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連日雨続きだった。皆と温水プールに行った日から、三日が経ったが、それからずっとだった。まるで梅雨が再来したかと思うほどだ。
降り続く雨のせいで、気温が随分下がっていた。つい最近まで夏の気配がまだ残っていたものの、今ではすっかり秋の色に染まっている。お陰で江府高校へと続く心臓破りの坂を登ろうとも、一滴の汗もかくことはなくなった。だが、この雨だと、むしろ暑さの方がまだマシな気さえしてくる。
広希は下駄箱で靴を履き替える。ずっと続いてたラブレターは、もうほとんどなくなっていた。広希に『脈』がないと徐々に知れ渡り始めたのだろう。告白自体も、ここの所一度もない。
教室へ入り、入り口近くにいた千夏が、いつものように魅惑的な笑顔で迎えてくれる。
「おはよう。広希君。今日もモデルお願いするね」
何度か経験したので、結構平気で同じポーズを保っていられるようになった。今では苦なく悦に入ったものだった。とは言え、千夏の話を聞くと、絵がそろそろ完成間近らしい。つまり、モデルの仕事も佳境であった。
モデルの仕事が終わると、いよいよ美術部へと入部するかの答えを出さなければならなくなるだろう。
放課後。雨により、やや淀んだ空気の美術室の中で、広希は最近お馴染みとなった固定ポーズを取っていた。
目の前には、相変わらず真剣な面持ちの千夏。千夏は形の良い眉根を時折寄せながら、キャンバスへ塗りを行っている。
やがて、千夏から声が掛かった。マラソンを走りきった時のような、満足気な響きが含まれていた。
「お待たせ。広希君。完成したよ」
パレットに筆を置きながら、千夏は大きく伸びをしつつ、広希を手招きする。晴れやかな顔だ。
広希は立ち上がり、キャンバスの正面へ回り込む。
絵は確かに完成していた。油絵となった自分の姿。正確には、千夏の目を通して描かれた広希自身だ。
「すごい。綺麗だね」
広希は、嘆息した。素直な意見だった。
背景は薄いブラウンと黄色で構成されており、グラデーションが掛かったような描写がされていた。
そして、正面向いて描かれた自身の姿。毎日自分の姿を鏡で見ているため、そっくりそのままだとは言えないが、そこには芸術といった要素が加わっていることがはっきりと感じ取れた。
前から思っていた美化された部分はさて置き、何より美しく感じるのは、その肌だった。
肌の色の階調や、明暗など使い分けが絶妙で、現実のものより美麗に見える。理由を尋ねると、半透明色と不透明色を巧みに使い分けているらしい。手法も説明されたが、そのほとんどが理解できなかった。
「ようやく完成したね」
広希がそう言うと、千夏は、首肯しながら補足する。
「うん。後はちょっとした仕上げをして完了だよ」
そして、千夏はこちらに向き直り、頭を下げた。
「私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう」
「いいよ。気にしないで」
改めて感謝されると、少し恥ずかしくなる。広希は手の平を振って、宥めた。
「仕上げが終わったらこの絵、広希君にプレゼントするね」
「う、うん」
正直言うと、そこまで欲しくないのだが、断るのも気が引けた。広希は、曖昧に頷く。
その時、加奈子がやって来た。後ろに美樹と小夜もいる。皆、血の入ったペットボトルや水筒を手にしている。
「完成したみたいね」
加奈子達は絵を覗き込む。
「千夏さん、やっぱり色の使い方が抜群ね。肌の色のトーン、テールベルトを混ぜているんだ?」
「そうなんです。やっぱり外せなくて」
千夏と加奈子は、油絵談義に移った。そこは美術部員らしく、専門用語が飛び交い、油絵の知識が皆無な広希は、まるで着いていけなくなった。
ふと美樹と小夜へ目を向ける。二人は先輩達の話に水を差すつもりがないのか、所在なさ気に絵を眺めていた。だが、広希が見ていることに気が付くと、小夜は恥ずかしそうに目を背け、美樹は、にこやかに笑顔を返す。
「さて、広君」
加奈子はこちらに振り返った。ポニーテールが大きく振れる。
「美術部に入るかどうか答えは決まった?」
以前より、保留にしていた答えを加奈子は聞いてくる。その質問に対し、他の三人は、興味津々な様子で広希に目を向けた。特に千夏の眼光は鋭かった。
広希は一瞬、口ごもるが、思い切って答えを言う。もう自分の中で結論は出ていた。
「すみません。せっかくだけど断ります。向いていない気がして」
四人の間で落胆した空気が流れる。
元々、美術はさほど好きではなかったし、他に興味のある部活もあった。少し前から別の部活を選ぼうと考えていたのだ。
一瞬間を置き、千夏が口を開く。
「向いていないかどうかは、やってみなければわからないじゃない」
そこにはどこか、咎めるような感情が含まれていた。
広希は、自分を直視している千夏の様子を伺う。千夏の可憐な顔が、僅かばかり歪んで見えた。それは可愛らしい白い花でありながら、毒を持つ鈴蘭の花を思わせた。
「私も千夏さんに同意するわ。試しに一度、入部してみた方がいいんじゃない?」
加奈子が千夏の後押しをした。すると、次々に、合の手が上がった。
「加奈子先輩の言う通りです! 私もとりあえず入るべきだと思います!」
美樹が明るく言う。
「わ、私も架柴先輩に入部して欲しいです」
小夜もおずおずと口添えする。
広希は困惑した。
答えを聞かせて欲しいと言われたので、正直に話したまでだが、こうも聞き入れて貰えないとは思わなかった。だったら、始めから答えなど求めず、強引に勧誘すればいいのに。そう言葉が浮かんだが、もちろん口にしなかった。
「気持ちはありがたいけど、やっぱり遠慮します」
再度、広希は断った。やはり説得されても美術部という選択肢はなかった。食指が動かないのだ。
少しの間、沈黙が訪れる。窓の外からは雨音が聞こえてくる。随分雨脚が強くなったようだ。
「何が不満なの? もしかして道具が揃えられないとか?」
加奈子の質問に、千夏が手を小さく手を挙げた。
「それなら私が揃えてあげるわ。以前私が使っていた物もあるし、必要なら買ってあげる」
千夏は太っ腹な提案を行う。何が何でも広希に入部して欲しいようだ。そこまで強い気持ちを見せてくると、むしろ及び腰になってしまう。例え、学校一の美少女相手だろうと。
「次の休みの日、一緒に画材店まで一緒に行かない? 私が買ってあげるから。船橋の方まで行く必要があるけど、そこまでの移動費も私が出すよ」
千夏は一方的に話を進めようとする。このままでは、なし崩し的に入部することになりそうだった。そうでなくても、女子にそこまでさせたら、男として何かが駄目になりそうな気がする。
広希は、手の平を千夏に向け、若干語尾を強めて言った。
「本当にごめん。やっぱりどうしても美術部には入れないよ。他の部活を選ぶね」
そして、広希は頭を下げた。後頭部に、沈み込んだような視線を感じる。
顔を上げると、非常に気落ちした四人の顔が目に映った。
加奈子が口を開く。
「まあ、広君がそういうなら仕方がないわね。ごめんね。しつこくて」
そして、加奈子はペットボトルを傾け、血を飲む。柔らかそうな加奈子の唇が、赤く濡れていた。
千夏は俯いていた。だが、やがて加奈子と同じように、水筒に口をつける。ダイヤブロックをあしらった可愛らしい水筒。よほど血を欲していたのか、運動後の人間のように、多量に飲んでいた。
血を飲み終えた千夏の顔は満足気ではなかった。その目には滾る何かを孕んでいた。
外から、シンバルを力任せに叩き付けた時のような、耳障りな雷鳴が轟いた。
反射的に窓の外を見る。朝から降り続けた雨はさらに勢いを増し、ついには雷まで鳴り始めたようだ。帰りの心配と、言い知れぬ一抹の不安が首をもたげる。
雨はまだまだ止みそうになく、これからさらにひどくなりそうだった。
降り続く雨のせいで、気温が随分下がっていた。つい最近まで夏の気配がまだ残っていたものの、今ではすっかり秋の色に染まっている。お陰で江府高校へと続く心臓破りの坂を登ろうとも、一滴の汗もかくことはなくなった。だが、この雨だと、むしろ暑さの方がまだマシな気さえしてくる。
広希は下駄箱で靴を履き替える。ずっと続いてたラブレターは、もうほとんどなくなっていた。広希に『脈』がないと徐々に知れ渡り始めたのだろう。告白自体も、ここの所一度もない。
教室へ入り、入り口近くにいた千夏が、いつものように魅惑的な笑顔で迎えてくれる。
「おはよう。広希君。今日もモデルお願いするね」
何度か経験したので、結構平気で同じポーズを保っていられるようになった。今では苦なく悦に入ったものだった。とは言え、千夏の話を聞くと、絵がそろそろ完成間近らしい。つまり、モデルの仕事も佳境であった。
モデルの仕事が終わると、いよいよ美術部へと入部するかの答えを出さなければならなくなるだろう。
放課後。雨により、やや淀んだ空気の美術室の中で、広希は最近お馴染みとなった固定ポーズを取っていた。
目の前には、相変わらず真剣な面持ちの千夏。千夏は形の良い眉根を時折寄せながら、キャンバスへ塗りを行っている。
やがて、千夏から声が掛かった。マラソンを走りきった時のような、満足気な響きが含まれていた。
「お待たせ。広希君。完成したよ」
パレットに筆を置きながら、千夏は大きく伸びをしつつ、広希を手招きする。晴れやかな顔だ。
広希は立ち上がり、キャンバスの正面へ回り込む。
絵は確かに完成していた。油絵となった自分の姿。正確には、千夏の目を通して描かれた広希自身だ。
「すごい。綺麗だね」
広希は、嘆息した。素直な意見だった。
背景は薄いブラウンと黄色で構成されており、グラデーションが掛かったような描写がされていた。
そして、正面向いて描かれた自身の姿。毎日自分の姿を鏡で見ているため、そっくりそのままだとは言えないが、そこには芸術といった要素が加わっていることがはっきりと感じ取れた。
前から思っていた美化された部分はさて置き、何より美しく感じるのは、その肌だった。
肌の色の階調や、明暗など使い分けが絶妙で、現実のものより美麗に見える。理由を尋ねると、半透明色と不透明色を巧みに使い分けているらしい。手法も説明されたが、そのほとんどが理解できなかった。
「ようやく完成したね」
広希がそう言うと、千夏は、首肯しながら補足する。
「うん。後はちょっとした仕上げをして完了だよ」
そして、千夏はこちらに向き直り、頭を下げた。
「私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう」
「いいよ。気にしないで」
改めて感謝されると、少し恥ずかしくなる。広希は手の平を振って、宥めた。
「仕上げが終わったらこの絵、広希君にプレゼントするね」
「う、うん」
正直言うと、そこまで欲しくないのだが、断るのも気が引けた。広希は、曖昧に頷く。
その時、加奈子がやって来た。後ろに美樹と小夜もいる。皆、血の入ったペットボトルや水筒を手にしている。
「完成したみたいね」
加奈子達は絵を覗き込む。
「千夏さん、やっぱり色の使い方が抜群ね。肌の色のトーン、テールベルトを混ぜているんだ?」
「そうなんです。やっぱり外せなくて」
千夏と加奈子は、油絵談義に移った。そこは美術部員らしく、専門用語が飛び交い、油絵の知識が皆無な広希は、まるで着いていけなくなった。
ふと美樹と小夜へ目を向ける。二人は先輩達の話に水を差すつもりがないのか、所在なさ気に絵を眺めていた。だが、広希が見ていることに気が付くと、小夜は恥ずかしそうに目を背け、美樹は、にこやかに笑顔を返す。
「さて、広君」
加奈子はこちらに振り返った。ポニーテールが大きく振れる。
「美術部に入るかどうか答えは決まった?」
以前より、保留にしていた答えを加奈子は聞いてくる。その質問に対し、他の三人は、興味津々な様子で広希に目を向けた。特に千夏の眼光は鋭かった。
広希は一瞬、口ごもるが、思い切って答えを言う。もう自分の中で結論は出ていた。
「すみません。せっかくだけど断ります。向いていない気がして」
四人の間で落胆した空気が流れる。
元々、美術はさほど好きではなかったし、他に興味のある部活もあった。少し前から別の部活を選ぼうと考えていたのだ。
一瞬間を置き、千夏が口を開く。
「向いていないかどうかは、やってみなければわからないじゃない」
そこにはどこか、咎めるような感情が含まれていた。
広希は、自分を直視している千夏の様子を伺う。千夏の可憐な顔が、僅かばかり歪んで見えた。それは可愛らしい白い花でありながら、毒を持つ鈴蘭の花を思わせた。
「私も千夏さんに同意するわ。試しに一度、入部してみた方がいいんじゃない?」
加奈子が千夏の後押しをした。すると、次々に、合の手が上がった。
「加奈子先輩の言う通りです! 私もとりあえず入るべきだと思います!」
美樹が明るく言う。
「わ、私も架柴先輩に入部して欲しいです」
小夜もおずおずと口添えする。
広希は困惑した。
答えを聞かせて欲しいと言われたので、正直に話したまでだが、こうも聞き入れて貰えないとは思わなかった。だったら、始めから答えなど求めず、強引に勧誘すればいいのに。そう言葉が浮かんだが、もちろん口にしなかった。
「気持ちはありがたいけど、やっぱり遠慮します」
再度、広希は断った。やはり説得されても美術部という選択肢はなかった。食指が動かないのだ。
少しの間、沈黙が訪れる。窓の外からは雨音が聞こえてくる。随分雨脚が強くなったようだ。
「何が不満なの? もしかして道具が揃えられないとか?」
加奈子の質問に、千夏が手を小さく手を挙げた。
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千夏は太っ腹な提案を行う。何が何でも広希に入部して欲しいようだ。そこまで強い気持ちを見せてくると、むしろ及び腰になってしまう。例え、学校一の美少女相手だろうと。
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千夏は一方的に話を進めようとする。このままでは、なし崩し的に入部することになりそうだった。そうでなくても、女子にそこまでさせたら、男として何かが駄目になりそうな気がする。
広希は、手の平を千夏に向け、若干語尾を強めて言った。
「本当にごめん。やっぱりどうしても美術部には入れないよ。他の部活を選ぶね」
そして、広希は頭を下げた。後頭部に、沈み込んだような視線を感じる。
顔を上げると、非常に気落ちした四人の顔が目に映った。
加奈子が口を開く。
「まあ、広君がそういうなら仕方がないわね。ごめんね。しつこくて」
そして、加奈子はペットボトルを傾け、血を飲む。柔らかそうな加奈子の唇が、赤く濡れていた。
千夏は俯いていた。だが、やがて加奈子と同じように、水筒に口をつける。ダイヤブロックをあしらった可愛らしい水筒。よほど血を欲していたのか、運動後の人間のように、多量に飲んでいた。
血を飲み終えた千夏の顔は満足気ではなかった。その目には滾る何かを孕んでいた。
外から、シンバルを力任せに叩き付けた時のような、耳障りな雷鳴が轟いた。
反射的に窓の外を見る。朝から降り続けた雨はさらに勢いを増し、ついには雷まで鳴り始めたようだ。帰りの心配と、言い知れぬ一抹の不安が首をもたげる。
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