30 / 54
3章 ノンフィクション
足音
しおりを挟む
嫌な音が聞こえる。少しずつ、音は大きくなっていく。
そんなもの聞こえないふりをして、少女はいつものようにからかいの言葉を口にし、少年は穏やかに笑ってそれを受け入れる。この日常だけでいいのに、どうしてこんな足音が聞こえてしまうのか。
この音が意味する言葉など、気のせいだと懸命に彼女は背を向けた。「崩壊」の二文字など、あと半年もない日々の中で感じたくないと、思った。
夜中の零時過ぎ。街は沈黙を守り、家々から人工の光は既に消え去っている。ぽつりと点在する街灯と、安い自動販売機が発する光に、集まった蛾が羽ばたくだけの秋の夜。
言葉さえない無表情のまま、彼女は見覚えのない車に僅かな違和感を抱いた。門の前に停まったのは、いつものグレーの乗用車ではなく、夜闇に目立たない黒っぽいバン。車内を見通そうとしても、窓のスモークフィルムのおかげで中の様子ははっきりとしない。
叔父が下りてきたのが予想していた運転席側ではなく、助手席側であったことに、少女は戸惑いを覚える。ちらりと見えた向こう側、運転席にはハンドルを握る知らない誰かがいる。
「誰、あの人」
エンジン音にかき消えそうな声は相手に届いたはずだったが、少女の細い手首は答えを得られず握られる。ふつふつと、彼女の中に恐ろしい想像が浮かび上がる。
「ねえ、これって……」
「お母さんは、寝てるよな」
やっとの思いで頷いた彼女に、醜い笑みを満足そうに浮かべると、早く去ってしまおうと叔父は彼女の手を引いた。
スモークの奥で、黒い影が動いた。息を呑む彼女は足を引こうとしたが、既に後部座席のドアが開いた後では遅すぎた。背骨がささくれ立つような、悲鳴さえも掠れる恐怖に捕らわれる彼女へ、伸ばされる太い腕が四本。
彼女が取り落した通学鞄を証拠隠滅にと拾い上げたその車は、深夜の町内を逃げるように去っていった。
嫌だと一度叫び、殴られた時、少女は五年も前のことを思い出した。あの時も切れた口から血をこぼしていたと、当時と似通った虚脱感に身を任せてぽつりと思った。どれほどの気概も圧倒的な暴力には敵わない。いくら惨めで悔しくとも、今は心を殺して凌ぐしかない。五年前と異なるのは、そんな有難くもない学びだけだった。
部屋に居るのは、五年分成長した少女と、その分老けた叔父と、叔父と同年代の彼女の知らない男が三人。
殺せ。殺せ。自分を、殺せ。理由の解らない涙を無意識に乾かしながら、少女は一生懸命に自分の心を殺害し、全てが終わる時間を待ち続ける。身体に響く痛みに歯を食いしばる。嬉しくない誉め言葉には、屈辱を感じる余裕さえ失った。ただ、金になると言った誰かの含み笑いに、自分の未来を想像し、背筋を凍らせた。
時間の感覚が分からない。だから、いつも通りに見上げた天井で、板の木目を数えようと目を凝らした。しかし、白くくすんだ壁紙の貼られた部屋に、そんなものは存在しなかった。
一人が、彼女の柔らかな頬を殴った手で、汗に湿る美しい髪を太い指に絡める。シーツに顔をうずめる少女が聞いたのは、投げやりかつ絶望的な台詞。
「もう薬はないんだ、菜々ちゃん」
ソファーで煙草の煙をくゆらせる叔父へ、彼女は辛うじて視線を動かした。薬は今持っている分で最後だという。何か言おうと声の出ない口を動かすが、それが面白かったのか、四人の男たちは下品な笑い声をあげた。
「学校も行かなくていいように、お母さんには言っておくから、問題はないよ。菜々ちゃんだって、学校は嫌いだって聞いたぞ」
それでもと言いたかった。
だが潰れてしまった喉は上手に声を出してくれない。詰まった胸では呼吸さえ難しい。彼女は形にならない言葉を、誰にも届かないそれを、シーツの上にぽたぽたと落とすだけ。
「どうせ、つんぼのカタワなんだ。大した将来なんてねえよ」
醜悪な本音を不幸にも拾い上げてしまった少女は、飽きない誰かに触れられながら、涙も声も出せないまま、ただひとりの名前を呼んだ。望んだ。絶望的な諦めの中で、たったひとつの愛しい希望を想うことだけが、崩壊してしまう心を支える、残された唯一の方法だった。
そんなもの聞こえないふりをして、少女はいつものようにからかいの言葉を口にし、少年は穏やかに笑ってそれを受け入れる。この日常だけでいいのに、どうしてこんな足音が聞こえてしまうのか。
この音が意味する言葉など、気のせいだと懸命に彼女は背を向けた。「崩壊」の二文字など、あと半年もない日々の中で感じたくないと、思った。
夜中の零時過ぎ。街は沈黙を守り、家々から人工の光は既に消え去っている。ぽつりと点在する街灯と、安い自動販売機が発する光に、集まった蛾が羽ばたくだけの秋の夜。
言葉さえない無表情のまま、彼女は見覚えのない車に僅かな違和感を抱いた。門の前に停まったのは、いつものグレーの乗用車ではなく、夜闇に目立たない黒っぽいバン。車内を見通そうとしても、窓のスモークフィルムのおかげで中の様子ははっきりとしない。
叔父が下りてきたのが予想していた運転席側ではなく、助手席側であったことに、少女は戸惑いを覚える。ちらりと見えた向こう側、運転席にはハンドルを握る知らない誰かがいる。
「誰、あの人」
エンジン音にかき消えそうな声は相手に届いたはずだったが、少女の細い手首は答えを得られず握られる。ふつふつと、彼女の中に恐ろしい想像が浮かび上がる。
「ねえ、これって……」
「お母さんは、寝てるよな」
やっとの思いで頷いた彼女に、醜い笑みを満足そうに浮かべると、早く去ってしまおうと叔父は彼女の手を引いた。
スモークの奥で、黒い影が動いた。息を呑む彼女は足を引こうとしたが、既に後部座席のドアが開いた後では遅すぎた。背骨がささくれ立つような、悲鳴さえも掠れる恐怖に捕らわれる彼女へ、伸ばされる太い腕が四本。
彼女が取り落した通学鞄を証拠隠滅にと拾い上げたその車は、深夜の町内を逃げるように去っていった。
嫌だと一度叫び、殴られた時、少女は五年も前のことを思い出した。あの時も切れた口から血をこぼしていたと、当時と似通った虚脱感に身を任せてぽつりと思った。どれほどの気概も圧倒的な暴力には敵わない。いくら惨めで悔しくとも、今は心を殺して凌ぐしかない。五年前と異なるのは、そんな有難くもない学びだけだった。
部屋に居るのは、五年分成長した少女と、その分老けた叔父と、叔父と同年代の彼女の知らない男が三人。
殺せ。殺せ。自分を、殺せ。理由の解らない涙を無意識に乾かしながら、少女は一生懸命に自分の心を殺害し、全てが終わる時間を待ち続ける。身体に響く痛みに歯を食いしばる。嬉しくない誉め言葉には、屈辱を感じる余裕さえ失った。ただ、金になると言った誰かの含み笑いに、自分の未来を想像し、背筋を凍らせた。
時間の感覚が分からない。だから、いつも通りに見上げた天井で、板の木目を数えようと目を凝らした。しかし、白くくすんだ壁紙の貼られた部屋に、そんなものは存在しなかった。
一人が、彼女の柔らかな頬を殴った手で、汗に湿る美しい髪を太い指に絡める。シーツに顔をうずめる少女が聞いたのは、投げやりかつ絶望的な台詞。
「もう薬はないんだ、菜々ちゃん」
ソファーで煙草の煙をくゆらせる叔父へ、彼女は辛うじて視線を動かした。薬は今持っている分で最後だという。何か言おうと声の出ない口を動かすが、それが面白かったのか、四人の男たちは下品な笑い声をあげた。
「学校も行かなくていいように、お母さんには言っておくから、問題はないよ。菜々ちゃんだって、学校は嫌いだって聞いたぞ」
それでもと言いたかった。
だが潰れてしまった喉は上手に声を出してくれない。詰まった胸では呼吸さえ難しい。彼女は形にならない言葉を、誰にも届かないそれを、シーツの上にぽたぽたと落とすだけ。
「どうせ、つんぼのカタワなんだ。大した将来なんてねえよ」
醜悪な本音を不幸にも拾い上げてしまった少女は、飽きない誰かに触れられながら、涙も声も出せないまま、ただひとりの名前を呼んだ。望んだ。絶望的な諦めの中で、たったひとつの愛しい希望を想うことだけが、崩壊してしまう心を支える、残された唯一の方法だった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる