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第6章 聖夜の夜は湿っぽく
29話
しおりを挟む岬は、あんなに脆かっただろうか。
アパートへ戻ったあと、厘はシャワー音を背に思い返していた。遊園地という奇怪な場所で起きた、出来事すべてを。
「……細すぎる」
感触の残る掌を見つめながら呟く。早妃が消えたあとはほとんど我を失った状態だったが、改めて意識がはっきりしているうちに締め付けると、いかに脆いかが身に沁みる。幾度か涙も零していた。体と同じく、涙腺も脆いらしい。……抱き着いてきたときだけは、やけに力んでいたが。
「ハァ……」
厘は額を抱え、長い息を吐いた。
———……どうする。次またアレをやられたら、幾らなんでも理性が持たない。強靭だったはずが、最近どうも調子を狂わされている。
「厘、上がったよ」
「……あぁ」
体の周りに湯気を纏いながら、脱衣所を出てくる岬。見たところ、前々から完全に安心しきっているようだが、実際は危ういことを彼女は理解していない。諸々弁えていたとして、此れは紛れもなく雄。ゆえに精気を注ぐと託つけて、今から口を塞いだっていい。……そんな度胸があるなら、の話だが。
厘は視線を背け、もう一度息を吐いた。
「ねぇ、厘」
「なんだ」
鼻腔を潜る、人工的な華々しい香り。嗅ぎ入れた瞬間、しまった、と眉を顰めた。
風呂上り。露わになった白いうなじ。首筋にしたる滴の残像。横目に捉えられたすべてが、心の臓と理性を抉る。
「厘は、欲しいものないの?」
おまけに柔く小首を傾げるなど、追い打ちでしかない。厘は傍に寄った娘に気取られないよう、淡白に「ないな」と答えた。
「でも……私だけ着付けしてもらうのも、」
「俺は———あぁ。あいつもだが、すでに貰っているだろう。水筒を」
「そう、だけど」
煮え切らない、というより、萎れている。岬は肩と視線を微かに落とした。……仕方ない。
「それなら、存分に水をくれ」
どうやら俺は、落ちている岬を見るのが苦手らしい。厘は自分の性に呆れながら、息と共に放った。
「お水?」
「ああ。出掛けていた分、今は特に欲している」
「……うん、分かった」
なにかを呑み込みながら、しかし有りっ丈の笑顔を見舞う岬。これだから、調子が狂う。
トポ、トポ、トポッ。大きなペットボトルから波線上に注がれる。両手で支えながら、心許なく注がれる。溢さないよう慎重なその姿を、厘の瞳はぼうっと見据えた。得たいの知れない温い感情に、戸惑った。
「お待たせ。注いできたよ」
差し出されたグラスに唇を寄せ、ものの数秒で呑みこんでしまう。岬は神妙に見つめていた。
「……どうかしたか」
「本当に、これだけでいいの?」
遠慮がちに放たれる。図星を突かれた。欲しいものは他にある。だが、岬が思い描いているモノとは確実に違うだろう。そう断言できる。
……思い知らせてみるのは愚行だろうか。岬にも分かるように、示してみるのは———。一瞬、そんな邪念が過る。一瞬、伸ばそうとした手を握る。一見、理性はやはり有能に思える。
「……———!?」
しかし次の瞬間には、握っていたはずの手で岬の後ろ首を捉えていた。
目の前で見開かれる黒い瞳に、卑しい口角がくっきり映る。有能な理性と凶暴な本能は隣り合わせ、ということを、厘は痛感せざるを得なかった。
「物足りないのなら、口移しで注いでみるか?」
「……え、」
「そうだ。精気も同時に摂り込めて、一石二鳥だろう」
喩えるなら、林檎かトマトか。まさにその色を成した岬は、音もなしに唇を動かした後でようやく退く。
「むっ、で、出来ないよ……っ」
パタンッ———。そして、そのまま自室へと逃げ込んだ。
「少々やりすぎたか」
岬の反応を思い返しながら、厘はククッと喉を鳴らす。掌に残った高温も、伝った彼女の汗も愛おしい。それにしても、なんだあの表情は。……余裕がないのは、こちらだというのに。
「……律しろよ。愚生」
深く息を吸い、吐く。額に手を当てながら、無理やり記憶を呼び起こす。あの表情を浮かべると、本能も熱した体温も鎮めることが出来る。
『この着物。厘は見たことある?』
あのとき、稀有な乗り物の中。もう電波を発しない携帯電話に映った、懐かしい彼女の姿。飾り気のない着物を纏った、宇美の姿だった。赤ん坊を抱き、陽だまりのような笑みを浮かべている。岬には未だあどけなさが残るものの、表情はそっくりだった。
———『大丈夫。私が必ず救ってあげるから』
当時の出来事には、概ね霧がかかっている。しかし、声と纏っていた着物だけは、解像度を高くして脳裏に浮かんだ。
———『お母さん、なにしてるの?』
駆け寄る幼子の足音。岬の声は現在よりも不安定で、舌足らずだった。宇美はその質問には答えず、ただ懸命に鈴蘭を地面から引き抜いた。
長い間。得体のしれない瘴気に侵されていた草花を、宇美は救い出した。
変哲のない河川敷。ざっと見渡しても、同じような草花はいくらでも咲いている。何度も通る人間でさえ、気づくことはなかった。しかし、ただ散歩に訪れただけの親子が、枯れ果てる寸前の運命を廻した。新しい居場所を与えた。
———『あなたは特別なんでしょう?ねぇ、リリィ』
彼女は、着物を湿った土で汚していた。構うことなく、泥まみれになった手で草花を持ち上げ、空に翳した。その声は、曇天のもとに差す陽だまりのようだった。
「宇美、俺はどうすればいい」
微睡みのなか、厘は天に向かって馳せる。
「あいつを……岬を、俺にくれないか」
そして、この世で一番愛しい娘を浮かべながら、緩やかに目を閉じた。
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