我が家のお嬢様はわがままです

雪花

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我が家のお嬢様はわがままです

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 我が家のお嬢様、セシリア様はわがままです。

「なあ、セシリア。前にもちらっと話したがこの殿方はどうだ?ジェイムズ・マーランド殿。マーランド伯爵家の跡取りで、なかなかにハンサムだと思うんだが…」

 そう言って写真を取り出してセシリア様に見せているのは、セリシアお嬢様のお父様にしてコールドウェル家当主。つまりこのお屋敷の主、ハリソン様です。それに対して、セリシア様は自身の金髪ブロンドをかきあげ、首を振ります。

「でもそのお方、一度結婚された経験をお持ちなのでしょう?」
「あ、ああ…よ、よく知ってるな」
「キースが教えてくれましたから」
「そうか、キースが…」

 ハリソン様は、当家の執事バトラーである私の方をチラリと横目で見ました。「余計な事を…」とでも言いたげな表情でした。申し訳ありません、旦那様。お嬢様に聞かれた以上答えない訳にはいかないのです。

「いえ、再婚自体は悪い事ではないと思います」

 お嬢様は話を続けます。

「けれど、離婚の原因がジェイムズ殿の浮気にあるとか。そのような浮ついた殿方との縁談などまっぴらです」
「わ、分かった…それじゃあ、ゴードン殿はどうだ?ゴードン・リックウッド子爵殿。あの方ならば何度かお会いした事があるだろう」
「ゴードン殿には、芯がありません」
「なんだ、その芯というのは」
矜持プライドというのかしら。何がなんでも貫きたい何かがあの方には欠けています」
「そんな事を言われてもなあ…」

 ハリソン様は頭を抱えてしまいました。

「お前も今年で二十歳だ。そろそろ嫁ぎ先を見つけなければ。縁談を突っぱねてばかりでは貰い手がなくなってしまう」
「そう仰られても、嫌なものは嫌なのです」
「なあ、セリシア。これはお前のためなんだよ。そうわがままを言わず…」
「私がわがままなのは今に始まった事ではないでしょう?お父様」
「まあ、そうだが…」

 そこで私はハリソン様に歩み寄り、僅かに上体を傾かせつつ声をかけました。

「旦那様、そろそろお時間です」
「ああ、もうか」

 ハリソン様は懐中時計を取り出し、時刻を確かめると立ち上がりました。

「それじゃあ、わしは狩りに行ってくる。縁談についてもう少し前向きに考えておいてくれ、セシリア」

 そう言い残しハリソン様は屋敷から出ていかれました。狩り、とは言っても生活の糧を得るための行為ではありません。貴族同士の社交としての狩猟です。

「まったく、お父様ったら。結婚、結婚って最近そればかり」

 お嬢様は不機嫌そうに頬を膨らませます。

「旦那様はお嬢様の事を心配なされているのですよ」

 私はそう言い添え、紅茶の入ったカップを差し出しました。

「分かってるわ。でも、嫌な事を受け入れるのは無理なの。それが私の気質というものよ」

 それは重々承知しています、お嬢様。あなたは昔からそうでした。

「キース、中心市街シティへ行くための馬車の手配はできているかしら?」
「はい、お嬢様」
「それじゃあ、お父様が留守の間に行って帰ってくるわよ」
「しかし当家の領地用邸宅カントリー・ハウスから中心市街シティまでの距離は10マイル以上。旦那様不在の間に往復するというのはいささか厳しいかと…」
「何を言っているのキース。厳しかろうが行くのよ。何しろ、今日は高級仕立服オートクチュール作品発表会ショウが行われるんだもの。絶対に見に行かないと。私のデザインした服も発表会ショウに出るんですからね」
「はい」

 お嬢様は一度わがままを言い出したら聞きません。旦那様に内緒で、こうやって中心市街シティへこっそりと出かけていくなどという事も日常茶飯事です。

「あら、キース」

 お嬢様は何かに気が付いた様子で私に歩み寄りました。そして足元を覗き込みます。

「あなた…スラックスの丈が少し短いんじゃないの…?」
「そうでしょうか?私は気付きませんでしたが…」
「いいえ、絶対に短いわ。おかしいわね。ちょっと前まではこんな事なかったはずなのだけど」
「もしかしたら、私の背が伸びたのかもしれませんね」
「え…?」

 お嬢様は目を丸くしました。

「あなた、私と同い年だから今年でニ十歳でしょう?それに、今だってもう6フィート(約182cm)もあるのにまだ成長が止まってないの!?」
「どうやらそのようです。さすがに伸びているといっても、ほんの少しでしょうが…」
「まったく…生意気ね。昔は同じ背丈だったのに」

 お嬢様は女性として特別小柄という訳ではありません。けれど、私ばかり背が伸びた事がどうにも気に入らないようです。

「あなたの足裏の肉を削ぎ落としたらそのスラックスに合う身長に戻るかしら」
「怖い事を仰らないでください」

 冗談だとは思いますが、このお嬢様なら本当にやりかねないという恐怖があります。

「まあ、いいわ…。あなたの足裏の肉を削ぎ落とすより、新しいスラックスを仕立てた方が早いもの」
「わざわざ新しく仕立て直されるのですか?私としては今のままでも問題ないのですが…」

 丈が短いと言っても、一目で違和感を覚える程のものではありません。事実、私はお嬢様に指摘されるまで気が付いていませんでしたから。

「何を言っているの。私の隣に立つのだからきちんとした身なりでいてちょうだい。それに、あなた…背は高いし、鼻筋は通っているし、黒髪も艶やかで綺麗だし。きちんとした格好をしていれば、なかなかの紳士に見えるわよ。いいものを持ってるんだから身だしなみを整えないと勿体ないわ」
「はい」

 私は頷くしかありません。お嬢様は、一度言い出したら聞かないのですから。

 私がお嬢様に仕える事になったのも、お嬢様のわがままが始まりでした。



 その日、僕は中心市街シティの路地裏で膝を抱いて蹲っていた。鈍色の空から落ちて来る氷雨ひさめが僕の体を濡らす。でも、そこから動こうとは思わなかった。

 僕の家はいわゆる下級地主ジェントリだったのだけれど、自由貿易の影響だとかなんだとかで農場経営が立ち行かなくなったらしい。それで、父さんと母さんは農場を売って僕と一緒に中心市街シティへ出てきたんだ。ここなら工場での働き口があるからって。

 中心市街シティへ到着したその日、路地裏で僕の肩を掴んで父さんは言った。

「ここで少し待っていてくれ、キース」

 僕は問い返す。

「少しって、どのくらい?」
「少しは…少しさ」

 そう言った父さんの顔は、なんだか悲しそうだった。

「じゃあね…キース」

 僕を撫でる母さんの手は、少し震えている気がした。

 それから、三日。父さんと母さんは、帰って来ない。

 僕は分かっていた。うちの家は沢山の借金をしていた事。僕みたいな子供は、中心市街シティで働く上で邪魔でしかない事。僕はまだ7歳だったけれど…でも、分かってた。父さんと母さんはもう二度と僕の前に現れないって事を。

 だけど僕は路地裏から動かない。お腹が空いて目の前がかすんできても、雨が降ってきて体が震えても…ずっと。そんな僕の前に、人影が立った。

「ねえ、あなた…ずっとここにいるの?」

 僕は顔を上げる。癖のない金髪ブロンド水色スカイブルーの瞳を持つ女の子だった。身なりからして貴族だという事が一目で分かった。ただ、どうして貴族の女の子がこんな所にいるんだろう。雨が降っているのに傘も差していない。

「あなた、昨日もここにいたわね。ひょっとして、あれからずっとここにいるのかしら」

 僕は無言で頷いた。本当は三日前からここにいるけれど、それをわざわざ説明するのもおっくうだった。

「なにも食べずに?」

 再び頷く。

「どうして?」
「お父さんとお母さんに置いていかれたから」
「そう…」

 少女は僕の顔を覗き込む。

「何にしても、ずっとここにいては風邪をひいちゃうわ。もしかして、もう風邪引いてるの?辛くて動けないのかしら…?」

 僕は首を振った。

「だったら、なんでずっとここにいるの?死んじゃうわよ?」

 女の子の言いたい事は分かった。何かの事情で僕がひとりでいるのだとして、それならそれで生きるための努力をするべきだ。例えば大通りに出て物乞いをするとか、貧民街スラムに行って同じ境遇の仲間に助けてもらうとか。そうしなければ飢え死にしてしまう。でも、僕はそうしなかった。

 どうしてだろう?僕は、父さんと母さんが僕の前に現れるのを期待していたんだろうか。いや、違う。物乞いが恥ずかしいと思った?貧民街スラムみたいな場所には行きたくなかった?ううん、全部違う。

 ああ、そうか。僕は…、

「だって、僕は…必要ないから」

 そう言うと同時に、涙がボロボロと溢れ出て来た。どうして僕は動こうとしなかったのか…生きようとしなかったのか。その理由がはじめて分かった。

 僕は、父さんと母さんにとって必要なのない人間だった。僕は誰からも必要とされない。この世界に、生きている意味なんかない。だから…僕は、もう生きていたくなかったんだ。

「そう、それならちょうど良かったわ」

 そう言って、少女は僕の頬を撫でた。ちょうど良かった?どういう意味だろう。

「あなた、私に仕えなさい」
「え…?」
「私にとってあなたが必要なの」
「どうして…?」
「あなた、私と話をしていてご両親に対して一度も文句を言わないじゃない。それって…凄い事だと思うの」

 女の子は僕に笑いかけた。

「他人を恨まない人は信用できるって、亡くなった私のお母様が言っていたわ。そういう人を見つけたらそばに置きなさいって。だからあなたはいらない人間なんかじゃない。私にとって、必要な人間なの。――さあ、ついて来なさい!」

 女の子は僕の前に手を差し出した。でも、僕はその手を握るのが怖かった。だから目を伏せた。

「あら?ひょっとしてあなた、私から逃げられると思っているの?こう見えて私、もの凄いわがままなのよ。あなたが折れるまで、ここから動かないわ」

 そう言って僕の目の前で座り込んでしまった。スカートが泥だらけになる事もお構いなしだ。

 それから日が暮れるまで、女の子は僕の前にじっと座り続けた。

 ああ、この子はきっと、僕がうんと言うまでここから動かないんだろうな、と思った。僕は女の子の言葉を信じる事は出来なかった。本当に、僕みたいな人間が誰かに必要とされているなんて信じられなかった。だけど、このままずっとここにいては女の子が風邪を引いてしまう。自分のせいで誰かが不幸になるのは…嫌だった。

 だから、僕は女の子の手を握った。

 女の子は満足したのか、にっこりと微笑む。寒さで震えていたけれど…でも、とても満足した表情だった。

「私の名前はセリシア・コールドウェルよ。あなたの名前は?」
「キース・カウリング」
「いい名前ね。よろしく、キース」




 中心市街シティにあるコールドウェル家の都市用邸宅タウンハウスに行くと、ハリソン様は驚きと喜びの表情でお嬢様を出迎えました。どうやら、お嬢様はこっそりと都市用邸宅タウンハウスを抜け出して中心市街シティを見学していたようなのです。お嬢様は言いました。

「路地裏で迷っていたら、この子…キースが私を案内してくれたの。それで帰ってこれたわ」

 それは嘘でした。私は別にお嬢様を案内した訳ではありません。しかし、ハリソン様はお嬢様の言葉を信じ、私に礼を言いました。

「そうか、助かったよ」
「ねえ、お父様。感謝しているのでしたら、キースを我が家の使用人として雇ってくださいませんか?」
「なんだと?」
「いいでしょう?キースがいなければ私、まだ路地裏をさまよっていたかもしれないのよ?」

 そんなやり取りを経て、私は雑務使用人ハウスボーイとしてコールドウェル子爵家に仕える事となりました。

 本来、貴族令嬢の身の回りのお世話は女性使用人が行います。しかし、セリシアお嬢様のお世話は私の担当でした。お嬢様が私を指名したのです。同い年という事で接しやすかったのかもしれません。以来、12年。私はお嬢様に仕え続けてきました。

 お嬢様は、とてもわがままです。しかしそのわがままにはお嬢様なり譲れない理由がある事を私は知っています。そんなセリシア様に仕える事が私にとっての幸せでした。先代の執事バトラーが老齢を理由に引退する際、私はその地位を引き継がせていただきました。過分な幸運と言えるでしょう。もっとも、私にとって最も重要な役目はお嬢様のお世話である事は変わりませんが。けれど、そんな日々もそろそろ終わりを告げようとしています。

 お嬢様は今年でニ十歳。ご結婚の時期です。現在、ご主人様がお嬢様に相応しい嫁ぎ先を探しています。もしご成婚の運びとなれば私は用済みでしょう。お嬢様に仕え続けてきた私ですが、嫁ぎ先までノコノコとついて行く訳には参りません。お嬢様と親しすぎる男性従者など、相手方の旦那様が快く思うはずはないのですから。

 おそらく、お嬢様が嫁入りなされても私はコールドウェル子爵家に残る事となるでしょう。コールドウェル家にはセシリアお嬢様以外のご子息、ご息女はいらっしゃいません。そのため、どこか傍系の血筋から養子を貰い跡継ぎとされるはず。私は、その方にお仕えするのでしょう。私とお嬢様の道は別たれるのです。その事を思うと何故だか胸に小さな痛みを覚えます。私は、叶う事ならばずっとお嬢様の傍で――。

 いえ、それは身の程知らずな望みというものでしょう。私はあくまで従者でしかありません。



「私のデザインした服の評判は…上から4、5番目と言った所だったわね」

 中心市街シティからの帰り、馬車の中でお嬢様は言いました。

「そうですね。今回は残念な結果でした」

 お嬢様の作品は、作品発表会ショウでは常に高い評価を得て来ました。しかし、今回は全体における中位程度。きっと気落ちしているだろうと思っていたのですが…それは私の杞憂でした。

「残念?ふふ、分かってないわねキース」

 そう言って、お嬢様はニヤニヤと笑います。

「…どういう事でしょうか?」
「ねえ、キース。あなたは高級仕立服オートクチュールについてどう思っていて?」
「それは…これからの時代を牽引するファッションではないかと…」
「違うわ。残念ながら、高級仕立服オートクチュールは一部の特権階級にしか広まる事はないはずよ。これから台頭してくる労働者階級の主流とはなり得ないでしょう。だって、高すぎるもの」

 確かに、高級仕立服オートクチュールは有名デザイナーの作った一点物。それ一着で工場労働者の一年分の給与を上回ります。庶民にとっては手の届かない代物でしょう。
 
「では、大勢の人間は安価で質素、画一的な既製服レディメイドを着たままの生活で変わりがないと…お洒落ファッショナブルが庶民の手に届く事はないという事でしょうか」
「それも少し違うわ」

 お嬢様は首を振ります。

高級仕立服オートクチュール既製服レディメイドの融合。それがこれからの主流になるはずよ。つまり、デザイナーの手がけた服を何百着、何千着と大量生産するのよ。今から何十年後かには、『お洒落』というのは『デザインされた既製服の中から自分にあった組み合わせを選ぶ』事になるでしょうね」

 自信満々にそう言ってのけるお嬢様ですが、私としては到底信じられません。基本的に、服装というのは高価な一点物、つまり仕立て服オーダーメイド高級仕立服オートクチュールと安価で画一的な既製服レディメイドに二分されています。デザイン性の高い既製服など、私には想像もつきません。

「例えば、今日私が作品発表会ショウで披露した服だけれど…あれ、他の服の二十分の一以下の値段で作ってあるのよ」
「そうなのですか…?」
「ええ。余計な装飾を取り払って、出来るだけ安価な製法を模索してコストカットを図ったの。例えば、今年の流行は菫色ヴァイオレットなのは知っているかしら?」
「はい。今日の作品発表会ショウで人気のある衣装はほとんどそうでしたね」
「だけれど、私は菫色ヴァイオレットは選ばなかった。染料が高いからよ。その代わり、安価な藍色インディゴを選んだわ。そのせいで人気は得られなかったけれど。だけれど…よ。1位になった衣装の二十分の一の値段で作られた服で、私は作品発表会ショウの上位五位には入る事ができた」

 お嬢様は唇を吊り上げました。いたずらが成功した子供のような笑顔です。

「1年分の給料を払っても買えない一位の服と、二十日分の給料で買える私の服。大衆が買うのはいったいどちらでしょうね。いえ、大量生産できればさらにコストカットが可能なはず…価格差はさらに広がるわ」
「お嬢様は、そこまで考えておられたのですか…?」
「当然よ」

 お嬢様は得意げに胸を張りました。

「まあ、こういった考えに至る事ができたのはあなたのおかげでもあるわ。今までお父様に内緒でちょくちょく中心市街シティに連れ出してくれていたから。だから…感謝してあげない事もないわよ」
「…身に余るお言葉です」
「さて、それでは最後の仕上げといきましょう」

 最後の仕上げ?どういう事でしょう。




 お屋敷に戻ると、すでに旦那様は帰宅なされていました。やはり旦那様が留守の間に中心市街シティまでの往復というのは無理があったようです。

「セシリア、こんな時間までどこに行っていた…!」

 私達を待ち受けていた旦那様は、怒り心頭といったご様子です。

「キース!お前がついていながら…!」
「申し訳ありません、旦那様」

 旦那様のお怒りはごもっともでしょう。年頃の娘が親に内緒で執事ひとりだけを連れて中心市街シティへ繰り出すなど、私もお嬢様もお叱りを受けて当然です。しかし、

「そんな事より、お父様」

 セシリアお嬢様にとっては、『そんな事』でしかありません。お嬢様にはこのくらいのわがままなど日常茶飯事なのです。

「私、結婚する事に決めたわ」
「な、何…!?」

 突然の申し出に、旦那様は驚きを露わにします。いえ、旦那様だけではありません。私も驚きました。

「ど、どうしたんだ突然…あんなに縁談を持ちかけても気乗りしなかったお前が…」
「その事を説明させてちょうだい、お父様」
「あ、ああ…。分かった」

 お嬢様の意外な言葉に、旦那様は無断外出の怒りなど霧散してしまったご様子です。

「私、服のデザイン。そして販売と流通を手掛ける事業に乗り出したいの」
「え…ど、どういう事だ?」
「これからは貴族と言っても前時代的な農地経営だけじゃあやっていけないでしょう?」
「いや、まあ、それはそうだが…」
「私には上手くいくと思えるプランがあるの。少なくとも試してみる価値はあるわ」
「うむ。そ、そうか…」

 近年では産業が勃興する反面、貴族の地位というものが徐々に脅かされつつあります。ハリソン様としても、お嬢様が服飾業界に乗り出したいという提案は一考の価値があると思ったのでしょう。

「それならそれで、わしとしてはお前の後押しは厭わないよ。だがそれと結婚に何の関係が?いや…」

 旦那様は何かに気が付いた様子で、はっと顔を上げました。

「そうか!服飾業界に乗り出すとなれば大きな後ろ盾が必要だな。わしなどよりもっと多きな後ろ盾が…。それで、財力のある有力貴族との婚姻を望むと。そういう事だな!」
「違います。お父様」

 お嬢様は首を振ります。

「私、キースと結婚しようと思うのです」
「は…はあ!?」

 旦那様は驚きのあまりあんぐりと口をお開けになられました。それも当然だと思います。なぜなら私も、旦那様と同じく大きな驚きに胸を打たれていたのですから。

 私がお嬢様と…結婚…?

「じ、冗談だろう?セシリア」
「冗談でこのような事は言いませんわ、お父様」
「…許さん、許さんぞセシリア」

 旦那様は身を乗り出しました。

「キースは庶民だぞ!」
「なぜ庶民と結婚してはいけないのですか?」
「わざわざ説明するまでもないだろう!」

 旦那様の仰る事は…きわめてまっとうです。貴族と庶民には越え難き壁がある。それがこの世界の常識コモンセンス

「たいだい、服飾業界に乗り出したいというお前の考えと、庶民であるキースと結婚するというのでは話が繋がらないではないか!」
「…本当にそう思いますか?」
「何が言いたい」
「少し話が変わりますが…貴族に対する庶民の感情というものを、お父様はどう考えていらっしゃいますか?」
「どう、とは言われてもな。一言では言い表せんだろう」
「はい。お父様の仰る通り、一言で言い表すのは難しいでしょうね。特権を持つ貴族に対して、庶民は敵意と敬愛という相反する感情を同時に抱いています」

 この指摘は的を得たものではないでしょうか。国民の大多数を占める庶民階級は、優雅な生活を営む貴族を苦々しく思うと同時に、王室や貴族文化を誇りにも思っています。

「私のデザインする服は多くの注目を集める事になるでしょう。というより、注目を集められないようではやっていけないといった方が正確かしら。その際、デザイナーである私の夫が『庶民出身』であるという事実は大きな武器になります。それは貴族と庶民の融和を表し、貴族である私に対する敵意を和らげてくれるはず」
「つまり、庶民の人気取りのためにキースと結婚する…という訳か?」
「さすがお父様、その通りです。私の服の購買層は庶民なのですから、庶民に対しての評判を良くしなければ。つまり、これはある種の『政略結婚』です」
「む…う…」

 ハリソン様は腕組みをします。

「無論、庶民だからと言って誰でも良いという訳ではありません。私と共に事業に関わる手腕の持ち主でなければ。かと言って、野心の強すぎる相手では逆に私の事業が乗っ取とろうとする危険性があります。その点、キースなら文句なしでしょう。キースは優秀ですし事業を乗っ取ろうという野心の持ち主でもありません。まあ、いつもムスっとした表情をしているのが難点と言えば難点ですけれど」

 いつもムスッとした表情をしている、という注釈は必要なんでしょうか…?

「…分かった」

 ハリソン様はゆっくりと頷きます。

「思い付きで言っているのではないのだな、セシリア」
「はい、勿論ですお父様」
「すぐには答えは出せん。だが、お前とキースの婚姻について…一考の余地はある。少し考えさせてくれ」
「ありがとうございます、お父様!」

 お嬢様はハリソン様に抱き着きました。その背を抱きしめながら、ハリソン様は私へと視線を向けます。

「しかし、キースがわしの娘婿むすこか…」

 そう呟き、眉尻を下げました。

「まあ、それはそれで…悪くはないな」

 身に余るお言葉に、私はそっと首を垂れました。





「…驚きましたよ、お嬢様」

 旦那様はお部屋に戻らました。そして二人きりとなってから、お嬢様に声をかけます。

「まさか、私と結婚などと…」
「あら、不服かしら?」

 お嬢様は得意げに笑って見せます。しかし、私と視線が合うとくるりと身を翻し後ろを向きました。

「ねえ、キース」
「はい」
「嫌だったら、いいのよ」
「…」
「あなたには、今まで沢山わがままをきいてもらったわ。だから、今回だけは…あなたにわがままを言う権利をあげる」

 お嬢様は私に背を向けたままです。その表情は、こちらからでは伺えません。

「結婚だのなんだの言ったけれど、別にあなたが嫌だったら応じる必要はないの。あの日…初めて会ったあの日、私はあなたの事が必要だと言ったわね。覚えているかしら?」
「忘れた事はありません」
「あの日以来、あなたは…私にとって、ずっとかけがえのない存在でいてくれたわ。それで、私、は…」

 お嬢様の声は僅かに震えているように思えました。

「これからも、あなたとずっと一緒にいたくて…それで…」
「…」
「お父様にあんな事を言ったのも…これまでやってきたのも、全部あなたと一緒にいたいからした事よ。でも、あなたがそれに従う必要はないとも思ってる。だから…好きに選んでちょうだい。あなたにだって、やりたい事があるでしょう?」
「お嬢様」

 私は、ゆっくりとお嬢様に歩み寄ります。

「それでは、私にわがままをお許しください」
「…っ。わ、分かったわ…。このお屋敷で働き続けてもいいし…何か他にやりたい仕事があるのであれば、出来る限りの事はするから。何でも望む事をやってちょうだい」
「それでは…」

 私は、お嬢様の前に立つとその背にに手を回しました。

「キ、キース…!?」

 驚いたお嬢様は私を見上げます。不安げな表情、目尻に浮かぶ僅かな涙。そんな彼女の唇に自分の唇を重ねる事を、私は躊躇いませんでした。

「キー…。ん…ぅ…」

 12年間ずっと一緒にいたにも関わらず、私はこの時初めてお嬢様の唇の柔らかさを知りました。

 触れ合っていたのは、ほんの僅かだったはず。しかし、私にとってはとても長い刻に感じられました。静かに唇を離せば、腕に抱いた華奢な体が私の胸を押し返します。

「い、いきなり何を…!」
「お嬢様が、何でもやりたい事をやっても良いと仰いましたので」
「え…」
「ですので、今一番したい事をさせていただきました」
「わ、私が言ったのはそういう意味じゃ…!」
「…ずっと、あなたのおそばにいさせてください」

 お嬢様の頬に顔を寄せ、耳元で囁きました。精一杯の想いを込めて。

「――この先もずっとあなたと一緒にいる事。それが私の望みです」

 しばらくの静寂。そしてお嬢様が私の背に手を回し…ゆっくりと私の体を抱きしめ返します。

「…分かったわ、キース。これからも、ずっと私のわがままに…付き合いなさい」
「はい」

 腕の中からお嬢様が私の顔を見上げます。そして、少し恥ずかしそうにはにかみました。私も微笑みを返します。

「ねえ、キース」
「はい」
「私、子供が好きなの。それに、お父様も沢山孫が生まれたら喜ぶでしょうし。だから、頼んだわよ」
「…?頼む、とは?」
「だから…結婚したら、いっぱい作るわよ。夜は寝かせないから」
「…」
「あ、そうそう。毎日ニンニクを食べなさい。精力が付くらしいわよ」
「…あの、お嬢様」

 私は思わず苦笑いしてしまいます。

「結婚すると決まった直後にそのような話はいかがなものかと」
「なに?不満があるの?」

 お嬢様は「ふふん」と胸を張って見せました。

「――言ったでしょう。私、わがままだって」
「…そうでしたね」

 我が家のお嬢様はわがままです。私はきっと、これから先もそのわがままに振り回されるのでしょう。死がふたりを分かつまで。

「それじゃあキース、付いて来なさい。地獄の果てまで付き合ってもらうわよ」

 …いえ、訂正します。お嬢様は死しても私を離すつもりはないようです。

 はい、お嬢様。ずっとずっと、あなたのわがままに振り回されましょう。
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感想 1

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みんなの感想(1件)

うさ
2022.08.04 うさ
ネタバレ含む
2022.08.07 雪花

ありがとうございます。後から見返して、理屈っぽすぎたかな…とか、色々と分かり辛いなあ…と思ってしまっていたので、こういった感想をいただけてとても嬉しいです。
こちらこそ読んで下さり本当にありがとうございます。

解除

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