なばり屋怪奇譚

柴野日向

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1章 足音は彷徨す

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 無意識だろう、揺れる瞳でその絵を見つめる男は、首元の傷痕に触れた。幼い頃の自分を描いた絵。それを描いたのは、もちろん奥野雄二自身ではない。
「その傷は、駅舎の工事の事故に巻き込まれてついたんだろう」
「……ええ」
 彰の言葉に、奥野は掠れた声でようやく頷いた。
「私たち……私と兄の雄一ゆういちは、その時に怪我をしました。幸い、私はかすり傷で済んだのですが、私を庇った四つ年上の兄は、重傷でした。あそこで遊ぼうと無理に誘ったのは、私の方だったのに……」
 棗はかつて羽島村であった事故の件を知り合いに聞き、その内容を教えてくれた。十三歳と九歳の兄弟が工事現場に忍び込み、事故に遭って怪我をした。その際に、弟を庇った兄は大怪我を負ったのだと。
「その兄貴を、あんたたちは死ぬまであの部屋に閉じ込めた」彰は苦々しく口元を歪める。「窓枠に釘を打ち付けた跡があった。窓を板かなんかで塞いで、ドアにも鍵をつけて逃げられないようにした」
 隣室と同じ南向きの窓があるにも関わらず、あの部屋の畳は焼けていなかった。ドアに関しても、外に鍵穴はついていたが、内側に鍵を解除するしかけはなかった。
 あそこは、弟を庇って怪我をした兄を、閉じ込めるための部屋だった。
「……兄は、事故の後遺症で片足が不自由になって……その、頭を怪我したせいで、知的障害も負ってしまったんです。意思の疎通が、難しくなってしまって……」
 奥野の声が震える。
「当初、私は兄を連れ出して遊びに行ったこともありました。これは、兄が家に帰ってから描いた、当時の風景だと思います」山の中の赤い鳥居と笑顔の少年。その絵を見つめる。この子どもらしい絵は、彼の兄が障害を負ってから弟を描いたものだ。
「ですが両親は……特に祖父は、彼の外出を認めませんでした」
「祖父っていうと、村長か」
 市のホームページに載っていた「奥野勇雄」の名前を思い出す。奥野は小さく一度頷く。
「当時はまだ、差別意識といいますか、閉鎖的な村では特にそれが強くて……とりわけ祖父は、孫が障害者であることが許せないようでした。元々、村おこしに駅舎の改築を斡旋したのは祖父でした。その最中の事故で怪我人が出たということを、少なからず汚点に感じていて」
「勝手な話だな」
 彰が吐き捨てるのに、奥野は唇を噛んで顎を引く。怪我をした孫に謝罪や同情の気持ちさえないまま、見当違いの恨みを持つだなんて。
「事なかれ主義の両親も、常に祖父には逆らわないようにしていて……村出身の二人の感覚も、祖父に近いものでした。兄を恥ずべき存在だとして、部屋には鍵を取り付けました。彼が窓から逃げようとしてからは、窓も封鎖して。祓い屋を呼ぶ際に怪しまれないよう、板を撤去したのは数か月前のことです」
「あんたたちは、兄貴の存在を消したままにしようとしたんだな。都合よく心霊現象だけ収めてもらえばいいと思ってたんだろ」
「……考えることを、拒否していたんです。私たちは兄から逃げ続けているんです」
 悲痛な声を出し、かぶりを振る。
「今さら事件にはならなくても、兄のことが広まる可能性は避けねばなりませんでした。村人たちには兄は病気で動けないのだと話していたので……勘付いている人はいたかもしれませんが……新しい人に知られる危険性を危惧していたのです」
「それで、実際の兄貴の死因は」
「熱中症です。窓も開けられないあの部屋で、彼は一人、亡くなりました。私は両親が彼を忌むのを見て、次第に兄が怖くなって、近づかなくなっていました。彼が死んだ時にはほっとしたんです。家族の重荷が消えた気がして、安心してしまったんです」
 胸糞悪い話だ。奥野の懺悔に、吐き気さえ覚える。弟を守った少年を、家族全員で見殺しにしただなんて。
「幽霊の正体は、足音ですぐにわかりました。片足を引きずる歩き方は、確かに兄のものでした。ようやく部屋を出ることのできた兄は、私たちを恨んでいるんです。祖父の死は偶然だったのか、それとも関係があったのかはわかりません。ですが、これ幸いと私たちは家を捨てて逃げました」
「それで、また殺したんですか」
 ずっと黙っていた晴斗が、静かに口を開く。
「心当たりのない幽霊だといって、もう一度彼を殺す気だったんですね」
 返事のできない奥野の前で、晴斗はスケッチブックの絵に指先で触れた。
「彼は、あなたたちを恨んでなんかいないのに」
「そんな……」
「恨みとか憎しみとか、そんな感情は残っていなかった。寂しい、悲しい、気付いてほしい。そういう想いだけ」
 色鉛筆に残された思念を辿り、晴斗は押し入れの布団の間に挟まれていたスケッチブックを見つけた。絵を描くことが好きだった、奥野雄一のもの。
「お祖父さんの突然死とは関係ない。偶然です。彼は、あなたたちが大好きだった。だから愛してほしかった」
「でも、私たちは……私は、助けてくれた兄を殺しました。今度は私が兄を助ける番だったのに。いつだって鍵を開けることはできた。なのにそれをしなかった」
「本当に恨んでいれば、こんな絵は描かない」
 晴斗の言葉に、奥野は彼が示す絵を見つめる。青い山。赤い鳥居。笑顔の少年。首の傷。喉に手をやり、今もあるそれに触れる。
「あんたが連れ出してくれた日のことを、兄貴はずっと覚えていた。後になって絵に残すほどにな」
 化けて出るほど憎く思いながら、笑顔の少年の絵を描くだろうか。わざわざ記憶をたどって描き残すだろうか。彰には、とてもそうは思えない。
 次第に嗚咽を漏らす奥野を、晴斗は見据える。「恨みの気持ちなんて、どこにもない」静かに言う。
「見て欲しい、気付いてほしい、愛してほしい。彼は今も、家族を愛しているだけ」
 震える腕がスケッチブックに伸びる。それを手に取り、絵をなぞる。笑顔の少年の顔に、雫が落ちた。
 ずっ……とん。ずっ……とん。
 廊下を足音が歩く。自分を閉じ込めていた部屋を出て、家の中を彷徨う足音。
 ずっ……とん。ずっ……とん。
 晴斗は口を閉ざし、彰も何も言わない。絵を抱く男の咽び泣く声だけが部屋にある。足音はもう近い。
「ごめん。本当に、ごめん。ごめんよ……」
 ずっ……とん。ずっ……。
「助けてくれて、ありがとう。……兄ちゃん」
 奥野が言葉を発した。その途端に足音は消え、代わりに風が吹き抜けた。爽やかで、どこか温かな風だった。
 三十余年の間、彷徨い続けた彼は、部屋を抜けて縁側を通り家の中から去った。呼吸も影も足音も持たない魂は、三人の鼓膜に無邪気な笑い声だけを微かに残していった。
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