15 / 63
第1章 シャノワーヌの娼婦
15
しおりを挟む
風の想いの向くまま、物語のページを大幅に遡っていく。
五年前のシャノワールの下町の酒場。
アッセンブル皇国の皇太子を庇ってくれた小さな娼婦がいた。
皇太子の名はリシャール・サシャ・クレモン・アーチュウ・グランメール。
後にリカルド・アルコスと異国風の通り名を使い医師として方々を駆けまわる風変わりな王子となる彼はこの時はまだ娼婦という職の者すら知らない、無知な恵まれた王子だった。
グランメール王家の第二王子としてなに不自由なく育った青年をある悲劇が見舞った。
慕っていた兄の早世である。
アッセンブル皇国王として大国を統治していく未来を肩に負った少年は、世の中を見ることを欲した。
側近数名のみを伴った、国王夫妻の反対をおしきってのお忍びの一人旅であった。
数日前初めて、将来の国王となる意志を民に発表していた。
貧富の是正、動物愛護など、幼少の頃より胸にたぎらせていた理想も。
それに対する民への忌憚なき反応も知りたいと思った。
夜更け、側近たちを近隣に散らせ一人、庶民の服装をしたリカルドが一人、グラスを傾けていると、酒場の人々の話題はようやくそこに及んだ。
「なんだ、おもしろい記事でもあったか」
一人の男がテーブルに広げて数人が斜め読みしている記事に目を止めたのだ。
「ああ、王子の弟が発表した文言か」
テーブルを囲っていた一人が、億劫そうに椅子に足を投げだす。
「死んだ兄王のほうは優秀だったが、こちらはどうも、はずれ馬らしいな。医師を目指したいとか言う、気の狂った王子らしい」
「所詮こんなもんお題目に過ぎない。理想しか見てない、育ちのいいぼっちゃんだ」
本日何度目かになる歯ぎしりがリカルドを襲った。
どこへ忍んでいっても、聞こえてくるのは嘲笑や失望。
自分は夢を見ているのだと。
実際、その通りだと思った。
だからこそこの目で人々の生活を見たくてこうしてやってきた。
だが。
握り込んだ手に長くはない爪がくいこむ。
人々の心に届く君主には程遠いことを実感させられた。
幼い頃から政治も言語も歴史もなにもかも全力で吸収してきたつもりではあったが、自分はスタート地点にすら立っていない。
一息吐き出し、リカルドは立ち上がる。
旅の目的はもう、十分だろう。
民の意向とともに己の非力さを思い知れた。
出直しだ。
だが。
消化し慣れないリキュールが踏み出した足にたたらを踏ませる。
優秀だった兄のようにやれるのか。
偉大な父王にただ倣うだけでそれができうるのか。
皆目見当もつかないが。
不快なまどろみに身を任せたいような衝動。
直後、鈴の音のような声が耳に飛び込んだ。
「そう? なかなかいい演説だったと思うけど」
視線をやって、驚いた。
テーブル席を挟んだ向こう側のカウンターに座っていたのは少女だった。
年の頃は十代の前半、まだリカルドの年齢にも達していないと思われるほどの。
一目見たら忘れられない美貌。
だがその透き通るきめの細かい肌より、年齢不相応に魅惑的なオレンジペコの瞳や鬼百合の髪より、リカルドを驚かせたのが、そんな少女がこれまであまりに自然に下町の荒れたこの空間に溶け込んでしまっている事実だった。
「やりたいことをやろうとすると狂人扱いされる世の中だもの。ほんとうに狂ってるのは大衆なんだわ」
けだるげに髪をかきあげ、叩くそんな口ぶりすらも。
まるで大人と変わらない。
カウンターに捕まったままの不格好な姿勢でしばし立ち尽くした。
下町にはこんな子どもがいるというのか。
「パエリエ、大人の話に首をつっこむのはおよし。またませた娘のたわごとが始まったよ」
中年の女性にたしなめられても、少女は意に介さず大人びた笑みを浮かべる。
大人に付き合わされて覚えた酒を含んで。
「ただ一人正常なのよ」
長くカールさせたまつ毛をじらすように合わせ。
「きっと、そのおかしな王子様は」
がたりと頽れるような音がした。
全身が打ち震えるのを隠すようにコートを羽織り、勘定を済ませて店を走り出た青年のことを気に留めた者はいない。
城の庭と真逆の整備されていないごてごてした小道を、リカルドは走った。
熱い塊が喉に込み上げてきて。
力づき、土くれに倒れ込みながら、それを一人、飲み下す。
心臓が、背中に着いた土砂まで届きそうなほど激しく打っている。
目を閉じても焼き付いたように浮かんでくる、大人びた微笑。
夜空には王都からは見えない小さな星々が瞬いていた。
思えばそれが恋の始まりだった。
五年前のシャノワールの下町の酒場。
アッセンブル皇国の皇太子を庇ってくれた小さな娼婦がいた。
皇太子の名はリシャール・サシャ・クレモン・アーチュウ・グランメール。
後にリカルド・アルコスと異国風の通り名を使い医師として方々を駆けまわる風変わりな王子となる彼はこの時はまだ娼婦という職の者すら知らない、無知な恵まれた王子だった。
グランメール王家の第二王子としてなに不自由なく育った青年をある悲劇が見舞った。
慕っていた兄の早世である。
アッセンブル皇国王として大国を統治していく未来を肩に負った少年は、世の中を見ることを欲した。
側近数名のみを伴った、国王夫妻の反対をおしきってのお忍びの一人旅であった。
数日前初めて、将来の国王となる意志を民に発表していた。
貧富の是正、動物愛護など、幼少の頃より胸にたぎらせていた理想も。
それに対する民への忌憚なき反応も知りたいと思った。
夜更け、側近たちを近隣に散らせ一人、庶民の服装をしたリカルドが一人、グラスを傾けていると、酒場の人々の話題はようやくそこに及んだ。
「なんだ、おもしろい記事でもあったか」
一人の男がテーブルに広げて数人が斜め読みしている記事に目を止めたのだ。
「ああ、王子の弟が発表した文言か」
テーブルを囲っていた一人が、億劫そうに椅子に足を投げだす。
「死んだ兄王のほうは優秀だったが、こちらはどうも、はずれ馬らしいな。医師を目指したいとか言う、気の狂った王子らしい」
「所詮こんなもんお題目に過ぎない。理想しか見てない、育ちのいいぼっちゃんだ」
本日何度目かになる歯ぎしりがリカルドを襲った。
どこへ忍んでいっても、聞こえてくるのは嘲笑や失望。
自分は夢を見ているのだと。
実際、その通りだと思った。
だからこそこの目で人々の生活を見たくてこうしてやってきた。
だが。
握り込んだ手に長くはない爪がくいこむ。
人々の心に届く君主には程遠いことを実感させられた。
幼い頃から政治も言語も歴史もなにもかも全力で吸収してきたつもりではあったが、自分はスタート地点にすら立っていない。
一息吐き出し、リカルドは立ち上がる。
旅の目的はもう、十分だろう。
民の意向とともに己の非力さを思い知れた。
出直しだ。
だが。
消化し慣れないリキュールが踏み出した足にたたらを踏ませる。
優秀だった兄のようにやれるのか。
偉大な父王にただ倣うだけでそれができうるのか。
皆目見当もつかないが。
不快なまどろみに身を任せたいような衝動。
直後、鈴の音のような声が耳に飛び込んだ。
「そう? なかなかいい演説だったと思うけど」
視線をやって、驚いた。
テーブル席を挟んだ向こう側のカウンターに座っていたのは少女だった。
年の頃は十代の前半、まだリカルドの年齢にも達していないと思われるほどの。
一目見たら忘れられない美貌。
だがその透き通るきめの細かい肌より、年齢不相応に魅惑的なオレンジペコの瞳や鬼百合の髪より、リカルドを驚かせたのが、そんな少女がこれまであまりに自然に下町の荒れたこの空間に溶け込んでしまっている事実だった。
「やりたいことをやろうとすると狂人扱いされる世の中だもの。ほんとうに狂ってるのは大衆なんだわ」
けだるげに髪をかきあげ、叩くそんな口ぶりすらも。
まるで大人と変わらない。
カウンターに捕まったままの不格好な姿勢でしばし立ち尽くした。
下町にはこんな子どもがいるというのか。
「パエリエ、大人の話に首をつっこむのはおよし。またませた娘のたわごとが始まったよ」
中年の女性にたしなめられても、少女は意に介さず大人びた笑みを浮かべる。
大人に付き合わされて覚えた酒を含んで。
「ただ一人正常なのよ」
長くカールさせたまつ毛をじらすように合わせ。
「きっと、そのおかしな王子様は」
がたりと頽れるような音がした。
全身が打ち震えるのを隠すようにコートを羽織り、勘定を済ませて店を走り出た青年のことを気に留めた者はいない。
城の庭と真逆の整備されていないごてごてした小道を、リカルドは走った。
熱い塊が喉に込み上げてきて。
力づき、土くれに倒れ込みながら、それを一人、飲み下す。
心臓が、背中に着いた土砂まで届きそうなほど激しく打っている。
目を閉じても焼き付いたように浮かんでくる、大人びた微笑。
夜空には王都からは見えない小さな星々が瞬いていた。
思えばそれが恋の始まりだった。
0
あなたにおすすめの小説
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
王宮地味女官、只者じゃねぇ
宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。
しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!?
王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。
訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ――
さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。
「おら、案内させてもらいますけんの」
その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。
王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」
副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」
ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」
そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」
けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。
王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。
訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る――
これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。
★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。
【完結】地味な私と公爵様
ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。
端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。
そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。
...正直私も信じていません。
ラエル様が、私を溺愛しているなんて。
きっと、きっと、夢に違いありません。
お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
助けた騎士団になつかれました。
藤 実花
恋愛
冥府を支配する国、アルハガウンの王女シルベーヌは、地上の大国ラシュカとの約束で王の妃になるためにやって来た。
しかし、シルベーヌを見た王は、彼女を『醜女』と呼び、結婚を保留して古い離宮へ行けと言う。
一方ある事情を抱えたシルベーヌは、鮮やかで美しい地上に残りたいと思う願いのため、異議を唱えず離宮へと旅立つが……。
☆本編完結しました。ありがとうございました!☆
番外編①~2020.03.11 終了
【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました
ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。
名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。
ええ。私は今非常に困惑しております。
私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。
...あの腹黒が現れるまでは。
『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。
個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる