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第二節 落日は海鳴りに燃ゆる9

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 潮風に煽られる長い赤銅色の髪が、ふわりとリーヤの肩に触れ、零れ落ちた髪束が流れるように揺れていた。
 跳ね上がる前髪から覗く、魔眼と呼ばれる左右異色の瞳。
 右の瞳は、澄み渡る銀水色、左の瞳は、異形と呼ばれる鮮やかな緑玉色。
 すらりとした長身が、どこか、あの無粋なアーシェの魔法剣士を思わせる、その青年は・・・・
 タールファの街で遭遇した、自らを悲劇の英雄イグレシオ・ローティシア・アーシェと名乗る、実に不思議な気配を持つ、あの青年だったのである。
 彼は、精悍な唇の隅で小さく微笑すると、あの時のように、実に丁寧で穏やかな口調で言うのだった。

「ご無礼をお許しください・・・・今、貴女に、その剣を抜かれては困ります故・・・・」

「な、何故貴方が此処に!?離しなさい!!」

 強く抱きすくめるその腕に抗いながら、リーヤは、蛾美な眉を鋭く眉間に寄せて、驚きと怒りの声を上げた。
 激しく抵抗する彼女の体を、更に強い力で抱きしめると、古の英雄イグレシオは、実に落ち着き払った口調で言葉を続けるのだった。

「今宵、月闇の夜が訪れます・・・・その前に、貴女に、ぜひともお見せしたいものがあるのです・・・・」

 激昂した様子で身を捩る彼女を、大きな両腕で抱きすくめたまま、その顔色を少しも変える事もなく、イグレシオは、魔眼と呼ばれる神秘的な眼差しで、眼下に広がるサーディナの街を見つめたのだった。
 繊細で端正なその横顔を、臆しもせず真っ向から睨み付けると、リーヤは、凛と立つ花の如き強い顔つきをして、鋭く言い放ったのである。

「一体、私に何を見せると言うのです!?この手を離しなさい!!」

 その時、彼女は、ふと、あることに気が付いて、ハッとその身を震わせた。
 この青年は、闇の者であるはずなのに・・・
 何故だろう、彼女を抱きすくめるその腕が、そしてその体が、微かだが、人としての温もりを持っている・・・・

「貴方は・・・・人であるままなのですか・・・っ!?
400年を生き続けているのに!?貴方は、人なのですか!?」

「・・・・・・・・・・」

 リーヤのその言葉には何も答えず、イグレシオは、どこか切なく、しかしどこか鋭い表情をして、静かに言うのである。

 「鍵たる御方・・・・貴女のお心は、今、ひどく乱れておいでだ・・・・
 今も昔も、我が主君は、人の心を魅了しては翻弄し、そしてかき乱す・・・・・それが、ご自分の望むところ望まぬところ、あの眼差しに囚われた者は、皆、その運命を変えられてしまう・・・・・・・貴女も既に、あの眼差しに囚われているのでしょう・・・・・・
そして、この私もまた・・・・あの眼差しに囚われ、運命を変えられた者の一人・・・・」

 それは決して、リーヤの質問に関する答えではない。
だが、囁くように紡がれた彼のその言葉と声には、何ゆえか、言い知れぬ苦悩と悲哀が混じっている。
 次の瞬間、怒涛のようにリーヤの心に流れ込んできたのは、苦しくも切ない、嵐の海のようにさざめき乱れる感情の渦であった。
 これも彼の持つ魔力なのだろうか・・・・
 敬愛と憎しみが入り混じり、千々乱れて打ち寄せる複雑な彼の感情が、手に取るように、今の彼女にはわかる・・・
 もちろんそれは、リーヤ自身の感情ではない・・・
 恐らくは、このイグレシオと名乗る青年のもの・・・
 しかし、何故だろう、今、リーヤの心までも、痛みを覚えるほど強く締め付けられている。
 互いの心が無意識に共鳴しているかのような、実に奇妙で不可解なその感覚。
 凛とした紺碧色の瞳を大きく見開き、リーヤは、イグレシオの鋭くも切な気なその横顔を、ただ、真っ直ぐに見つめすえたのだった。
 緋色のマントを羽織るなだらかな肩が、何ゆえか小さく震えた。
 そんな彼女の視線の先にあるのは、深い悲しみを宿しながら、ただ、真っ直ぐに凪いだ海を見つめる、左右の瞳の色が違う神秘的な魔眼である。
 銀水色と緑玉のその眼差しが、にわかに鋭く細められた。

「闇を一つ・・・・この街に落とします・・・・よくご覧ください・・・・
我御方が、どれほどまで恐ろしい御方か、時が来る間際の今であれば、その力の少しも見ることができましょう・・・・」

「な、なにを・・・・!?」

 驚愕したリーヤの眼前に、ふと、イグレシオの右腕が差し伸ばされる。
 同時に、彼の長い指先が差し示す地面に、あのアーシェの魔法剣士が纏う炎と同じ、紅蓮に燃え立つ一筋の爆炎が吹き上がったのである。
 轟音を上げ、金と朱の焔を上げる灼熱の炎。
 不意に、彼とそしてリーヤの肢体を、甲高い声を上げた蒼き疾風が、渦を巻きながら取り囲んだ。
激しい旋風のただ中に、イグレシオの艶やかな赤銅色の髪が、千切れんばかりに棚引いている。

「!?」

 広い肩に羽織られた深緑のロ―ブがさざめくように揺れ、巻き起こる旋風が、リーヤの美しい巻き髪をも激しく虚空に乱舞させた。
 その大きな瞳を見開いたまま、リーヤは、驚愕と戸惑いに苛まれ、ただ、ひたすら呆然とするばかりである。
 困惑する彼女の心を落ち着かせるかのように、イグレシオは、緋色のマントを揺らすその肩を、自らの胸に強く抱き寄せたのだった。
 この青年は、蒼き疾風を操りながらも、朱き炎をも操ることができる・・・
 それは、アーシェとロ―タス、その二つの一族の垣根を越えて、愛し合った者の間に誕生した彼がゆえ。
 彼は、産まれながらにして二つの一族の魔力を持つ者なのである。
 魔眼と呼ばれる、銀水色と緑玉の瞳が、乱舞する前髪の下で、今、鋭く大きく見開かれた。

「私が・・・何故『死人使い』と呼ばれるか・・・・お教えいたしましょう・・・
心根強き美しき姫よ・・・」

 彼がそう呟いた瞬間、吹き荒ぶ蒼き疾風が、眼前に燃え立つ紅蓮の爆炎を千々に散したのである。
 弾けるように無数の欠片となった深紅の炎が、虚空を駈ける蒼き疾風に浚われて、眼下の街サーディナへと豪速で舞い飛んだ。
 海辺の町全体に、薄い闇が波紋のように広がり、そこに降り落ちた爆炎の赤い欠片が、鬼火にも似た無数の小さな焔と成り果てる。
 穏やかな夕映えを迎えつつあったサーディナに、揺らめきながら分散し、拡散していく炎の群。
 古の英雄の腕の中で、リーヤは、晴れ渡る空を映した紺碧色の両眼を、ただ、ひたすら驚愕に見開くのだった。
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