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第2章 重なる不運は訝しく
03話
しおりを挟む‘ 逃げるな ’———と言われたところで、岬に脱兎の選択肢はなかった。
「岬、醤油が切れる。次の遣いで買ってくるのを忘れぬように」
「は、はい……」
なぜなら、精霊は居座るどころかエプロンまで拵えて、すっかり家主の風貌だったからだ。二つ目に、もうしっかり胃袋を掴まれかけていたからだ。
神妙に和装の眉目秀麗を見上げながら、岬は手を合わせた。
「いただきます」
「召し上がれ」
手狭な1DKに突如現れた同居人。精霊。十中八九、異性。
抵抗はなきにしもあらず、しかし違和感は覚えなかった。姿は変わっても、漂う香りや清廉な佇まいは、何時なんどきもリリィを沸き立たせた。
それに、妖花といえど人としての常識は携えていて。証拠に、シャワー中の脱衣所には一切足を踏み入れない。女二人住まいでも窮屈だった箱のなか、彼の振る舞いに“配慮”の二文字が初めて沁みた。
……そうだった。母親からの愛情とは別の、他人からの心遣いを受け取ったことはいままでに無かった気がする。
「ん、おいしい……!」
目を丸にして頬を押さえる。彼の大皿を彩る生野菜も一週間で随分と馴染んでしまっていたし、何より夕飯が日々の癒しになっていた。
温かいご飯、一汁三菜。母親を失くしてから、カップ麺と冷凍食品の往来が日常になっていた岬にとっては、紛れもなく絶景。ブリの照り焼きを頬張りながら、思わず目を細める。添えられた長ネギの香ばしさが五感を駆け抜ける。素材を生かした味付けも、頗る好みだった。
「本当に美味しい」
「今日は味見をしたからな」
「え……今まではしてなかったの……?」
「たまにはな。している」
たまに———岬は呑み込みながら、 人に為ったばかりの妖花のスペックに感嘆する。料理の才能はてんで無い岬は、少し骨が刺さった思いでいた。
「リリィって、器用なんだね」
「べつに普通だ。……それより、そろそろやめないか。その呼び名」
シャリ。玉ねぎを林檎のように齧りながら、薄い唇を割ったため息。その一息に、決して軽くない思いが込められる。母と付けた名前は捨てがたいけれど、“ リリィ ” という渾名は可愛らしすぎるのかも……、と逡巡した。
「やっぱり……女性っぽくて嫌だよね」
「草花ゆえ、明確に区分けされているわけではない……が、確かに俺は雄だ。リリィという響きも正直似つかわしくないとは思っている。まぁそれより、」
草花と花の違いってなんだっけ。首を傾げると、眉間に指の腹が押し当てられる。爪先がめり込まないよう反る配慮も、やはり彼は忘れなかった。
「“Lily” 単体は百合の意を表す。いけ好か……いや、どうにも引っかかっていた」
不自然な転換は岬の脳裏を通り越し、代わりになるほど、と拳を打つ。そして、不躾な呼び方を長年続けていたことに、少しばつが悪くなった。
「ごめんなさい……」
「謝る必要はない。ただ、引っ掛かっていただけだ」
「じゃあ……これからは何て、」
「厘」
「え?」
「俺の名だ。好きなように呼べばいい」
額から、指の腹が退く。同時に視線を逸らしながら、彼は眉を寄せた。
それが照れ隠しであることに気がついて、笑みを漏らす。
「わかった。厘って呼ぶね」
「ああ」
流された視線。頷いた後で結ばれた唇に、不覚にも胸が締まる。この不機嫌そうに艶めく唇とキスをした、なんて……未だ信じられない。「雄だ」とハッキリ告げられてから、その口元を意識する度、胸の中の信号が点滅を余儀なくされる。
岬は時おり彼を意識しながら、信号に急かされるようにおかずを平らげた。いつもより少し、喉を通しにくかった。
「ご馳走さま、厘。美味しかった」
「早いな。しっかり噛んだのか」
「……うん。噛んだよ」
「ならいいが」
信頼のない過保護な瞳に視線を下げる。
——— “ 今日は学校、どうだった? ”
誰かに嘘をつくのは母からの問いかけ以来で、懐かしさが込み上げる。おかげで緊張の糸は徐々に解れていく。
洗い物まで淡々とこなす厘の背中は、心地が良かった。隣に寄り添うと、すこし酸味を含んだ清廉な香りが、心を落ち着かせた。取り入れて、自分の体質が普通とはほど遠いものであることを思い出させた。
———何日ぶりか。その普通ではない体の変異が訪れたのは、下弦の月夜の事だった。
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