Call my name

森野きの子

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 事件現場を離れて十数分後、楓は本部の医務室にいた。
 腹部に漂うざわつきは薄らいでいたが、胸の奥はまだ静まらないままだった。
 白い壁と無機質な器具の並ぶ部屋は、どこか音が吸い込まれるような静けさを帯びている。
 扉がゆっくり開き、長身の女性が入ってきた。
  朝比奈玲──。この医務室を預かる専任医師。
 白衣の肩口まで伸びた黒髪を後ろで束ね、表情は薄い。だがその目は、氷のように澄んでいた。
「秋本さんね。座って」
 声は低く、抑揚の少ない印象なのに、不思議と耳に残る。楓は静かに頷き、玲の指示通りに椅子へ腰を下ろした。
 玲はカルテを片手に、楓の顔を見つめる。
 その視線は、症状を確認する医者のそれよりも、“何かの一致を探している者”のように感じられた。
「呼吸は落ち着いてきた?」
「……はい。すみません、現場で……倒れそうになって」
「倒れなかっただけ偉いわ。あの切断は、普通の新人が見て平然でいられるものじゃない」
 玲の言葉は淡々としているのに、妙に温度があった。
 否定せず、過不足なく、ただ事実だけを置くように。
 そこへ、扉が再び開いた。
 恭吾が肩に落ちた外気をまとって入ってくる。
「玲。どうだ」
 呼びかける声に僅かな親密さが漂っている。それが時間的なものなのかわからないが、楓の胸に妙に引っかかった。
「見たところは過呼吸。原因は……」
 玲は楓の横顔を一度見て、言葉を切った。
 再開した声は、わずかに低い。
「……現場の異常反応、と言っておく」
「異常反応?」
「身体が反射的に拒絶した。それだけね。心理的なトラウマじゃない。もっと……根本的なもの」
 恭吾の眉が僅かに寄る。
 玲は医者らしからぬ静かな微笑を浮かべた。
「心配しないで。命に関わる症状じゃない」
「ならいい」
 恭吾は短く息をつき、楓の方へ視線を向けた。
 その目に叱責はなく、ただ静かな配慮だけが宿っている。
「無理をさせたか」
「……そんな……。加藤さんのせいじゃありません」
 楓の返事に、玲は眉をわずかに上げた。
 興味を持ったような、分析するような、そんな視線。
「あなた、加藤には安心してるのね」
 その言葉は何気なく投げられたようで、楓の胸の奥をかすかに揺らした。
 恭吾は玲を鋭く見る。
「余計なことを言うな」
「事実を言っただけよ。……ただ、少し引っかかるのよね」
 玲の声色が変わる。医者としての冷静さとは別の、固い光が瞳に宿っていた。
「秋本さん。あなた、今日の現場で何を感じたの?」
 楓は視線を落とし、少しだけ息を吸い込んだ。
 形のない答えが胸の奥で渦を巻いている。
「……わかりません。でも──、あの部屋に入った瞬間、胸が……“触られた”みたいで」
 その言葉に、玲は微かに目を細めた。
「触られた?」
「はい。誰にも触られてないのに……、胸の奥を、掴まれたような……」
 恭吾は動かなかった。
 ただ、その横顔の緊張が僅かに強まった。
 玲は、カルテを閉じ、静かに言った。
「……秋本さん。あなたが感じたそれは、ただの動揺じゃないわ」
 楓の鼓動が一つ強く跳ねる。
「今後、似た状況がまた起きる可能性がある。だから──この装置を装着してもらう。」
 その口調は命令に近かった。玲は指先の1センチ四方の小さなテープ状のもの見せる。
「あなたの生体反応を見るためのものよ。普段通り生活してもらって構わないわ」
 言いながら玲は手早く楓の服の胸元を露わにさせ、左乳房の下部にテープ状の装置を貼り付けた。
 あまりに一瞬のことで羞恥心が遅れてやってきた。
 質量のない胸元だからとキャミソールタイプのブラトップを普段使いしているので色気とは無縁ながら、恭吾が同席していたのだ。
 楓は羞恥心から顔を真っ赤にさせ半泣きになったが、玲と恭吾は平然としている。
 玲は同性の無頓着さはさて置いて、恭吾の動じなさに楓の密かなコンプレックスが刺激された。
 しかし、それさえも二人は気づいている様子はない。
 玲の豊満な胸元に目がいき、さらに泣きそうになったが、なんとか耐えた。
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