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 私の部下に経理課長の甥っ子がいるが、こいつがまるで使えない。
 就業時間ギリギリに出社してくるし、自分のせいで書類作成が遅れていても残業はしないし、家でやってくるという発想もない。おかげで雑務とストレスが増え、睡眠時間が減り、生理不順になった。
 やる気が出ないのなら仕事の楽しみをわかってもらおうと、真壁さんと相談してお客様を一人紹介してもらい、契約書にサインを頂くだけまでに整えた。
 その当日のこと。
 新人は遅刻した上に書類を恋人の部屋に忘れてきたとほざいた。あまりにふざけた態度に堪忍袋の緒がスパークして、待ち合わせの喫茶店で怒鳴ってしまった。書類を取りに行かせ、益子と真壁さんに連絡をいれておいた。なにかあった時は二人がフォローに回れるよう連絡することになっている。が、益子も真壁さんも忙しいのか留守電に切り替わった。用件をふきこみ、ハーブティーを注文した。念のため待ち合わせ時間を早めておいて正解だった。
 しかし、束の間の休息はじわじわと焦燥変わる。余裕を持っておいたはずの時間が無情にも消耗されていく。彼が店を出て四十分。約束の時間まで三十分を切った。電話をしても留守電に切り替わる。
 肝心の書類がない。どうして予備を作って持っておかなかったのだろう。詰めが甘かった。私の失態だ。真壁さんに紹介して貰ったお客様なのに。
 目頭にキュッと痛みが走る。泣いてる場合じゃないのはわかっているけれど、焦りと怒りと悔しさがぐちゃぐちゃと胸一杯に込み上げてくる。
 泣いてる場合じゃないともう一度言い聞かせ、喫茶店を出た。私が乗ってきた社用車はあいつが乗っていってしまった。タクシーを拾って真壁さんに電話をかける。留守電に状況説明を吹き込んで、電話を切る。同時に益子から着信が入った。
「はい。織部です」
「あいつやらかしたみたいだな。時間大丈夫か? 予備の書類は?」
「時間はギリギリ。予備は持ってない」
「お前もやらかしてんじゃねーか。で、どこにいんだ」
「とりあえずタクシーにのってお客様のところに向かってる」
「馬鹿か。相手に連絡入れて会社に取りに行けばいいだろ。予備の書類」
「……作ってない」
「は? お前そんな使えない奴だったっけ?」
 受話器越しの呆れ声が頭に直撃して思考が止まる。返す言葉もみつからない。
「……すみません」
「俺に謝られてもな」
 益子は溜息をついて電話を切った。

 私はなにをしにお客さんのところに向かっているんだろう。書類はないし、手土産の焼菓子もあっちの車の中で手ぶらだし。
 とりあえず謝罪に行こう。訪問されていきなり謝罪ってなによ。
 頭の中がぐちゃぐちゃでまともな思考が成り立たない。
 焦りと緊張で胃がしめつけられる。久しぶりの感覚だな。仕事始めたばかりの時は色々ミスして真壁さんにフォローしてもらったな。
 今は私があの時の真壁さんなんだ。仕事をほっぱらかしたことないけど。
 誠心誠意謝罪して益子の言った通り会社に戻ろう。パソコンの中に原本があるし、なんとかなる。……なんとかならないと後がない。
 やはり足取りは重い。なんか今日はやたらナーバスかも。くよくよしたって始まらないのに。
 約束の時間ギリギリ五分前。なんとか自分を奮い立たせながら立派な純和風の邸宅の門前に立つ。
「ごめんください。藤和工務店の織部です。おはようございます」
 奥に聞こえるように声を張ると、遠くから「はーいどうぞー」と返事が聞こえた。
 よし。覚悟は決めた。いざ。
「失礼しまーす」
 敷石を辿り、手入れの行き届いた庭園を横切る。心臓は低くて嫌な鳴りかたをしている。
「あらいらっしゃい。どうぞお入りになって。もうお話始まってるのよ」
 のんびりした奥様の物腰に耳を疑った。
 もう、話が始まっている?
 靴を脱ごうとして、揃えられた男性用の革靴に気づいた。もしかして書類を取って一人で来たのかしら。もう何よそれヒヤヒヤさせないでよ。
 安堵して足から力が抜けてへたりこみたいくらいだった。
「失礼します」
 広い廊下の突き当たりの右側の応接間に通される。
「遅くなりまして大変申し訳ありません」
 頭を下げ、顔をあげるとご主人の向かい側に座った男性がこちらを振り向いた。前と横の髪をきっちり後ろに流したヘアスタイルに、すっと通った高い鼻梁。切れ長で二重の垂れた目尻。
「織部、後で説教な」
「まあまあ。時間には間に合っているんだからいいじゃないか。織部ちゃん、真壁の隣で可哀想だが座りなさい」
 涙腺が決壊寸前になった。ご主人の優しさとそこにいる私のスーパーヒーローの存在に。
「失礼します」
 私は再び頭を下げて真壁さんの隣に腰を下ろした。
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