恋の始め方間違えました。

森野きの子

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#20

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 唇を離すと、彼は物憂げに私を見つめる。そして、少し、睫毛を伏せた。一連の流れの艶っぽさに見惚れる。
「ごめんなさい。呆けてしまって。朝ごはん作りますね」
「遠慮するよ。ごっこ遊びはもうたくさんだ」
 私が傷つくのはお門違いも甚だしい。わかっていながら、胸の中に痛みが走る。涙がこみ上げてきて溢さないように堪えようとしたけれど、できなかった。
「すみません」
 私は彼から離れてベッドの側にあったティッシュを引き抜き、急いで目頭を拭った。
「泣きたいのはこっちだ。」
 彼は立ち上がり、車の鍵を手に玄関へ歩いた。
「待ってください。これ、」
 ナイトウエアの入った紙袋を手に後を追いかけると、彼は紙袋を一瞥した。
「これで充分だ。仮初めの女からの贈り物なんか俺は欲しくない」
「なら、スーツはおいて行かないで下さい」
「ハンカチ代わりになるだろ」
「涙が止まらなくなりそうなので結構です」
「可愛いのは口だけだな」
 鋭い目つきの、口の端だけの笑みを見せる。
「シャツも洗濯しちゃったんです。だから……」
「捨てといてくれ。お前には簡単なことだろ?」
 彼は出ていった。背後の朝日が眩しくて、目がちかちかしている。風も手伝い、重い鉄の扉が大袈裟な音を立てて閉じた。呆気ない幕切れだった。
 泣くのは間違っている。あの人は私の我が儘に応え、文字通り全身全霊で尽くしてくれた。私の欲しいものは与えてもらった。でも、私からは何も返さなかった。押しつけただけの、狡い女だ。
 自分でも莫迦ばかだと思う。つまらない意地を張らず、あの人に甘えればよかったのかもしれない。でも、そうしてしまえば、私があの人を貶めてしまう。もう、貶めてしまったかもしれないけれど、別れたのは、地に墜ちる僅か手前での、せめてもの、ささやかな抵抗のつもりだった。あの人をただの浮気相手にしたくなかった。恋い焦がれ、愛おしくてたまらない、たった一人のひとだったから。
 それに、あの人は今や一企業の重役だ。そんな人が水商売上がりの女と遊びの範疇を越えただなんて知られたら、どんなことを云われるか。どんな目で見られるか。あの人はきっとそれでも私を選んでくれようとしたのだと思う。けれど、私のせいで、今まで彼が積み上げてきた功績や我慢が無下にされ、嘲笑されるのは耐えられなかった。すべて私の利己的な独りよがりだとしても。
 洗濯物が出来上がる音がした。私は一人、自ら始めた茶番劇のラストシーンを続ける。軒下に洗濯物を干した。スーツをクリーニング屋さんへ持っていく。風は爽やかで、少し肌寒いくらい。頭上には夏空が広がっている。晴れててよかった。部屋に戻ってからは、シーツや枕カバーを洗い、敷きマットを干した。台所脇のペールの中の市の指定ごみ袋には、くちを固く縛ったレジ袋。中身は結構な量の丸めたティッシュやコンドームの箱らしきものやら生々しい残骸。こんな後始末までさせてしまったのかとつくづく申し訳なくなる。
 物を捨てた所で、体の記憶は消せない。内側にある痛みがあの人と繋がっていた確かな証跡。あっという間になくなってしまうような感覚でも、生涯忘れられない。あの人の面影を追って過ごすのもきっと悪くない。
 といえやっぱり部屋にいたくなくて、行く宛もなかったけれど、街に出た。出勤の十九時まで、何をして過ごそう。映画館、美容室、コーヒーショップ……。退屈しないだけの施設がたくさんあるけれど、どれもピンと来ない。
 駅前で若い女性がチラシを配っていた。なんとなく目を落としてみると、アロマテラピーのリンパドレナージュのお店の勧誘だった。
「これから、受けられますか? この180分の全身コースなんですけど……」
「もちろんです! どうぞこちらです」
 案内されたのは、駅ビルの居住区の一室。三日前にオープンしたばかりの女性限定のサロンだった。
「飛び込みでごめんなさい。大丈夫でした?」
「もちろんです。ありがとうございます」
 つるりとした陶器のような肌に薄紅色の頬。夏の花を思わせる明るい笑顔だった。
 室内は飴色に照らされ、ヒーリングミュージックと、ラベンダーとイランイランの落ち着く香りが漂っている。すすめられたソファもさらりと心地好いラタンにコットンのクッションの組み合わせだった。初回とのことでカウンセリングシートを記入して、簡単な問診を受けて、別室で服を全部脱いでペーパーショーツとガウンに着替えた。用意が終わったら、彼女の指示に従い、ベッドにうつ伏せになる。失礼しますね、と優しく声を掛けられ、柔らかで温かい手が肩に当てられた。まずは両手で、肩、肩甲骨周り、背中、腰、臀部付近の順に、やんわり圧をかけられた。そして温められたオイルが垂らされる。メープルシロップをかけられたホットケーキが脳裏に浮かんで口許が緩んだ。女性の柔らかい手に徐々に体の強張りがほどけていく。ぽかぽかしていつの間にか深い眠りに落ちてしまった。
 失礼します。と、優しく起こされて、驚きながらも、仰向けに、と促されるまま従った。まだ目の周りがぼんやりと重くて、目を開けられないまま、ゆっくり体勢を変える。彼女の手技を受けながら、水商売を辞めて、こういう職に就こうと思った。
 結局、時間一杯うつらうつら微睡んで済んでしまったけれど、気持ちは穏やかだった。終わりに出されたミント系のハーブティーもよかったのかもしれない。誰かに丁寧に触れてもらえる体験は大事なんだと思った。捨て鉢にならずきちんと過ごしていればと悔やまれたが今更で、どうあがいても意味なんかない。
 ティールームで時間を潰して少し早めに出勤すると、更衣室でユカリちゃんと一緒になった。
「おはよう。」
 声をかけると、アイラインの効いたシャープな目元でこちらを一瞥する。
「枕おつかれでーす。男のはしごでバテちゃったんですかー?」
「はしごはしてないけど、一人とならバテるほどしてきた」
「はあ? リアルすぎてキモいんですけど」
「じゃあ訊かなければよかったじゃない」
「相手、シャンパンおじさん?」
 訊くんだ? と思わずつっこんで、呼び方が滑稽で可愛くて思わず噴いてしまった。
「そう。シャンパンおじさん。超ウケる」
「超ウケるとかキャラあってないし。ってか、超バブリー。って感じ。すげーね。」
「すごいよねえ。シャンパンおじさん」
「ちげーし。凛花さんだし。あんだけ男に金出させるとかヤバイって。エッチ超ハードだった?」
「ううん。超優しくしてもらった。」
「えっろ。つーか、あんな彼氏いんのに、いーの? 烏龍茶」
 記号かなにかみたいに呼ぶので、また可笑しくなった。
「うん。まあね」
「男に貢がせて別の男に貢ぐの無駄くない?」
「……そうね。幕切れしなくちゃ」
「むずかしいコトバ使われてもわかんねーし」
「終わらせようと思って。色恋ごっこ」
「え。ケーヤクすんの? それとも結婚?」
「どっちもない」
「えー。イミフ」
「話せてよかった。ありがとう、ユカリちゃん」
「別にいーよ」
 ロングの黒いチャイナ服に着替えて、髪を上げて、アイメイクを濃くした。まだ時間があるので、マネージャーに金曜日までで辞めさせて欲しいと相談すると、じゃあ、給料計算しとくわ。とあっさり返された。おめでとう。と付け加えられ、なんのことかわからなかったけど、勘違いされていることだけは確かだ。
 控え室に戻ると、結愛ちゃんに睨まれた。きっと私がバブリーなのがお気に召さなかったんだろう。
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