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古長邸 1
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イナオは桜が好きではない。
彼女が過ごしていた寺にも何本か桜の木が植樹されており、春になれば寺の年寄りが花見を楽しむのだが、その世話をイナオ一人で担っていたからだ。修行の時間を奪われるうえ、酔っ払いの小言をコンコンと聞かされるのが堪らなく苦痛で、いっそ木々ごと焼き払ってしまおうかと本気で画策した事があるほど、彼女にとって忌むべき存在なのである。
(あの苦行からは開放されたわけで)
跨線橋の上から線路脇の遊歩道に並ぶ色付いた桜木を眺めながら、ふとイナオはそんな事を思っていた。
橋の下を貨物列車が走り抜ける。
駅の北側。無数のコンテナが積まれている巨大な貨物駅は、かつて東洋一とも称された捜査場だったわけだが、山奥で暮らしてきたイナオがそれを知るわけもなく、直結する国立の医療センターに向かって、ひたすら歩みを進めた。
(さて、ここらで一度)
紙の地図を頼りに、なんとかここまでやって来た。一応スマートフォンなる文明の利器を支給されてはいるものの、使い方が分からないため、二、三回触っただけで以降電源は入れていない。
「あの、すみません」
スーツ姿の男性を彼女は呼び止める。
「古長邸ってどう行けばいいですか?」
ここは古長のホームグラウンドで、大阪の北摂エリア。都心部からは少し離れている為か、落ち着いた印象のある街並みである。
男性の教え通りに医療センターを抜け、道路を挟んで向かいの路地をしばらく進めば、四方を囲む立派な瓦塀に行き着く。イナオは付近を散策し『古長邸』と木製の札が掲げられている表門を見付けた。
(ここですか)
門を潜ると綺麗に整備さている枯山水の石庭園に出迎えられるが、イナオには風情を楽しむという感覚が欠落しているので、「庭がある」という認識くらいしか持たなかった。
「あーもう、また裏返しでっ!」
微かだが、人の声が聞こえる。イナオは耳をそば立て、その声がする方へと足を運んだ。
「この趣味の悪い靴下はアダムね。あのガチムチ、晩飯に下剤ねじ込んでやる」
そこには洗濯物を干している人物がいた。黒長髪の美人な女性だ。
「……ん?」
女はイナオと目が合い、暫しの沈黙が流れる。
「あー……もしかしてイナオ?」
口火を切った女は訝しげに首を捻る。
「はい」
「なんだ結構早かったじゃない。もう少し掛かると思ってた」
女は洗濯籠を下ろし、フッと息を吐く。
「ついて来て。ボスに会わせたげる」
女に促され、イナオは玄関に移動し主屋へと案内される。
「私はミオン。古長のくノ一」
軋むの床を歩くミオン。イナオはその後を追った。
「マジで焦ったのよ。ドラフトリストにあなた載ってないから」
「その節は多大なるご迷惑を」
「本当にね。トライアウトも想定外の人数集まって、あの子大丈夫かなと」
ミオンは肩越しにイナオを一瞥する。
「他に見込みのある奴いたら入団させようかって話もあったの。それを全員伸しちゃうんだから、シュナの言ってた通りだったわ」
シュナ。イナオにとってその名前は懐かしいものだった。
「従兄さんも、一昨年まではここの忍者だったとか」
「ええ。今はどっか南の島で遊び呆けてるって聞いてる」
ミオンと居間の前を通る時、イナオはテレビを見ている男達が目に入った。番組は競馬中継のようだ。
「おい、クズ×2」
ミオンが軽めのトーンで彼らに言い放ち、二人が一斉にこちらを向く。一人は黒人、もう一人は金髪の白人男性だ。
「あっちがアダムで、こっちがノリス。一応団員だけど、自堕落コンビだから、あんまり関わらないこと」
と雑に指を差す怪訝な表情のミオン。
「自堕落一号だ。よろしくな」
黒人のアダムが右手を挙げた。
「同じく二号。嬢ちゃんのお陰で今日は酒盛りが出来る」
白人のノリスは顎髭を触った。
「ほら行きましょ。さっさと離れないとクズが感染る」
イナオは二人に一礼し、その場を後にする。それから廊下に沿って真っ直ぐ進み、突き当たりにある部屋の戸をミオンがノックしてから開いた。
「来たわよアズマ」
部屋にいた男は分厚い本を棚に戻そうとしている途中だった。
「なんだ。随分と早かったんだね」
東洋人の優男は柔和な笑みを浮かべる
「ようこそ、我が古長忍士団へ」
彼女が過ごしていた寺にも何本か桜の木が植樹されており、春になれば寺の年寄りが花見を楽しむのだが、その世話をイナオ一人で担っていたからだ。修行の時間を奪われるうえ、酔っ払いの小言をコンコンと聞かされるのが堪らなく苦痛で、いっそ木々ごと焼き払ってしまおうかと本気で画策した事があるほど、彼女にとって忌むべき存在なのである。
(あの苦行からは開放されたわけで)
跨線橋の上から線路脇の遊歩道に並ぶ色付いた桜木を眺めながら、ふとイナオはそんな事を思っていた。
橋の下を貨物列車が走り抜ける。
駅の北側。無数のコンテナが積まれている巨大な貨物駅は、かつて東洋一とも称された捜査場だったわけだが、山奥で暮らしてきたイナオがそれを知るわけもなく、直結する国立の医療センターに向かって、ひたすら歩みを進めた。
(さて、ここらで一度)
紙の地図を頼りに、なんとかここまでやって来た。一応スマートフォンなる文明の利器を支給されてはいるものの、使い方が分からないため、二、三回触っただけで以降電源は入れていない。
「あの、すみません」
スーツ姿の男性を彼女は呼び止める。
「古長邸ってどう行けばいいですか?」
ここは古長のホームグラウンドで、大阪の北摂エリア。都心部からは少し離れている為か、落ち着いた印象のある街並みである。
男性の教え通りに医療センターを抜け、道路を挟んで向かいの路地をしばらく進めば、四方を囲む立派な瓦塀に行き着く。イナオは付近を散策し『古長邸』と木製の札が掲げられている表門を見付けた。
(ここですか)
門を潜ると綺麗に整備さている枯山水の石庭園に出迎えられるが、イナオには風情を楽しむという感覚が欠落しているので、「庭がある」という認識くらいしか持たなかった。
「あーもう、また裏返しでっ!」
微かだが、人の声が聞こえる。イナオは耳をそば立て、その声がする方へと足を運んだ。
「この趣味の悪い靴下はアダムね。あのガチムチ、晩飯に下剤ねじ込んでやる」
そこには洗濯物を干している人物がいた。黒長髪の美人な女性だ。
「……ん?」
女はイナオと目が合い、暫しの沈黙が流れる。
「あー……もしかしてイナオ?」
口火を切った女は訝しげに首を捻る。
「はい」
「なんだ結構早かったじゃない。もう少し掛かると思ってた」
女は洗濯籠を下ろし、フッと息を吐く。
「ついて来て。ボスに会わせたげる」
女に促され、イナオは玄関に移動し主屋へと案内される。
「私はミオン。古長のくノ一」
軋むの床を歩くミオン。イナオはその後を追った。
「マジで焦ったのよ。ドラフトリストにあなた載ってないから」
「その節は多大なるご迷惑を」
「本当にね。トライアウトも想定外の人数集まって、あの子大丈夫かなと」
ミオンは肩越しにイナオを一瞥する。
「他に見込みのある奴いたら入団させようかって話もあったの。それを全員伸しちゃうんだから、シュナの言ってた通りだったわ」
シュナ。イナオにとってその名前は懐かしいものだった。
「従兄さんも、一昨年まではここの忍者だったとか」
「ええ。今はどっか南の島で遊び呆けてるって聞いてる」
ミオンと居間の前を通る時、イナオはテレビを見ている男達が目に入った。番組は競馬中継のようだ。
「おい、クズ×2」
ミオンが軽めのトーンで彼らに言い放ち、二人が一斉にこちらを向く。一人は黒人、もう一人は金髪の白人男性だ。
「あっちがアダムで、こっちがノリス。一応団員だけど、自堕落コンビだから、あんまり関わらないこと」
と雑に指を差す怪訝な表情のミオン。
「自堕落一号だ。よろしくな」
黒人のアダムが右手を挙げた。
「同じく二号。嬢ちゃんのお陰で今日は酒盛りが出来る」
白人のノリスは顎髭を触った。
「ほら行きましょ。さっさと離れないとクズが感染る」
イナオは二人に一礼し、その場を後にする。それから廊下に沿って真っ直ぐ進み、突き当たりにある部屋の戸をミオンがノックしてから開いた。
「来たわよアズマ」
部屋にいた男は分厚い本を棚に戻そうとしている途中だった。
「なんだ。随分と早かったんだね」
東洋人の優男は柔和な笑みを浮かべる
「ようこそ、我が古長忍士団へ」
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