Call my name

森野きの子

文字の大きさ
15 / 24

10

しおりを挟む
 帰宅しても、加藤恭吾はソファに腰を落ち着けられずにいた。
 事件資料を開いては閉じ、鑑識報告の文字列に目を滑らせても内容が入ってこない。
 現場から帰る前、楓の顔色が急激に悪くなった瞬間だけが、ずっと頭から離れなかった。
 胸を押さえ、何かを堪えるように立ち尽くしていた姿。
 新人の様子を気にしすぎだ──。
 そう思おうとしたが、どこか違った。
 あの震えは、緊張や疲労で説明できるものではなかった。それに彼女はこの事件に何らかの形で関与している可能性がある。
 恭吾はスマートフォンを手に取り、迷いながら短い文を打ち込む。
《秋本、体調はどうだ》
 送る前に何度も読み返した。
 不要な気遣いかもしれない。しかし、送らなければ眠れない気がした。
 送信。
 返事はすぐ来た。
《大丈夫じゃないかもしれません》
 恭吾は立ち上がり、上着を掴んで玄関を出た。



 インターホンの音が響くと、楓は胸を押さえたまま立ち上がった。
 扉を開けると、恭吾がいた。楓は安堵の吐息を吐いた。
 廊下灯の下で、彼の表情はいつも通り冷静だったが、その目だけがわずかに細く揺れているように見えた。
「悪い。こんな深夜に、その、出過ぎた真似を」
「……いえ。そんなことありません」
 楓の声はかすれていた。
 顔色を見た瞬間、恭吾の足が自然と一歩中へ進む。
「やっぱり具合、悪いな。座れ」
 命令口調ではないが、抗いようもない静かな圧があった。
 楓は従うようにベッドの端に座る。
 恭吾は距離を取って椅子に腰をかけた。
 触れようともせず、かといって遠ざかりすぎもしない位置。いつもの職務中と同じ距離だった。
「どこが一番つらい」
「胸の……奥です。息は……できますけど」
「発作みたいなものか?」
「わかりません。でも……さっきよりは少し楽です」
 恭吾は短く息をついた。
 安堵というより、状況確認の呼吸。
「苦しくなったのは、帰宅してからか」
「はい」
「現場では?」
 楓は胸に手を置いたまま、小さく首を振る。
「……あのときも変でした。
 急に胸の奥が揺れて……。
 誰かに呼ばれてるみたいな、そんな感じで」
 恭吾のまぶたがわずかに動いた。
 だが顔つきは変わらない。
「“誰か”の心当たりは?」
「ありません。記憶にも何も……」
「そうか」
 短い返事。それ以上深くは聞かない。
 楓が自分で言葉を探せるように、恭吾の問いは必要最低限だった。
 部屋は静かで、空気は重かった。
 その中で、楓が言った。
「……でも、さっきよりは楽です。
 たぶん、人が来たから……」
 恭吾は少しだけ目を伏せた。
「そういうことなら、しばらくはここにいる」
「え……」
「余計な心配するな」
 言い方は冷静で、淡々としている。
 ただ、見捨てないという意思だけがあった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん」
 恭吾は腕を組み、玄関に背を向けて座り直した。
 まるで、扉の向こうから何かが来ても守れるように。
 楓は気づかない。恭吾も気づいていない。
 その沈黙の中で、窓ガラスがほんの僅かに震えたことに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

秋月の鬼

凪子
キャラ文芸
時は昔。吉野の国の寒村に生まれ育った少女・常盤(ときわ)は、主都・白鴎(はくおう)を目指して旅立つ。領主秋月家では、当主である京次郎が正室を娶るため、国中の娘から身分を問わず花嫁候補を募っていた。 安曇城へたどりついた常盤は、美貌の花魁・夕霧や、高貴な姫君・容花、おきゃんな町娘・春日、おしとやかな令嬢・清子らと出会う。 境遇も立場もさまざまな彼女らは候補者として大部屋に集められ、その日から当主の嫁選びと称する試練が始まった。 ところが、その試練は死者が出るほど苛酷なものだった……。 常盤は試練を乗り越え、領主の正妻の座を掴みとれるのか?

お疲れOLあかりの、今日のごほうびスイーツ

鈴樹
キャラ文芸
ルート営業OL・あかり(表示名:お疲れOL)が開設したピンスタグラムのアカウント。 ローカルコンビニ「39ストア」のスイーツ情報を中心に投稿。 頑張った自分へのごほうび✨日々の小さな幸せスイーツをお届け! ――と、見せかけて、実は甘い匂わせ満載⋯⋯!? ※本作は「お疲れOLと無愛想店員」シリーズの、あかりの架空SNS風スピンオフです。 ※登場するコンビニやスイーツ情報はすべて架空です。実在するコンビニや商品とは一切関係ありません。 ※本編の作中時間と連動して、随時投稿。 ※未読でも、本編ストーリーの理解に支障はありませんが、読むと二度美味しい仕掛けです ※横書き表示推奨 【シリーズ作品リスト】 ●本編1作目《短編集・3作品収録/完結》 『お疲れOLと無愛想店員〜雪の夜の、コンビニで』(本編/哲朗編/余話) ※あかりと哲朗、始まりの物語&黒歴史の秘密 ●本編2作目《短編・全8話/完結》 『お疲れOLと無愛想店員〜春の嵐と、まわり道』 ※上京とドライブデート(?)のロードムービー風のお話 ●本編3作目《短編・4月上旬より作中時間と連動して公開予定》 『お疲れOLと無愛想店員〜初夏のきらめき、風のざわめき』 ※全7話執筆済み。慶介メインのライトな謎解き風のお話 ●本編4作目《現在構想中》 シリーズ作品タグ: #お疲れOLと無愛想店員

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

アラフォーリサの冒険 バズったSNSで退職からリスタート

MisakiNonagase
恋愛
堅実な会社員として働いてきた39歳のリサ。まだまだ現役の母親と二人暮らしで高望みしなければ生活に困ることはなく、それなりに好きなことを楽しんでいた。 周りが結婚したり子育てに追われる様子に焦りがあった時期もあるなか、交際中の彼氏と結婚の話しに発展した際は「この先、母を一人にできない」と心の中引っ掛かり、踏み込めないことが続いてきた。 ある日、うっかりモザイクをかけ忘れインスタグラムに写真を上げたとき、男性から反応が増え、下心と思える内容にも不快はなく、むしろ承認欲求が勝り、気に入った男性とは会い、複数の男性と同時に付き合うことも増え、今を楽しむことにした。 その行動がやがて、ネット界隈で噂となり、会社の同僚達にも伝わり… リサは退職後、塞ぎ込んでいたが、同じような悩みを抱えていたカナリア(仮名)と話すようになり立ち上がった。ハローワーク経由で職業訓練を受講したり、就活したり、その間知り合ったり仲間と励まし合ったり、生きる活力を取り戻していく… そして新たな就業先で、メール室に従事する生涯枠採用の翔太という男性と知り合い、リサの人生は変わる… 全20話を予定してます

いつか優しく終わらせてあげるために。

イチイ アキラ
恋愛
 初夜の最中。王子は死んだ。  犯人は誰なのか。  妃となった妹を虐げていた姉か。それとも……。  12話くらいからが本編です。そこに至るまでもじっくりお楽しみください。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...