白の甘美な恩返し 〜妖花は偏に、お憑かれ少女を護りたい。〜

魚澄 住

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第2章 重なる不運は訝しく

04話

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『岬。ねぇ岬。聴こえてる? そろそろ気づいてくれてもいい頃合いじゃないかしら』

 脳の神経を爪で弾くような声。内側にのみ、響く声。例によって厘の手料理を平らげた後、洗い物の最中に岬は久しくその感触を味わった。

「う……っ」

『聞いていた通り、あなたは入りやすかったわ。それに、聴こえるのよね?この声が』

 聴こえている。少し嗄れた高い声。鼓膜を介さず、脳に直接通ずる音。岬は手を湿らせたまま額を押さえた。

 ここ最近は収まっていたのに……どうして今になって。

「岬」

 蛇口の水を止めたのは厘だった。

「洗い物はあとでいい。一旦休め」

 彼はいつになく真剣な瞳で貫く。岬はその言葉に従って、年季の入った座椅子に腰を下ろした。

「そろそろ来るとは思っていたが……案外早かったな」

「……?」

「岬、すこし触れるぞ」

 素っ頓狂な声をあげる間もなく、影が掛かる。厘が軽く、覆い被さったからだ。

「り、厘……」

 至近距離。慌てふためく岬に対して、彼は無言を貫いている。そのまま口を開くことなく、額に触れた。

「……っ」

 彼の薄い掌は、冷たいのに心地良い。細いのに骨張っているわけではない指も、安堵を誘う。しかし、吐息がかかりそうな距離にはどうにも身が持たない。……持たないよ、厘。
 岬は早鐘を打つ心音に体を熱せられながら、強く目を瞑った。

「……さすがに、これではどうにもならないか」

 直後、距離が保たれたと分かったころには正面で、形の良い唇が息を吐いていた。になりそうな胡坐姿で。

「あの、厘……今のは一体、」

『岬、聞いて。この男には“見えている”。正直、私はあんまり関わりたくない』

 再び響いた。先ほどよりも明確に、歯切れ良く伝う音。「この男」が厘を示すことに気がついたのと同時、彼はふっ、と片方の口角を持ち上げた。

「そいつの言うとおりだ。俺には、お前に憑いた霊が見えている」

「え……」

 大胆不敵に見える笑みが、不覚にも背筋をなぞる。……“聴こえる”自分ですら“見えた”ことが無いというのに。岬は目を丸くした。

「お前が正常に戻る以前からずっといていたな。まぁ、倒れた頃に憑いていたのはコイツではなかったが」

「正常、って……」

「宇美を……母親を失くしてから正常ではなかっただろう。お前は、いつも通りではなかった。憑かれている霊の声さえも、拾えないくらいに」

 淡々と紡がれる事実に、岬は頷いた。彼の言う通り、頭で響く声の主が“入れ替わった”事にすら、気づけていなかった。通常なら、必ず判るはずなのに———
 恐らく、厘と過ごした一週間で徐々に本来の感覚を取り戻していったのだろう。正常な、他大多数の人間からすると異常な感覚を。


『岬。もう聴こえているんでしょう?』

 憑いている霊の声が、再び響く。

「うん。聴こえてるよ」

 答えると、厘は鋭利な視線を向ける。的が自分自身ではなく、自分に憑依した霊魂だということに気がつくまで、そう時間は掛からなかった。

『やっと話せた。岬……私はあなたにずっと、会いたかったの』

 内側の、掠れた“女性の声”は弾んでいた。

『私の名はみさ、みさ緒よ。貴方の噂を聞いて、はるばるやってきたの』

 中の声に、岬は遠い夢のように思い出す。

 物心ついたころから共存してきた、憑依体質———

 謎は多く、原因は未だに不明。母親に『憑依』という言葉を学んで以来、掴んできたも特徴も幾つかある。
 霊の声ははっきりと聴こえて、意志疎通ができること。憑いている霊の姿形は可視化出来ないこと。周りの人間には霊の声は全く聴こえないということ。月の周期を終えるタイミング、すなわち満月の夜には、霊が体から離れていくということ。
 その後、今までに二度同じ霊が入ることは無かった。“中の声”といくら意気投合をしても、付き合いはおよそ一か月。みさ緒も、その例外ではない。

「噂というのは何だ。岬の体に棲みつき易い云々の情報が出回っているのか。お前ら、霊魂の間で」

 そして、今日新たに分かったこと———岬の他、厘に限っては中の声が同様に届いているということ。みさ緒の姿が見える事に関係しているのかもしれない。

『そういうことになるわね。久しぶりに生身の身体を味わえるとなれば、死びとの誰もが欲するでしょうよ』

「はァん……それでお前も噂を確かめに来たワケか。みさ緒ちゃん?」

 厘は、岬の頭部に視線を充てながら、口角を持ち上げた。その表情に身震いを覚えたのは、どうやら自分だけではないらしい。嗄れた声が『だから苦手なの。この人』と呻いていた。

「あの、厘」

「なんだ」

 ようやく厘と視線がかち合う。瞬間改めて、彼は本当にえているのだと悟った。

「知ってたの……?私の、その、体質のこと」

「そりゃあな」

「最初から、鈴蘭リリィのときから……?」

「知っていた。何と言っても、お前の体調面がままならないのは、その至極厄介な体質に紐付いているのだから」

 体質のせい……?
 今まで考えもしなかった。母親もそんなことを口にしたことは無かったし、同じく知らなかったはずだ。……たぶん、知らなかったはずだ。

「岬に憑依体質が無ければ、俺は早々にお役御免だろう。まぁつまり……お前の精気を吸い取っているのが、そいつら霊魂というワケだ」

 再び、厘の視線がくうへ移される。

「精気を、吸い取る……?」

 不穏な響きに、強く脈を打つ心臓。うなじの産毛が逆立ったのは、厘の視線が自分の後ろ側へ向けられていたからに違いない。十中八九、“彼女”はそこに———
 
『吸い取る、なんて心外よ』

 中からの反論に、岬は唇を固く結ぶ。

『私たちは別に、好きでそうしてるわけじゃないからね?岬』

 穏やかな声色に、少しばつが悪くなる。厘の言い分とは異なるみさ緒の主張に、岬は首を傾げた。今日だけで、知らない事実が鱗のように、斑に重なっていく。
 自分の体のことを、ただ不可思議で超現象的な事情として片付けていた今までを、こっそり悔いていた。

「何が心外だ。岬の生気を吸うと分かって憑いているのだから、等しく罪だろうが」

『うっ……何よ、この分からず屋……!』

 中の声が、徐々にヒートアップしていく。その甲高い声は容赦なく、内側から額にトゲを刺す。

「黙れネズミ」

『ネズミ!?何それ、どういう意味!?』

 厘の冷笑にも、みさ緒の叫びにも、岬には太刀打ちする気概はなかった。友人一人、まともに出来たことが無い小心者に、仲介役が務まるはずもなかった。

「とりあえず、だ。岬」

「……はっ、はい」

 中の喚き声を収めないまま、厘は続けるらしい。

「憑依にも種類がある。今の状態は、半分憑依ってやつだ」

 そして飄々と紡がれた馴染の無い単語に、岬は「半分憑依……」とオウムを返した。

「あぁ。憑依はされているが自我が保てている状態のことを、俺は呼んでいる。中に棲みつく霊魂と会話ができる事も、半分憑依の特徴だ」

 種類、と言われても、岬はその “ 半分憑依 ” 以外に思い当たる節はなかった。
 憑依で他に思い当たる事といえば、この世のものではない何か、見えない何かと話す姿を恐れる、周囲の目だけ。それでも岬は、中から響く声には必ず耳を傾けた。彼が呼ぶ、半分憑依の時には、必ず———

「じゃあ、他の憑依の種類って、」

『岬。そんな事どうでもいいから、私と一緒に話しましょうよ。ずっと待ってたんだから』

 遮ったのはみさ緒だった。
 霊は、欲に忠実かつ寂しがり屋。生前の性格を引き継いでいる事と別に、およそ共通しているその特徴を、岬は経験に教わっていた。別れ際、胸に空洞が掘られたように、ガランと穴が空くことも。

「おい、みさ緒。岬との話を遮るな」

 厘は不機嫌そうに腕を組む。

『岬はあんたとなんか話したくないの。さ、行こう。もう寝る時間でしょ?』

「あ、いや……確かにもう寝ないと……ね?厘もそろそろ寝よっか」

「……勝手にしろ」

 慣れない仲介を勝手でると、眉を寄せたままそっぽを向く妖花。どうやらいつも通り、この居間で一夜を越すようだった。
 あやかしといえど、異性は異性。同じ寝室で過ごす選択肢は、配慮に長けた厘には初めから無かった様に思う。耐性のない岬は、初日にも胸を撫で下ろした。それは、半分憑依が纏う今日も例外ではないと知り、改めて安堵した。

「おやすみ、厘」

「あぁ」

 それでも、「おやすみ」くらい言ってくれてもいいのになぁ……。岬は密かに眉を下げ、見送るように襖を閉めた。


『全く、本当に厄介者ね。あいつ』

「うーん……でも、良い所もたくさんあるよ。ご飯もすごく美味しいし」

『ふぅん。あんまり甘やかしちゃダメよ?』

 布団を被ると、みさ緒は『温かいわね』と微かに加えた。今までになくか細い声で、衣擦れの音に紛れてしまいそうなほどだった。

「寒くなったら、教えてね」

『平気よ。それより岬、今日は何を話しましょうか』

「え、っと……みさ緒ちゃんの、今の格好とかが気になるかな」

 どうにか話題を絞り出したが、みさ緒は『えぇ』と容赦なく不満を放つ。磨く機会のなかった会話センスが、不本意にも露呈した。

『そんなの直ぐに終わっちゃうじゃない。……まぁいいわ。私が着ているのは、全身黒のワンピース。どう?味気ないでしょ』

 それでも受け入れてくれたことに鼓動は緩み、思わず笑みを溢した。

「そんなこと……私もワンピース、よく着るよ。夏はとくに。みさ緒ちゃんは黒が好きなの?」

『全然。全っ然、好きじゃない。……ていうか、その呼び方やめない?みさ緒でいいから』

「う、うん……分かった、みさ緒」

 下弦の月夜。夜が更けっていくのを眠気から感じ取る。

 その後も声を交わし続けたが、みさ緒がただの霊魂ではない・・・・・・・・・、と気付く余地は無かった。少なからず、岬には無かった。

『岬』

「うん?」

『あなたって、もしかして処女? あんなのと暮らしてるくせに』

「へ……しょ?!」

『あぁー、顔の表面あついわ。これは図星ね?』

 むしろ、母親以来の(少し刺激の強い)女子トークに、密かに高揚していた。みさ緒に限らず、いままでも———この体に取り憑く霊魂が、友人と呼べる関係にもっとも近い存在だった。

「そ、そりゃあそうだよ……まだ十七だもん……」

 たった一ヶ月間、限定の。
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