逆転の娼婦姫

ほか

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第1章 シャノワーヌの娼婦

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 風の想いの向くまま、物語のページを大幅に遡っていく。



 五年前のシャノワールの下町の酒場。



 アッセンブル皇国の皇太子を庇ってくれた小さな娼婦がいた。



 皇太子の名はリシャール・サシャ・クレモン・アーチュウ・グランメール。



 後にリカルド・アルコスと異国風の通り名を使い医師として方々を駆けまわる風変わりな王子となる彼はこの時はまだ娼婦という職の者すら知らない、無知な恵まれた王子だった。











 グランメール王家の第二王子としてなに不自由なく育った青年をある悲劇が見舞った。



 慕っていた兄の早世である。



 アッセンブル皇国王として大国を統治していく未来を肩に負った少年は、世の中を見ることを欲した。



 側近数名のみを伴った、国王夫妻の反対をおしきってのお忍びの一人旅であった。



 数日前初めて、将来の国王となる意志を民に発表していた。



 貧富の是正、動物愛護など、幼少の頃より胸にたぎらせていた理想も。



 それに対する民への忌憚なき反応も知りたいと思った。











 夜更け、側近たちを近隣に散らせ一人、庶民の服装をしたリカルドが一人、グラスを傾けていると、酒場の人々の話題はようやくそこに及んだ。



「なんだ、おもしろい記事でもあったか」



 一人の男がテーブルに広げて数人が斜め読みしている記事に目を止めたのだ。



「ああ、王子の弟が発表した文言か」



 テーブルを囲っていた一人が、億劫そうに椅子に足を投げだす。



「死んだ兄王のほうは優秀だったが、こちらはどうも、はずれ馬らしいな。医師を目指したいとか言う、気の狂った王子らしい」



「所詮こんなもんお題目に過ぎない。理想しか見てない、育ちのいいぼっちゃんだ」



 本日何度目かになる歯ぎしりがリカルドを襲った。











 どこへ忍んでいっても、聞こえてくるのは嘲笑や失望。



 自分は夢を見ているのだと。



 実際、その通りだと思った。



 だからこそこの目で人々の生活を見たくてこうしてやってきた。



 だが。



 握り込んだ手に長くはない爪がくいこむ。



 人々の心に届く君主には程遠いことを実感させられた。



 幼い頃から政治も言語も歴史もなにもかも全力で吸収してきたつもりではあったが、自分はスタート地点にすら立っていない。











 一息吐き出し、リカルドは立ち上がる。



 旅の目的はもう、十分だろう。



 民の意向とともに己の非力さを思い知れた。



 出直しだ。



 だが。



 消化し慣れないリキュールが踏み出した足にたたらを踏ませる。



 優秀だった兄のようにやれるのか。



 偉大な父王にただ倣うだけでそれができうるのか。



 皆目見当もつかないが。



 不快なまどろみに身を任せたいような衝動。



 直後、鈴の音のような声が耳に飛び込んだ。











「そう? なかなかいい演説だったと思うけど」











 視線をやって、驚いた。



 テーブル席を挟んだ向こう側のカウンターに座っていたのは少女だった。



 年の頃は十代の前半、まだリカルドの年齢にも達していないと思われるほどの。



 一目見たら忘れられない美貌。



 だがその透き通るきめの細かい肌より、年齢不相応に魅惑的なオレンジペコの瞳や鬼百合の髪より、リカルドを驚かせたのが、そんな少女がこれまであまりに自然に下町の荒れたこの空間に溶け込んでしまっている事実だった。











「やりたいことをやろうとすると狂人扱いされる世の中だもの。ほんとうに狂ってるのは大衆なんだわ」



 けだるげに髪をかきあげ、叩くそんな口ぶりすらも。



 まるで大人と変わらない。



 カウンターに捕まったままの不格好な姿勢でしばし立ち尽くした。



 下町にはこんな子どもがいるというのか。



「パエリエ、大人の話に首をつっこむのはおよし。またませた娘のたわごとが始まったよ」



 中年の女性にたしなめられても、少女は意に介さず大人びた笑みを浮かべる。



 大人に付き合わされて覚えた酒を含んで。











「ただ一人正常なのよ」











 長くカールさせたまつ毛をじらすように合わせ。



「きっと、そのおかしな王子様は」



 がたりと頽れるような音がした。



 全身が打ち震えるのを隠すようにコートを羽織り、勘定を済ませて店を走り出た青年のことを気に留めた者はいない。



 城の庭と真逆の整備されていないごてごてした小道を、リカルドは走った。



 熱い塊が喉に込み上げてきて。



 力づき、土くれに倒れ込みながら、それを一人、飲み下す。



 心臓が、背中に着いた土砂まで届きそうなほど激しく打っている。



 目を閉じても焼き付いたように浮かんでくる、大人びた微笑。



 夜空には王都からは見えない小さな星々が瞬いていた。















 思えばそれが恋の始まりだった。
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