ったのは札差の和泉屋! だが、なんと花魁には思う情人がいるらしい!」
瓦版売りが続けた言葉を聞いて、そして、紙面に刷られた絵を見て、清吾は目を見開いた。
「花魁は、情人と駆け落ちを目論んでいるのやも!? はたまた、横恋慕した男が花魁を横から攫うのか!? 悋気に燃える和泉屋は──」
口上は次第に遠ざかり、最後までは聞き取れなかった。だが、聞こえたところまでで十分だった。何より、清吾が掴み取った瓦版には、客に詰め寄られて泣き崩れる花魁の姿が描かれていた。
(大したことじゃないだろうによ)
あの女を身請けしたと言っても金を出したのは唐織だし、弱った女を放り出すはずもないだろう。……どうせ、先は長くないと見えていたのだ。そして、ほんのふた月ほどの間とはいえ、ひとつ屋根の下で暮らした女の遺体を、野ざらしにするなどあり得ない。
どう考えても人として当たり前のことをしただけだというのに、近所の者も仕事仲間も清吾にやたらと甘いのだ。閉じこもって「信乃」の位牌を眺めてばかりの彼に、いまだに差し入れをしてくれたりする。女房を喪って、さぞ気落ちしているとでも思っているのだろうか。お陰で、ろくに仕事をしていないのに食いつなぐことができているのだが。
(まったく、俺には過ぎたことだな)
薄暗い長屋に寝転がって。彼は確かに、あの女のことを考え続けている。
だが、それは周囲の者が都合よく考えているように好いた女房が忘れらえないからでは決してない。あの女の本当の名を尋ねることもなく、「信乃」と呼び続けたのが正しかったのか否か──相手が土に埋められ、家の中に残るのはちっぽけな位牌ひとつになった今になって、迷いを覚え始めてしまったのだ。
位牌に記されているのは、当然のことながら信乃の名だ。戒名をつけてもらうほどの寺への寄進は、さすがに賄うことができなかった。死んだ後まで他人の名で呼ばれ、他人の名で供養されるのは、いったいどのような想いがすることだろう。
(尋ねるなんて、無理なことだった。あいつの寿命を縮めるだけで)
線香の匂いが鼻を刺すのを感じながら、清吾は何度となく自身に言い聞かせてきた。本当の名を尋ねれば、嘘を認めさせることになる。清吾に捨てられ追い出される恐怖を、思い出させることになる。あの女の最後の日々が穏やかなものであったのは、清吾が誇って良いことのはずだ。
腹を割って語らって、蟠りを解いておきたかった──そんなことをしても、彼の心がいくらか晴れやかになるというだけ、あの女の胸の裡を思うなら嘘を貫くことこそ優しさだったはずだ。そのように結論することさえ、自らを慰めるためだけに過ぎないのかもしれないが。
(まことは遠くて──嘘はやっぱり辛いな、花魁)
そして、ひと通り思考が一巡すると唐織のことを思い浮かべるのだから、本当に勝手な話だった。ただ、心というものは自分自身でもどうにもならない。
「信乃」との短い暮らしの間だけでも、嘘で心を塗り潰すのは苦しかった。唐織は、同じことをもう何年続けているのだろう。姉貴分の先代と、その情人と。愛を貫いたふたりがいたことに目を背け、人は忘れる、金がすべてだと嘯いて。
「ああ──」
ぐるぐると、堂々巡りしていた考えが、ようやく壁に突き当たった気がして。清吾は声を漏らしていた。吐息が零れる勢いに任せて、半身を起こし、頭を抱える。掌にざらりとした感覚があったから、月代に髪が伸びてひどい有り様になっていそうだった。
(あれはやっぱり、嘘じゃねえか)
唐織だって、偽り続けることに疲れ、傷ついていたのだ。彼ごときに、あれほどの剣幕で身の上話を打ち明けたのも、それだけしまっておくのが難しかったからだ。吐き出さないではいられないほど、怨みも妬みも憧れも、強く激しくあの女の中に渦巻いていた。澄ました顔で装う手管があるとしても、心の裡の葛藤を、まるでなかったことにできる訳ではないのだ。
「身請けされれば、無理に嘘を吐く必要はない、のか……? 和泉屋は、あんたに惚れてるんだよな……? 無体はしないだろうし、姫様みたいに大事にされる、よな……?」
考えたことをそのままぶつぶつと呟く。近ごろろくに人と話していないせいか、掠れた声は自分のものとは思えなかったが。
(いつまでも引き籠っていても仕方ない。俺にできることは、ない)
自身に言い聞かせながら、よろよろと立ち上がる。唐織の内心に思いを馳せたところで、二度と来るなと言われている身だ。花魁の身請けなど叶わない貧乏人でもある。きっと幸せになるだろう、あの女なら上手くやるだろう、と──「信乃」の時と同じく、自分を誤魔化して目を閉ざし、心に蓋をすれば良いのだ。
『身請けなど、しょせんはひとりの男に買い切られるだけのものでありんすに』
菖蒲の着物を纏ったあの女が吐き捨てた声が、耳に蘇るけれど。あれも、彼の気を惹く手管の一環に違いなかったのだ。だから、その声を振り払うように首を振って、清吾は顔を洗うべく水瓶に向かった。
* * *
清吾は、大工の親方に頭を下げてまたまともに働き始めた。例によって「信乃」との美談が知れ渡っていたから、仲間は快く彼を受け入れてくれた。
そうして、久しぶりに陽射しの下で汗を流してから数日経ったときのことだった。
「瓦版だ! 吉原は錦屋、唐織花魁の身請けの日が決まったよ!」
日本橋の大通りにて、とある店の屋根を直していた清吾の目の前に、紙片がひらひらと舞い上がってきた。眼下を通りすがった瓦版売りの手元から、風に乗って逃げた一枚があったらしい。
(唐織……ついに、か!)
縁ある名前も聞こえたから、つい、手を伸ばしてその瓦版を引っ掴む。市中で話題になるほどに、唐織花魁の評判は高いのだと思えば感慨深い。だが──
「降るほどの身請け話の中で、競り勝ったのは札差の和泉屋! だが、なんと花魁には思う情人がいるらしい!」
瓦版売りが続けた言葉を聞いて、そして、紙面に刷られた絵を見て、清吾は目を見開いた。
「花魁は、情人と駆け落ちを目論んでいるのやも!? はたまた、横恋慕した男が花魁を横から攫うのか!? 悋気に燃える和泉屋は──」
口上は次第に遠ざかり、最後までは聞き取れなかった。だが、聞こえたところまでで十分だった。何より、清吾が掴み取った瓦版には、客に詰め寄られて泣き崩れる花魁の姿が描かれていた。
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